知らない、癖

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 それは、騒がしい食堂のすぐそばだったり、誰かの笑い声が聞こえる通路だったり。
 不意に、しゃがみこみたくなる衝動に駆られる。
 まるで何かから身を守る術のように、小さく丸く、もう何も見たくない聞きたくないというように。




   

知らない、癖






「俺は一体何をやってるんだ……」
 しゃがみ込んでしまってから、アスランは自問した。答は出ない。
 角を曲がった先にあるのはアークエンジェルの食堂。
 船員誰にでも解放されたそこは、今は暖かな笑い声が響く。まるで、戦時下だと忘れてしまいそうに。
 しゃがみ込んでしまいながらも、アスランは耳を塞ぎたいとは思わなかった。それが騒音だとは思わないからだ。
 ただその先を踏み出せずに、けれど戻ることも出来ず、その場に崩れてしまった。
 どれくらいぼんやりしていたのか。その笑い声に良く知るものも混じっていることに気付いて、アスランは身を強張らせた。そんな必要はないと、分かっているのに。
「きら、」
 呟いた声は、鈍く通路の中で消えていく。


 何だか最近は、キラが知らないひとのようにアスランには思えた。
 三年前までの思い出を覚えている。あの濃密な日々は、きっともう二度と味わうことがないくらいに幸せな幼少期だったとアスランは思う。濃密過ぎて、三年経っても、細部まで思い出せるくらいだ。
 けれどそれも最近までだった。再会したキラは、甘ったれで泣き虫で意地っ張りで優柔不断でいい加減で――でも、譲れない確かなものを持っている、三年前と変わらないキラだと思った。思っていた。でも。
 まるで最近のキラは、知らないひとのようだとアスランは思う。
 見たことのない表情見たことのない仕草。
 三年も経てばと自分を納得させようとしたけれど、出来なかった。
 誰だろうと、首を傾げたくなる。泣きたくなるくらいの衝動。
 『最近』のキラは思い出のなかのキラを見ようとするアスランを引っ張っていく。キラに関する知らなかったことを突きつけられるたびに、あの濃密な日々がアスランから遠ざかる。霞んでいく。
 膝の間に顔を埋めた。
 泣きたいわけではなかった。胸のうちから零れてくる吐息は熱かったけれど、それは哀しみや寂しさとは別のところで働くものだと知っていた。
 キラ、と唇だけで韻を踏んだ。名を呼んだら聞こえてしまうかもしれないと思った。
 するとすぐに、かつり、と足音が聞こえて、慌ててアスランは顔を上げた。こんなところを見られたらなんと思われるか。
 けれど態勢を整える前に角を曲がって現れたのはキラで、アスランはますます混乱した。――名前を、呼ばなかったのに。
「アスラン?」
 しゃがんだ様子のアスランに、驚いたのだろう、キラが足早に駆け寄る。アスランはぼんやりとその様子を見ていた。現れたのがキラだったという理由で、立ち上がるタイミングを逸してしまった。
「どうしたの? 泣いてる、の?」
「泣いてない」
 心配そうに覗き込む表情が、三年前のものと重なって、アスランは微笑む。安堵が心に広がる。
「じゃあ、どうしたの? こんなところで」
 来ないから心配した、というキラの言葉に、ああ食堂で待ち合わせていたんだったと今更アスランは思い至る。しかしどうしたのかと問われても、応えられずアスランは気まずそうに立ち上がった。
「アスラン?」
「いや、別に。何でもないんだ」
 そうだ、何でもないじゃないかとアスランは自分にも言い聞かせた。キラは、キラだ。今も昔も変わりなく。
 ――でも、じゃあ、何でこんなにショックを受けなければならないんだろう。
「何でもないってことはないんじゃないの?」
 キラの指がアスランの頬を撫でる。そのまま前髪を払って、近づいた額が触れる。
 こつん、と優しい響き。
「熱はないね」
「だから、何でもないって言ってるだろ」
 苦笑すると、キラが思いがけず真剣な顔をしていたから、アスランは戸惑って口を閉じた。――てっきり、膨れているかと思ったのに。
 そんなアスランに気付くことなく、駄目だよ、とキラが柔らかく硬く説く。
「アスランはすぐ無理するんだから。調子が悪いなら悪いって、ちゃんと言わないと」
「ああ……」
 曖昧に返事をして、アスランはキラをじっと見つめた。キラが視線の先で首を傾げた。
「なに?」
「何だか、最近――」
 まるで記憶のデータの照合をしているみたいだ。アスランは思う。三年前のキラだったらこうだったと。けれど違う、と頭のなかの何処かが言う。
 キラは、キラだ。
「キラが、遠く感じることがある」
 キラは、キラ。でも会わないうちに、何かぴたりとはまっていたものがずれてしまったようだとアスランは言いながら気付いた。互いに居心地がいいと思っていた場所が、変わってしまったよう。
 アスランの言葉に、キラは傷ついた顔はしなかった。けれど寂しそうに、アスランの肩口に顔を埋める。
「そう?」
「――うん」
 ああ、まただ。と思う。
 霞んでいく、あの濃密な日々。今のキラはそこからアスランを引っ張り出そうとするかのような強さをもって、アスランを揺さぶる。
「こんなに近くにいるのにね」
 泣き虫なキラ。甘ったれなキラ。意地っ張りでいい加減で。でも、憎めないいいヤツで。
 そんなキラが、アスランは好きだった。弟のように思い、守ってやらなければと思っていた。
 けれどもう、彼は庇護されるような立場ではない。もしかしたら、昔から。
 アスランもキラの肩に額を寄せた。

 胸のうちから零れてくる吐息は、熱かった。

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