「目眩」 前編 いらない、と言われた。 「あんたみたいな軽装の役立たずが殴られてどうなんだよ、ああ!?」 金属製の重厚な鎧に身を包んだ騎士が、口汚くルーヴェルを罵った。アリアはおろおろと、騎士と狩人を交互に見つめている。 「まったく、俺達が必死になって敵をこっち向かせているっていうのに、何様のつもりだ。あんたは!」 クロウラー種と呼ばれる巨大な芋虫、その繁殖地に眠る貴重な品々の奪取と、自己研鑽の為の派遣隊に参加した ルーヴェルとアリアであったが、ささいな手違いから怒り狂った虫達の集団に取り囲まれる羽目になってしまったのだ。 幸い死者も出ず、どうにか凌いだのだが、最後に残った上級種の虫が異様な強さを誇り、騎士や戦士の刃を受け止め、 ルーヴェルの弓矢を怖ろしいまでに回避したため、最後にはアリアが女神アルタナの祝福を乞わねばならなかった。 怒れる虫がアリアに突進し、巨体で彼女を押しつぶそうとした瞬間、ルーヴェルが狩人の奥義を発動し、彼はそのまま アリアの代わりに虫の怒りを受け止め、肋骨を数本折った。 なのに、癒しの魔法を受けて立ち上がった彼を更に打ちのめしたのは、他ならぬ派遣隊のメンバーの心ない言葉であった… 「まったく、これだから狩人なんて入れるのは嫌だったんだ。俺は反対したぞ、最初からな!」 同じエルヴァーンとは思えない剣呑な瞳で、その騎士はルーヴェルとアリアを睨み付けた。 必要だったのは、白魔道士であるアリアだけ。その顔は、そう告げている。赤魔道士の娘が、苦々しげに騎士を見つめていた。 本来なら、こうした状況では黒魔道士の脱出の呪文があれば事足りていたのだが、アリアが是非にと乞うたからルーヴェルを 参加させたのだ。白魔道士の娘を除く全員が、無言で彼を責めている。 だが、聡いアリアにはちゃんと分かっていた。アリアが女神の力を行使した時、必死になって虫の気をそらそうとしていた騎士の 努力をあざ笑うかのように、ルーヴェルの渾身の一撃がやすやすとそれを成し遂げてしまったのだ。騎士の男は何よりもその事で、 プライドを傷つけられたのだ。使い慣れぬ武器を使って、たかが虫と油断してなめきった戦いをしていたというのに。 彼女は、恋人を見つめた。狩人の男は黙ったまま、メンバーの無言の悪意を受けている。彼だって、本当は気づいているはずだ。 「…不要なら、俺は帰る。すまなかったな」 アリアは耳を疑った。待って、と言いかけた時、ルーヴェルがくるりと彼女の方を見る。 「お前は残れ。ここは、魔道士ひとりだけでは厳しいだろう」 開いた口が塞がらないとは、まさにその時の事を言うのだろう。アリアは後で思い出す度に、そう感じずには居られなかった。 呆然とするアリアと、メンバーを残してルーヴェルは背中を向け、すたすたとその場を後にする。 「…わ、わたしも帰ります。失礼しました!」 反射的にアリアの腕を掴もうとする騎士の手、それをかいくぐって彼女は駆け出した。この近辺の敵は、こちらが手を出さなければ 襲ってくる事はない。先ほどのような大群さえこなければ、彼らだけでも充分対処は可能だ。それがわかっていたから、 アリアはただひたすら走った。歩幅の違う、大きな背中を追って。 「待って。ルーヴ待って、ねぇ!」 腕にしがみつかれて、エルヴァーンの青年は驚いた顔をした。その顔が、ふと彼女の駆けてきた方向を向いた。 アリアも、それに気付く。どやどやと近づく、人の気配。 とっさに彼女が口にしたのは、経験を積んだ白魔道士だけが使うことを許される、空間を駆ける呪文の言葉だった。 複数の人々がそこに辿り着いたとき、そこにエルヴァーンの青年とヒュームの娘の姿を見つけることは敵わなかった。 *+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ ラテーヌ高原は夜も更けて、空は厚い雲に覆われていた。水の匂いが近づいている。雨が近いのかもしれない。 ルーヴェルはずっと無言だった。ジャグナーを抜けて、ジュノへと戻る街道へと足を向けている。 そのすぐ後ろを、アリアが所在なげな表情で歩いていた。 「…知らんぞ。悪評が立って誘われなくなっても」 ぽつりと青年がそう口を開く。娘はますますうなだれた。このころの彼女はまだ、国の規定に縛られていたから、戦績を稼げないのは 下手をすると冒険者生命に関わるのだ。ルーヴェルもそれが分かっていたから、心を鬼にしたというのに。今となっては全てが水の泡だ。 すっ、とその鼻先を水滴が掠める。アリアの心を代弁するかのように、とうとう雨が降り出したのだ。 踏んだり蹴ったりだ、とアリアの目頭が熱くなったその時。手をぐいと掴まれ、引っ張られた。 ルーヴェルが、彼女を先導するようにして走り出したのだ。 「急げ」 いつもの、無愛想な声が焦りで少し揺れている。それがなんとなくおかしくて、そして嬉しくて、アリアはまた泣きそうになった。 ジャグナー森林を挟み込む崖の片側、そこに穿たれた天然の洞窟に二人は駆け込んだ。そこは虎の古巣だったらしく、 乾いた草葉の寝床の端で、小動物の骨片が朽ちかけている。ずぶぬれの荷物袋から炎のクリスタルを取り出し、 その力を解放させて火を起こした。 やがて、小気味よい音をたてて、小さな焚き火が二人を温める。 だが、アリアの歯がかたかたと鳴っていた。秋も深まり、冷えた空気が雨に濡れた体から急速に体温を奪っているのだ。 ルーヴェルはさっさと服を脱ぐと、乾いた手拭いで湿った肌から水分を拭き取った。そして、いぶかしげにアリアを睨む。 「何をしているんだ?」 問われて、娘は困ったように青年を見つめた。炎に照らされているというのに、その顔は肌色が悪い。 「あの、服、脱いだ方が…いい、よね?」 歯切れ悪く、アリアはそう告げた。視線が彷徨っている。 「風邪を引きたいのか。早くしろ」 その意図する所がわからず、ルーヴェルはつい口調を荒げた。いつもの心のゆとりが無いことに、彼自身気付いていない。 自分とアリアが、実は十近く歳が離れている事を知ったのは最近だ。異種族で、微妙に世代も違うルーヴェルと彼女は、 下手をすると周囲からは保護者と被保護者にも見えてしまうため、男女の仲であることをあまりおおっぴらには出来なかった。 だから今回のように、アリアがルーヴェルに固執する理由を、初対面の人間は理解できない事がままあった。 逆に、ルーヴェルがアリアを連れ回す理由を、胡散くさげに追求する輩までいたこともあるくらいだ。 公の立場と、私的な関係が、じょじょに溝を深めつつある最近、二人の間には奇妙な温度差が発生していた。 「うん…脱ぐから。ごめんなさい、出来れば、見ないで…」 もう、何度その腕に抱かれたか分からないのに、それでもアリアはルーヴェルに着替えを見られる事を嫌がった。 何を今更。それを他人行儀に感じたルーヴェルは、かすかに怒りを覚えたが、それをどうにか抑え込んで、後ろを向く。 水を吸った生地が、びたんと地面に落ちた。ぎゅうっ、と生地のこすれる音がして、水滴がぽたぽたと垂れる。 見れば、素肌に毛布一枚を纏った姿で、アリアが必死に袖口を絞っていた。よほど寒いのか、火の側だというのに息が白い。 布地で出来たローブは、ルーヴェルの革鎧以上に水を吸い込み、彼女の体を冷やしていたのだろう。 無言でそれを奪い取ると、ルーヴェルは強い力で捻り上げて生地を絞り、それから壁際に張り付けるようにして焚き火の熱が 当たるところに彼女の装備一式を干した。ありがとう、掠れた声がルーヴェルの耳を打つ。 まだ、アリアと出会って間もない頃。フェインで突然彼女が泣き出したときのもどかしさを、青年は再び意識した。 あれから、彼女はずっとルーヴェルの側にいる。彼が求めれば、体を許す。それなのに、彼女の心はどこかつかみ所が無くて、 それがルーヴェルを苛立たせることもあった。 クリスタル合成で作った料理で、食事を簡単に済ませると、ルーヴェルはアリアを抱き寄せた。細い肩が毛布からはみ出して、 びくんと震える。抵抗する隙さえ与えず、彼はそのまま娘を押し倒した。