かなわないと思っている人数は、実は結構、多かったりする。
ルックは饒舌な方ではない。どちらかと言えば無口で、気が乗らないとき、もしくは気に食わない相手には、あっさりとコミュニケーションを放置してしまうことも多い。
ルックの隣でシャンパングラスを掲げ持ち、飽きることもなくその細かな気泡が上がっていく様をうっとり眺めているスィンも、やっぱり口数の多い方ではない。かといって、ルックのようにあっさりと会話を放り投げてしまうことはない。話すことより聞くことを得手として、様々な人間の相談相手になっていたりする。どんな小さなことでも真面目に聞くせいか、どうも子供や年齢の高い層には倍増しで気に入られているようだった。
そんなふたりなので、間に言葉は少ない。それでも打ち解けた空気が広がるためか、それは些末な問題だった。それにルックはスィンの前では、自分でも驚くくらいに口を開いた。
「いつまで見てるつもり?」
「いや、綺麗だから。つい」
スィンもスィンで、ルックの前では知らず肩の力を抜いている。この位置にいるときは、自分の立場を考えずに済むと、すでに知っていた。
想いを伝えて、想いを返して。互いが互いを近いものとして捉えるようになって、もう数ヶ月が経っている。ルックとしてはもっと関係が甘いものになっていいと思うのだが、ふたりの間柄は気安いというのが正しいくらいだった。悪くはないが、少し、物足りない。
それでもルックは概ねこの距離に満足していた。彼を大事に思い、大事に思われている。そう自負している。ルックから見れば面倒くさい性格のスィンが、そばにいることを当たり前に考えていること自体、昔では考えられなかった。
「君って、何でも飲むよね」
スィンの興味は、変わらずシャンパンの気泡のようだ。いつもは飲まないシャンパンをスィンが手にしているのは、ルックのおごりだからだ。品のいいものが仕入れられたと聞き、自分が飲むついでにと、スィンにも振る舞った。そういえば、酒についてはあまり好みを知らない。
アルコールの話? スィンは問いかけるというわけではなく呟いて、軽く頷く。「何でも好きだよ」
「いちおうそれなりに『お坊っちゃん』なんだから、いいものを嗜んでみたら?」
「泥の中転げ回ってた頃飲んだエールが今までで最高に美味かったなんて、『お坊っちゃん』とは言えないかな」
スィンは肩を竦める。怪訝な表情のルックに、「昔の、ほら、三年前の話だよ」そう微かに笑みを見せる。
あれが? ルックは片眉を跳ね上げた。
三年前の解放戦争。あの頃のスィンは、それこそ本当に泥のなかを転げ回っているようだった。砂埃まみれで馬を走らせたり、船であちこちを回って川に落ちたり。軍主というものは、もっと奥で鎮座しているものだというルックの考えを叩き壊すように、スィンは仲間集めに奔走した。戦の最中、軍旗を持って最前線に駆けていく姿には、泡を食った記憶がある。前線の兵士たちは鼓舞されたようだが、最も命を狙われているのに何ということをしているのかと、スィンは様々な立場の人間に説教されていた。
物資は豊かとは言えなかった。一気に仲間が増えることで、時に食糧庫が空っぽという時もあった。軍の規模が大きくなるにつれて色々なところと伝ができ、それも解消されたが、最初の頃はテレポートが使えるルックは食糧の運び込みを手伝わされてうんざりしたものだった。
だが不思議といついかなる時でも、アルコールだけはどこかしらに存在した。わざわざ調達しなくても、誰かしらが持ち込んでいた。ルックは酒についてだけは、運び込んだ記憶がない。
傭兵くずれや、元山賊海賊も多かった。彼らは何故か、ひょいひょいとアルコールを仕入れては、ついでのようにスィンに献上していく。酸味がどうこうなんて言えないくらいに酸っぱいワインや、鼻から吹き出しそうなくらいにどぎついエール。飲めたものじゃないと思ったのに、いつの間にか、それらで酒盛りをするのも当然になっていた。
「テッドを思い出すんだ」
「……へえ」
「テッドが持ち込むのも、そういうのが多かったから」
遠くに思考を飛ばすようなスィンに、つい声が低くなってしまったのは仕方ないことだとルックは思う。
テッドは、スィンにとって特別な地位を築いている。ルックが会ったことなんて二回ほどで、内一回はウィンディの手中でまともな会話も交わしていない。だがルックはもう、テッドの好みや他愛ない癖などを簡単に説明することが出来る。そのくらい、スィンから名前を聞いた。
テッドがね。そう語り出すことはまずほとんどない。他愛のない話をしていて、ああそういえば、とぽろりとこぼれ落ちる。そういう名前だった。
だからこんな苦い気持ちになるのだろう。ルックは思う。
スィンをひとつひとつのパーツに分けてみても、どんなに細かくしてみても、そこにはテッドという名前がすでに組み込まれてしまっている。
たとえば心というものが、手に触れられるものだとしても、そのずっと奥の、根っこの部分に静かに守られていて、取り除くどころか見ることも出来ない。特別で、スィンが本当に大切とするもの。
胸に渦巻く心情は、おそらく嫉妬なのだろう。ルックは自分の前にあるグラスを取り、ゆっくりとその中身を口に含む。今の同盟軍はもうすっかり物資に不安はない。うまい酒がきちんと手に入る。ワインに吹き出すこともない。それが少し物足りないなんて、贅沢な話だが、ルックも三年前のあの酒を、不味いと思ったことはなかった。
むに。憮然とするルックの頬を、スィンの手が緩く摘み、離れていく。いつもより指先が冷たく感じられるのは、ずっとグラスに触れていたせいだろうか。
なに。ルックが横目で睨むと、スィンは笑う。「ルックの真似だよ。顔」
「顔?」
「テッドの話をすると、ルックの顔が怖くなるんだよね」
もしかして、それを分かっていて口にしているのだろうか。ルックはますます顔をしかめてしまう。
「元々こういう顔だよ」
スィンは笑みを浮かべたまま、軽く息を吐いた。そうして、変なの、と呟く。
「なにが」
「ルックがそんな顔をすることなんてないのに」
スィンの言葉はてらいない。分かっているのだろうか。少し考えて、否定する。絶対、分かっていない。
スィンに関することで、かなわない、と思う人間は実のところ何人か存在する。ずいぶん近い距離にまで来たと思うけれど、それでも自分が一番ではないことを、ルックは知っている。一番は、彼の従者だ。そうして次点がテッド。それから彼の手のなかに眠る、彼を大切に思っていた、あるいは大切に思われていた人たち。
「過去に張り合うことは出来ないからね」
時を経れば記憶や思い出は薄れていく。それをおそれるかのように、スィンはテッドに関する記憶を何度も辿るくせがあった。
テッドの言葉を、あるいは行動を思い返し、自分で辿る。テッドの歩いてきた道を、自分のなかに手繰り寄せ、重ねてみる。それはあるいはソウルイーターの意図するところなのかも知れない。三百年、共に在ったということは、それだけ好みの宿主だったのだろうから。そんなことを思ったりもする。そして、そうだとしても、と思い直す。それは、スィンの考えでもあるのだろうと。
これから長い時を生きていく。ルックにも先は分からないし、スィンだってそうだろう。ただスィンは、三年前に失ったものが多かった。そうしてそれらを思い出として、小さなかたちに収めておくことが出来るほど、スィンは大人でもなかった。
だから溶けてしまったのだ。ルックは思う。
スィンのなかに、テッドのかけらが、溶けてしまった。
それは好き嫌いといった嗜好かも知れないし、小さな癖や、生き方かも知れない。小さなかけら。大きなかけら。スィンはひとつひとつを大事に取り込んだ。だからもう、スィンはテッドを忘れることはない。
――それでどうして、嫉妬することがないなんて言えるだろう。
物憂げに半眼になるルックの頬を、スィンがもう一度つつく。その様子が楽しげなのが気に入らず、ルックもスィンの頬をつつく。スィンは、ずいぶん機嫌が良さそうだった。
「張り合う必要があるとは思えないけど」
「どうしてそういうことが言えるわけ?」
「これから先は、全部ルックのものみたいなものじゃないか」
――この先が。ぜんぶ?
ルックは虚を突かれて、呆然とスィンを見つめた。スィンは微笑むばかりで、真意が見えない。たちの悪い笑顔だな。ルックは顔をしかめる。そんな表情ひとつで、心拍数が増えてしまう。
「信じてなさそうな顔してるね」
「本心が見えないんだよ、いつも」
「嘘なんて言わないよ」
スィンはようやくグラスを傾けた。もう温くなってしまっただろうに、それでもしあわせそうに瞳が緩む。おいしい、と一言。
「欲しいなら、これまでもこれからも、全部あげたっていいのに」
ふわりと軽い口調なのは酔っているせいだろうか。
ルックは舌打ちや地団太を堪えた。アルコールなんて飲ませるのではなかったと後悔する。どうせならそんなせりふ、素面で言ってもらいたい。今の状況では、酔っぱらいの戯れ言に等しい。
けれどそれでも嬉しい気持ちが隠せない。自分も酔っているのだろう、ルックは顔が火照るのを、アルコールのせいにした。
一番かなわないのが本人だなんて、悔しくて仕方がない。
end
2012.01.14
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