迷いの森

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「あんまり構うのもどうかと思うよ」
 風使いは苦い顔をしていた。
 そうだね。とスィンは頷いた。頷くだけになってしまうだろうことは、自分も、相手もきっと分かっていた。





   

迷いの森







 最近、フィルはひとりでグレッグミンスターまで来るようになってしまった。さすがに自覚がなさすぎる。一度諭したが、「家出癖がついちゃったみたいです」と聞く耳をもたない。
「家出なのに、誰かを連れていたらおかしいでしょう?」
 ひとりで来たからといって、ひとりで帰らせるわけにもいかない。家出と言っているからには、きちんと軍師にも伝えずに来てしまっている可能性もあった。スィンはさっさと支度をして家を出た。
 フィルはにこにことその横に並びながら、スィンに手荷物を見せる。
「交易所に寄ってもいいですか?」
「すぐ済むだろうね?」
「済みます」
 仕方ないなと溜息をついて了承する。
 そうして交易所で交渉しているフィルを見ながら、どうしたものかなとスィンは頭を悩ませた。また、分かってくれるまできちんと諭すべきだろうか。もし万一、ひとりでいる時に何かあったらどうするのか。周りの人間にどれだけの心配をかけているのか。自分の立場を、どう捉えているのか。
 そう考えてから、多分それは自分が言うべきではないのだろう、と思い直す。
「お待たせしました」
 言った通り時間をかけずにフィルは戻ってきた。スィンは頷くと、バナーへ向かうために踵を返す。当たり前のようにフィルは横に並ぶ。
「怒ってます?」
「怒ってないよ」
 そうですか。とにっこり笑うフィルに、スィンはやりにくさを感じる。数ヶ月前は、犬のようにきゃんきゃんじゃれつかれてそれも困ったけれど、今ほどではなかった。
「怒ってはいないけど、少し呆れてはいるよ」
 きょとんと眼を瞬かせるフィルに、一瞬数ヶ月前の顔がだぶる。そういう顔は、変わっていないことに少しだけほっとする。「前も言ったけれど」
「ひとりで出歩くものじゃないよ。何があるか分からないんだから」
「今は一人じゃないでしょう。スィンさんがいるから」
「フィル」
 鋭い声にフィルは首を竦めた。それから少しだけ間を置いて、ごめんなさい、と呟く。
「それは、僕に言うことじゃない」
「迷惑を、かけている自覚はあるんです」
 迷惑じゃないよ。そう応えたスィンにフィルは頭を振った。「だって、ずっと――この間からずっと、僕の我が儘でスィンさんを困らせてる」
 ごめんなさい。もう一度フィルが頭を下げる。
「たまにうまく、呼吸ができない気がするんです。それから逃げるために、理由をつけている」
 りゆう? スィンの問いかけにもならない声にも、フィルは律儀に頷いた。
「――スィンさんは特別だから」
「特別?」
 心のなかで、スィンはゆるりと首を振った。そう思い込もうとしているだけだろう、そう告げるのを堪えた。けれど、それはフィルに伝わったのだろう。
「本当です」
 フィルは言い募る。「本当ですよ。スィンさんは、同盟軍の人じゃないし」
「むきになることはないよ」
 スィンは静かに言った。すぐに「むきになってなんかいません」と応えが返る。
「これを憎むことは、自然なことだと思う。たぶんね」
 右手の甲をフィルに向けてみせる。
「そんなふうに言わないでください!」
 弾かれたようにフィルが顔を上げる。その勢いの良さに、スィンが目を見開く。
 フィルは、もどかしげに唇を噛み締めている。何かを訴えたい、けれどその何かを飲み込むように。「どうして……」
「どうして、いつも、そうやって……」
 フィルは拳を握りしめた。
「僕はスィンさんを憎みたくないって、言いました」
「仕方のないことだってある」
 感情の有り様は、どうしたって制御しきれるものではない。憎いと、そう感じてしまうのならば、それを押さえ込むほうが苦しいはずだ。スィンもそれを知っている。フィルのなかに黒く渦巻く葛藤があることに気づいている。
「どこで折り合いを付けるかは、君の自由だよ。フィル」
 無理にこちらに近寄ることはないのだとスィンは諭す。近すぎる距離は、互いに苦しいばかりだ。フィルには多くの仲間がいる。心を許せるのは、スィンばかりではないだろう。自分とは、ここで一線を引いてしまうほうが、フィルのためになるとスィンは思った。
 フィルが望むのなら、ひととき慰めることは出来る。けれどそれだけだ。フィルのなかにある憎しみを消してしまうことは出来ない。
 だがフィルは引こうとするスィンを許さない。何かを決意したかのように顔を上げると、スィンの手をつかんだ。
「スィンさんは、今、距離が出来たと思っているかもしれいないですけど」
 闇の眠る右手を触れられるのは好きではない。自然と顔が強張る。
 そしてそれは、フィルも同じだった。掴んだ右手を、恐れるようにそれでいて激情を含む眼差しで見つめている。
「本当は、ずっとでした」
「ずっと?」
 返す言葉に、そうです。とフィルは頷いた。スィンの目にゆっくりと視線を合わせると、掴んだ手を、繋ぐように握り変える。
「ずっと、距離を置いていたのはスィンさんのほうです」
 スィンは返す言葉を探したが、見つからなかった。
 距離を置いていた。誰かを特別に思うことを、恐れていた。特別だと、何よりも大事だと思う人が増えるたびに、眠りに落ちる夜が減っていく。
 そっと逸らすように瞼を閉じた。フィルが繋いだ手を引いた。
「だから手を繋ぐんです。少しでも、それが縮めばいいから」
 その声に、憎しみがあるのかどうか。スィンには分からなくなった。

end

2011.05.09


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