知らない表情

novel



 甲板に佇むその後姿を見かけて、ジュエルは立ち止まった。本当は、立ち止まらずにどやそうと思ったのだけれど。
 それでも一度自分に気合を入れて、ジュエルはようやっとその肩を叩いた。
「やっほーリド!」
 今はこの船のリーダーだとは言え、リドはリドだ。ジュエルも――タルやケネス、ポーラも、その扱いを変えるつもりはなかった。
 リドは苦笑しながらジュエルに一度視線を寄越して頷く。それからまた、前に向き直ってしまった。
 一面の青。ジュエルは水面に煌く傾き始めている陽の光に目を細めた。
「何か珍しいものでもあった?」
「いや、何もないよ」
 「そう?」その割には、最近いつも、リドは海を見ている。
 ジュエルの納得のいかなそうな口ぶりに、リドは首を傾げた。
「単に落ち着くんだ、海を見ていると」
「……本当にそれだけ?」
「それだけだよ」
 ジュエルの含みのある問いかけにも、リドは笑って首を振っただけだった。
「ただ、随分遠くまで来てしまったな、とは思う」
 リドのようにジュエルも海面に視線をやった。「そうね」
「後悔してるの?」
「後悔? 何に対して」
 リドは肩を竦めた。ジュエルは曖昧に頷く。
 言うべきか言わないべきか。ジュエルはらしくなく、迷い、俯いた。
「……リドは、スノウのこと、どう考えてるの」
「どう?」
「本当は、ずっと、スノウのこと考えてたんじゃないの」
 ジュエルの出した名前に、あからさまな程リドの雰囲気が変わる。
 ジュエルは、今にも首を振って、出した言葉を全て打ち消して部屋に帰ってしまいたかった。しかし、今訊いておかなければ、一体いつ訊くというのか。自分は訊くべきだと、ジュエルは思っていた。
 リドはしばらく黙り込んでいた。答えを探しているのか、答える気がないのか。
 ジュエルはひたすらに、辛抱強く待った。暮れかけた太陽が、すっかり沈んでしまうまで。
「――別に」
「え?」
「別に、どうも考えてない」
 リドはゆっくりと、顔の筋肉を無理矢理緩めてみせた。ジュエルは知らず、ひとり体を震わせた。
 スノウがリドに対して鬱屈したものを抱えているように、リドもスノウに対してそうであるのだと、今更になってジュエルは気づく。
 決して対等な関係でも友情もなかった。大人になり、もし、どちらかがその関係を捨ててしまうのなら、きっとそれだけのもの。けれどその関係は、いつまでもふたりの間に残っていくものだと、ジュエルはずっと思っていたのだ。
「どうかした?」
 リドの問いかけに、ジュエルは首を振った。
 リドを見やると、とってつけたような笑み。昔馴染みに見せるものとしてそれは上手く形作られていたけれども、目は笑っていなかった。
 ジュエルはまたゆるゆると首を振った。
「あんたは変わったわね」
「そう?」
「――怖くなったわ」
 酷いことを言っているだろうか。ジュエルは泣きたくなった。
 こんなことが言いたかったわけではないのに。
 しかしリドは別段傷ついた様子もなく笑った。ジュエルの知らない笑い方だった。
「それでもこれは、元から僕のなかにあったものだよ」
 スノウに対して彼の持つ歪んだ何か。それはどう名づけられるべきなのだろう。ジュエルには分からない。
 目の前に立つこの青年のことを、ジュエルは驚くほど何も知らなかったのだ。
 ジュエルはもうリドの顔を見ることができずに、ただ水面を睨みつけた。 


end

2006.04.01


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