ルックはふと、気配を感じて顔を上げた。何かがあるわけではない。灯りも揺らがず、静かに魔法書を照らしている。普段なら意識もしない。けれど今は少し、事情が違った。
迷ったのは一瞬で、すぐに立ち上がる。灯りを手に部屋を出た。
深夜だ。皆がすっかり寝静まっているのだろう、人の気配はほとんどなかった。見張り番が何人か。ルックはそれを無視して、ひとりの気配を追った。それが可能だったのは、相手の紋章のためだ。大きな力と深い闇を持つ紋章。これだけ近くにいるなら、少し感覚を研ぎすませるくらいで、簡単に追うことができた。
「スィン?」
ぼんやりと窓辺に佇む影に呼びかける。今日は新月で、外から光があまり差し込まない。そのせいか、自分の持つ灯りが妙に眩しく感じられた。
「ルックか」スィンは振り返る。ぎこちなく笑みを浮かべ「どうかしたのか?」と軽く首を傾げる。
「こっちの台詞なんだけど」
「何が」
「こんな夜に、こんなところで、一人で何をしてるのさ」
スィンは軽く息を吐くように肩を竦めた。
「別に何も」
そう嘯くわりに、スィンの周りには濃い闇がこごっている。何をしていたのか、何を考えていたのか――再度ルックが問う前に、スィンはするりと右手に手袋をはめた。そこで初めて、ルックは彼が手袋を外していたことに気づく。
それくらい、濃い闇だった。
(ソウルイーター?)
紋章に耐性がある自分ですら、目眩を覚えるような気配が残る。目を離した隙に、スィンが闇に飲み込まれてしまいそうに思えて、ルックはその手首をつかんだ。
「ルック?」
「何、してたわけ? こんな」
こんなところで。こんな闇の中で。
スィンは少し困った様子を見せた。ゆっくりとルックの手を外す。
「ソウルイーターと話をしていた」
「どうして」
責めるような響きになった。スィンとソウルイーターは、相性がいいわりに仲は良好ではない。あまり深みにはまると振り回されるだけだと、再三ルックはスィンに伝えていた。
「話をしていた、というのは正しくはないかな。話をさせられていた」
眠れない。スィンは言う。瞼を片手で覆った。「夜になると、ずっと闇がまとわりついているような気がする」
「気のせいだよ」
ルックが素っ気なく嘆息すると、そうかも知れないな、とスィンは小さく笑う。
「目を閉じるとより騒がしい。内にいるからだと言われたよ」
ルックはスィンを睨むように見つめた。ひどく憔悴している。闇の中にいるせいだろうか、そう考えて、すぐに違う、と思い直した。
端で見ているだけで恐ろしくなる。いつか。いや、今にも壊れてしまうのではないのかと。
スィンが繊細だとは、ルックは思わない。繊細な神経の持ち主なら、そもそも真の紋章を宿した時点で気がやられてしまうだろう。真の紋章の持ち主は皆、貪欲だ。生に、あるいは何かしらの欲望に。それは性根というよりも、もっと奥深いところで。――それでも、きっと限界はある。
スィンの限界がどこか、ルックには知れない。ずっと魔術師の塔でひっそり生きてきた自分にとって、人間は想像以上にタフであったり、脆かったりする。
スィンが壊れることを、ルックは望まない。
「――眠れるようにしてあげようか」
静かに呟いた言葉は、思った以上に大きく廊下に響いた。
構わずルックはスィンを見つめる。真正面に立つと、意味をはかりかねたのかスィンが訝しげな表情をしている。スィンの両手首を、両手で握った。少しだけルックのものより高い位置にある瞳は、それでも一切の感情を示さない。ルックは喘ぐように空気を吸った。知らず手に力が籠もる。「もし、」
「もし、君が」
「――ルック」
大きな声ではなかった。咎めるような響きでもなかった。それでも、ルックはそれ以上言葉を連ねることができなかった。
スィンは微笑んでいる。けれど灯りがゆらりと揺れて、その表情もルックからはよく見えない。
スィンは優しく、けれど容赦なくルックの手から逃れた。
「もう休んだほうがいい」
「君がそれを言う?」
苦笑する気配。「僕ももう、部屋に戻る」
おやすみと一言置いて、スィンはするりと背中を向けた。少しの躊躇もない。だからルックは、呼び止めることもできない。
見えなくなるまでその背を眺めながら、胸を襲う不可解な感情に、ルックは唇を噛んだ。苦しくて、手で襟元をつかんだ。
壊れないで欲しいと思う。それはきっと、宿星としての立場ではなく、ごくごく個人的な感情だ。そのためなら、何度でもきっと自分は手を伸ばす。
――けれど、スィン自身がそれを望むことは決してないのだろう。ルックは俯いた。形にならないもどかしさばかりが体中を駆け巡っている。ひどく凶暴な気持ちがあった。抱きしめたいと思うのと、同じくらいに。
どんなに叫んでも届かない言葉があるのだと、ルックはいま初めて知った。
end
2011.09.19
Copyright(c) 2011 NEIKO.N all rights reserved.