美しい影

novel



「意識してるだけでしょ」
 溜息とともに告げられた言葉が、その日からシンの頭を離れない。




   

美しい影






 出来ることなら会いたくないと思っていた。廊下ですれ違うのも、ブリーフィングでも。
 会う度に心の底からむかむかするし、言い表しようのない――本人にもどう伝えたらいいのか分からない、もやもやとしたものが胸の辺りに広がるからだ。
 レイに相談したら胸焼けだろう、と素っ気無く捨て置かれたけれど、そんなに簡単なものだったらどれだけいいか。
 悔しいムカツク悲しい寂しい痛い。負の感情全部をひっくるめて胸を圧迫する何か。それが、シンから見た、あのひと、という存在だった。
 意識している、と言うのはあながち外れではないのだろう。しかしその意識とは、彼女の揶揄いとは全く遠いものなだけで。
「クソ」
 ガン。感情の収まらないままに壁を蹴った。廊下の、目に見える範囲には誰もいなかったが、響いたから誰かが音を耳にしたかも知れない。艦内の監視カメラにも映っただろうから、後でタリアに呼び出されるだろう。
 けれどそれも、今のシンにはどうでも良かった。
 苛々して堪らなかった。
 ルナマリアが変なことを言うからだ。腹立ち紛れにもう一度壁を蹴る。一度目よりも大きく音が響いた。
「何してるんだ」
 急に後からかけられた声に、シンはびくりと肩を揺らした。それは決して後ろめたさから来るものではない。
 振り返りたくなかった。
 後にいるのは、苛立ち全ての原因のひと。
 振り返りたくなかった。
 しかし身体は意を反するように、踵を回した。
「別に何でもないですよ」
 吐き捨てるように言って、口を結んだ。
 弁解も、謝罪もするつもりはなかった。したくもなかった。
 視線は壁に。目に映るのは、メタリックな壁に、それにはそぐわない藍色の髪。
 緩やかに波打つその髪は、酷く柔らかそうに見えた。
「君はいつもそうだな」
「何が」
「何でもない、関係ない、俺には分からない。そればかりだ」
 呆れた響きを含む声に、シンは唇をへの字に歪ませる。
 胸を圧迫する負の感情は、ぐるりぐるりと今生み出されているものをも飲み込んで大きくなるばかりだ。
 息も出来ないくらいに苦しくて、込み上げてくるようにさえ思った。
「だって、」
 耐え切れずに、言葉を吐く。熱い息だと自分でも知れた。
 だって。
 ルナマリアが変なことを言う。俺があんたのことが好きなんだろうって。意識してるからそんな態度をとるんだろうって。――そんなわけがない。そんなはずがないのに。
「ほんとに、関係ないし――ない、ですし」
 苦しいのも痛いのも、嫌いだからだ。こんなに苛々するのは、嫌いだから。そうじゃなきゃおかしいじゃないか。
 だってこんなに泣きたくなるのに。
「俺は、言ってもらわないと分からないんだ。関係ないと切り捨てられたら、どうしていいか分からない」
 頭にぎこちなく触れる手を、シンは振り払えなかった。身動ぎも出来ない。ただ赤い目を大きく見開いた。
 撫でているのか髪を梳いているのか判然としない感触。小さな頃――全てを甘受することを許された頃に与えられたもの。
 がちがちに固まった心を知ってか、「変な奴だな」と苦笑が落ちた。
「本当に、馬鹿みたいに泣きそうな顔をする」
「……かって、」
 喉を上下させて、シンが漸く言う。
「馬鹿って何スか」
 手が一瞬だけ止まった。しかし不審や呆れや怒りのような、今のシンを竦ませる雰囲気がそこにはなかったから、恐る恐る顔を上げた。何故、そして何を恐れているのかは、考えずに。
「そうだな……」
 翠色の目がゆらりと泳いだ。考えてるんだ、とシンは知る。
 このひとが、自分の一言それだけで、目を揺らめかせるほど考えた。そう思うと背筋が震えた。
 薄い唇から答えが与えられるのを、シンにしては温和しく待つ。
 馬鹿だとかどうだとか、そんなふうに誰かに評価されることは、シンにとってはどうでも良かった。腹は立つけれど、反発もするけれど、それだけだ。深い意味なんて、いらない。
 でも、このひとに。
 このひとに馬鹿だと言われるのならばその意味を知りたいと思った。
 ああ、意識しているんだと、自分で改めて分かる。決して『すき』だから、では、ないけれど。
「羨ましいってことかも知れないな」
「何スかそれは。どういう意味ですか」
 羨ましい、どうして。
 シンを羨むようなものなんて、何一つないようなひとなのに。
 胸が鼓動を早く打つ。あまりに早く、大きな音を立てるので、こんなに近くの言葉さえ聞き漏らしてしまいそうだ。
 逆にこの心音が、聞こえてしまうかも知れない。そう考えたらかっと顔に血が上った。治めようとする鼓動の音が、ますます早く大きくなる。
 それを知らないように目の前で彼は柔らかく嘆息した。
「俺にも、上手く説明は出来ないんだが」
 笑みになりそこなったものが、口の端にくっついたような表情でさらりと言う。
 ああ、やっぱり嫌いだ。シンは思う。
 自分はこんなに苦しいのに、このひとは何ともないのだ。シンと向き合っていても、話していても。
 胸を圧迫する負の感情は、何処まで大きくなるのだろう。シンは溜息を吐き出す。少しでも胸が軽くなるように。
 それが呆れに見えたのか、彼の目が困ったように瞬くのをシンは見た。見て、狡いと思った。
 何でアンタは苦しくないんだよ。何でてらいなく触れられるんだよ。何で意識しないんだ。
 何で。
 もう一度息を吐き出す。苦しい、と思った。
「アンタは狡いよ」
「ああ……すまない」
 謝罪は真摯だった。けれどそれはシンの望みとは別の方向を示しているのだ。
 狡い。もう一度言って、手を振り払った。驚いたような顔から目を逸らし、子ども扱いすんなよ、と述べて横をすり抜ける。走り抜ける。
 呼び止める声は聞きたくなかった。勘違いした謝罪も。
 嫌いだ、念じるように思う。嫌いだ、嫌い。嫌い。
 大嫌いだ。
 何故かなんて、知らない。
 嫌いだ。





 耳を澄ます。呼ぶ声も、追いかけてくる足音もない。
 シンは立ち止まった。振り返る。
 もう彼はシンのことを気にもしていないのだろうか。別の、例えばオーブのことなんかを考えたりしているんだろうか。
 ぐっと唇を噛んだ。拳を握り締めた。
「嫌いだ」
 呟きは力なく、人気ない空間にゆるりと溶けた。


end

2005/12/04


novel


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