手の触れる距離
novel
お前、ロイさまと喧嘩でもしたのか?
不意にアレンにそう問われて、ウォルトは一瞬間の抜けた顔を作った。
「へ? 僕が――ロイさまと?」
「ああ」と頷き、剣を磨く手をアレンは休めた。
「近頃一緒にいるところを見ないから――違うのか?」
その問いに、ウォルトは答えを持っていなかった。
手の触れる距離
言われるまで気付かないなんて、なんて不覚だろう。ウォルトは思う。
考えたらロイとはもう、一週間ほどもまともに会話をしていない。戦闘についてとか、行軍についてとか、そういったことはまた別として。気付かなかったのは、そのこともあったからだろう――ロイは別に、あからさまにウォルトを避けていたわけではない。ただ以前のように、むくれて見せたり、拗ねてみせたりはしなくなっただけだ。それはある意味、ウォルトにとっては願ったり叶ったりではあったが、こうも突然だと不安にもなった。
何か気に障ることでもしただろうか。
思い当たる節はなかった。
これが、単にロイに上に立つ者としての自覚が出てきたということならば良いと思う。そうではなく、何かしてしまったのだとしたら謝らなければと、ウォルトは急いた。
だが、別段ロイがウォルトに腹を立てている様子はなかった。
「いや、別に何も怒ってなんかないけど?」
にっこりと、笑ってロイは言う。そうですかと安堵しながら、彼が何処か疲れているのを、ウォルトは感じた。
ロイはウォルトの顔を見つめたまま「会いたかったんだ」と小さく呟いた。ウォルトは「え」と訊き返したが、何でもないとはぐらかされ、空耳だったのかと思った。
――いつでもそばにいるのだから、会いたいなんて言うはずがないのだし。
「……ウォルトはさ、」
迷ったようにロイは口を閉じて、再び開いた。
「失くしたものは、どうしたら取り戻せると思う?」
失ったもの? きょとんとウォルトは目を瞬かせて、「何か、探し物でも?」と訊いた。
ロイはその問いかけに首を振って、「具体的に言い表せるものではなく、」
「例えば……信頼とか、感情とか、思い出や時間――そう言った表現するには曖昧なものを」
その科白を聞いて、ウォルトは先ず、ロイはリリーナと喧嘩でもしたんじゃないだろうかと思った。
けれどそれは違うと、自分でウォルトは知っていた。今朝も仲良く朝食を取ったふたりを、ウォルトは見ている。その席に誘われて、断ったのは自身だった。
――失ったもの。
不意に、自分と彼との距離感が、ウォルトには堪らなく遠く感じた。マリナスや、マーカスのような臣下になれたらと、切実に思っているのは嘘ではない。ただその線引きが何処なのか、ウォルトには未だに把握できていなかった。
今までが近すぎたのだと、ウォルトは知っている。幼い頃から彼との距離は、頬さえ触れそうなほどに近かった。しかしこれではいけないと離れてみると、今度は一歩距離をとっただけで、ロイの顔さえ見えなくなりそうだった。
主君と臣下の線。それさえ見つければ、ウォルトはこんなふうに迷ったりすることはないのだろうと思った。それが自分自身の願望や、逃避に過ぎないと分かっていたけれども。
そして、その線を定めることが出来たなら、きっと今度はロイの幼い頃のような無防備な笑顔を見ることは出来なくなるのだろうことも、分かっていた。
それは寂しいけれど、諦めとは呼ばない――ウォルトは自分に言い聞かせるように思った。また同時に、ロイには失って欲しくはないと思うのだ。
信頼、感情、思い出、時間――ひとりでは築くことの不可能なものを。
その矛盾には、自分でも苦笑を招かざるをえないけれども。
「――努力、します」
だから、そう応える。
ウォルトの答に、ロイが目を瞠った。ウォルトは構わずに続ける。
「失ってしまったのだとしても、まだきっと取り戻せると思いますから、だから、――努力します。無くさずには済むように」
これからロイはたくさんのものを取りこぼしてしまうだろう。彼という人柄をウォルトは知っているけれども、ひとつも残らずに持っていくには、彼の背負うものはあまりに大きい。
そうしてそのとき自分も、きっと何かを無くしてしまうのだ。ウォルトには予言にも似た確信があった。
――けれど、だから今だけは。
「ああ――そう、か」
そうだねと、ロイが微笑う。無防備な、幼い頃から変わらない笑顔。
ウォルトは頬が緩んだロイに安心して、はい、と頷く。だがその次の瞬間、ロイがいきなりウォルトの手に自分の手を絡めたので、驚いて目を剥いた。
「ロイさま?!」
「努力」
「え、」
「努力するんだよ」
握った手には、まるで幼い子供のようなぬくもりがあった。
何かを失うことになっても、この笑顔とぬくもりだけは覚えていたいとウォルトは願う。
きっとそれはロイも同じことなのだと、気付かないままに。
end
2004/11/25
押しても駄目なら引いてみよう的な話……のはずだったのに。
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