蜂蜜色の言葉

novel



 そういえば。
 スィンが隣で何かを喋っている。その内容を聞き流しながら、ルックはぼんやりと思った。

 ??キスってしたことがないな。




   

蜂蜜色の言葉






 そういうふうに、ひとに興味を抱いたことがないのだから、当然と言えば当然なのだけれど。ルックは顎に手をやって考え込む。不思議??というか奇妙な気分だった。
 黙りこんでしまったルックを眺めやり、スィンは首を傾げている。いつの間にやら、スィンも口を閉じてしまっていたが、別に饒舌というわけでもない。
「ルック?」
「なに」
「どうかした?」
「別に」
 会話を続ける努力を全くしないルックに、スィンはああそう、と相槌を打ち、石版のほうへと視線を投げただけだった。慣れてしまったのだろう。
 慣れてしまった、というのも。
 ルックは自分の目線より数センチ高い位置に在る黄緑色のバンダナを眺めた。慣れてしまった、というのも奇妙だ。
 慣れるほど一緒にいるけれど、慣れるほどは、互いに互いのことを知らない。ルックは思う。
 例えば、声の高低や、髪の黒さ艶、手袋に包まれた華奢な指の長さ。スィンを構成するものの一部をルックは知っている。自分より一回り以上も大きな敵をあっさりと叩きのめす強さも、反面にある弱さも、知っている。
 しかしそれで全てを知っているかと言ったら、言えない。
 全てを知りたいわけではないが、知らないスィンがいるというのは、ルックにとってはあまり面白くない事実だ。
「ねえ」
「何?」
 スィンはゆっくりとルックに視線を合わせた。
「キスしたことある?」
 スィンはルックのほうを見たまま固まり、数秒して漸く応えた。
「ルックとはしたことがないな」
「……面白くない答えだね」
 スィンは困ったように眉尻をさげた。「まあ、楽しい答えじゃないよ。僕も」
 そう。ルックは静かに頷く。
 スィンはしばらく閉口して、それから苦笑した。
「ルックはいつもいきなりだよね」
「何が」
「何がって、色々??好きだとか、キスだとか」
 スィンにだけは言われたくない。ルックは思う。ルックにしてみれば、スィンのほうが余程突拍子もない。
「君が単に鈍感なんだと思うよ」
「そんなこと言われたことがない」
「言ったって無駄だって分かってるからじゃないの、誰にしても」
「……それにしたって今のはいきなりだったと思うけど」
 むっとしたようにスィンが切り返す。鈍感云々について言い争ったところで、スィンに勝ち目が在ろうはずもない。
「ああ、それはキスしているときの君を知らないと思ったから」
「……それを言ったら僕だってキスしているときのルックのこと知らないよ」
 それもそうだった。じゃあしてみようかというのは自然な流れ。
 しかしどちらともなく手を繋いだ時点でお互いにはた、と気づいた。??石版の前、つまりは、公衆の面前。
 黙ったまま視線を交わして、知らずに石版を眺めやる。スィンが素早く辺りを見回して、ルックの手を引っ張り、石版の後ろに隠れた。
 馬鹿馬鹿しくも秘密めいたやり取り。石版の裏に背を押し付けて、スィンが笑いを堪えている。目線だけでふたり笑みを交わした。
 繋がれた手は床に放られたまま。ルックはもう片方の手をスィンの顔の横に当てて体重を支え、笑みを堪えるその口元に唇を寄せる。
 唇が触れる前の、笑みに零れた吐息がくすぐったい。スィンの瞳が柔らかく光り、瞼が下りた。


end

2006.03.26


novel


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