主よ、

novel



 いろいろなものをあたえてくれたひと。
 いろいろなものをおしえてくれたひと。
 ゆいいつのひと。


 ??あいたいひと。




   

やさしいやさしくないゆめ






 さあ。風が吹いて、穂を揺らす。
 辺りは小麦の穂で埋め尽くされていて、それだけで地平線まで辿り着けそうに見えた。
 空はとても青く。青く。
 けれど空気は、どこか銀色に近かった。
 綺麗で幻想的で、不思議に満ちた空間だった。
「ここは??」
 スィンは辺りを見回した。
 何もない。ただ視界一面に広がる穂ばかりが、微かな風に揺れている。けれど。
 けれど何かが。
「スィン!」
「!」
 不意に後ろからかけられた声に、スィンは硬直した。悪戯っぽくて、どこか憎めないその声を、スィンはよく知っていた。
 言葉も出ず振り向くこともできず、スィンはごくりと喉を鳴らした。焦る心を押さえつけようと、静かに息を吐いて吸ってと、深呼吸を繰り返す。
 それからゆっくりと、振り返った。
「っ!」
「何ぼうっとしてんだよ? ほら、行くぞ」
 言うなり、彼はスィンの手を強引に引いた。
 喉にものが詰まったように、スィン何も言えずに導かれるままに歩く。
「全く……放っておけばさっさと一人で迷子になるんだからなぁ。グレミオさんの気持ちが分かるぜ」
「テ、」
 柔らかく優しく、穂が二人を包み、揺れる。
「どうしたよ?」
 先ほどから声を詰まらせるスィンの顔を、彼が覗き込む。
 けれどどうしても声は出なかった。スィンは縋るように、その茶色の優しく笑む瞳を見つめ返す。
「テ、ッド……」
「うん?」
 つないだままの手が、暖かい。手袋をしていたのかなんて、知らない。
 ぬくもりは、スィンに優しく伝わっていった。
「どう、し、」
 どうして。
 問う言葉は紡ぎきれずに、その金色の中に落ちて行く。
「馬鹿だなあ、何て顔してんだよ」
 テッドは悪戯っぽく笑う。何も変わらない。
 つないでいない方の手が、ゆっくりとスィンの頭へと伸びた。
 くしゃりとバンダナ越しに撫でる感触に、スィンは思わず目を瞑り、それから怖々と瞼を上げた。
「テッ、ド」
「うん?」
 言葉にならない。
 逢いたくて。
 逢いたくて。
 もう一度、目の前で笑っている顔が見たくて。
 もう一度、その声が自分を呼ぶ声が聞きたくて。
 もう一度、その手に自分の手を頭を、触れて欲しくて、触れたくて。
 あいたかったひと。

 あいたくてたまらないひと。

「スィン」
 優しい声。優しい手。
「泣かなくていい」
 笑顔。
「なあ、笑えよ?」
 ああ、どうか。
 知っているから。
「笑ってくれ、」
 醒めないで。

「なあ、スィン」





 揺らぐ天井が、悲しかった。
 醒めてしまった夢の中を辿ろうとして叶わず、ただその頬を、耳の横を、涙が止めどなく零れ落ちていく。
 テッドとの思い出は、優しくて優しくて、今でも胸を締め付けるほどに痛い。
 与えられたものは多すぎて、数えきれない。

 あいたいひと。

 今は瞳を閉じて、嗚咽を堪えず泣いた。


end

2005.11.25 改稿


novel


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