ジャグナー森林からダボイへと続く道では激しい攻防が繰り広げられていた。生半可な戦力では太刀打ち できない程に強力なオークが修道窟の奥から何体も現れ、冒険者達を襲っていたのだ。アリアの参加した 部隊が駆けつけざまに首領格のオークを一体倒し、雑魚を掃討したところで獣人達はどうにか撤退し、 辺りが暗くなる頃にやっと仮初めの平穏が戻った。 幸い死者はいなかったが、アリアを始めとする癒し手達は怪我人の手当に追われ、休む間もなく働かねば ならなかった。魔法を行使する度に、気力がごっそりと削られていく。その疲れを顔に出さずに、微笑みを 浮かべながら負傷者を励まし、傷に包帯を巻き続けた。 夜半を過ぎた頃、先に休んでいた他の魔道士達が、アリアに声をかけた。 彼らも疲労を拭い切れてはいないようだったが、それでも交代しようと持ちかけてくれる。 礼を言ってアリアはその場を後にし、少し離れた場所に設置されたテントの中に潜り込んだ。 激しい疲労感がどっと吹き出し、すぐに彼女はうとうととまどろみ始める。 眠りの淵に引き込まれかけたアリアだったが、誰かがテントの中に入ってくる気配に気づいて目を覚ました。 最初は他の魔道士が仮眠を取るために来たのだと思い、動かなかった。だがその内、息づかいが徐々に 近づいてきたのを感じて不審に思った。今までにも、何度か他の冒険者達に体を求められた事はあったからだ。 もちろん、相手の同意を得なければ資格剥奪ものの重罪だから、アリアがやんわりと断れば大抵向こうは あっさりと引き下がった。一夜の快楽と、冒険者資格を秤にかけるのがどれだけ愚かな行為か、 皆分かり切っているからだ。 アリアは胸に抱くようにしていた戦槌を、握る手に力を込めた。耳に誰かの吐息がかかる。鳥肌が立った。 無言で跳ね起き、相手を突き飛ばす。だが、向こうはすぐさま体勢を立て直すと、酷い力でアリアを押し倒し、 叫ぶ間もなく口を塞いできた。 「ふん、やっぱり起きていたんだ」 聞き覚えのある声だった。二日前、下層の酒場前で無理矢理アリアを誘いだそうとした、ヒュームの青年だ。 薄暗がりの中ではよく分からないが、彼の放つ雰囲気は欲情的なものではなく、むしろ殺気に近かった。 抵抗しようとするが、馬乗りになられてがっちりと組み敷かれている。アリアは混乱した。 「安心しろ、別に無理に抱こうって訳じゃない。良い話を持ってきたんだ」 この体勢で良い話もなにもあるものか、アリアはそう叫びたかった。だが、口はしっかりと塞がれたままで、 言葉は出せない。 「ちょっと調べさせて貰ったよ。なぁ、あんた今の自分の立場に満足してるのかい?」 青年はにやりと笑った、ように見えた。言葉の響きには、嘲りがこめられている。 「孤児に恩を着せて、ぼろ雑巾のように働かせる。そんな国に縛られる必要がどこにある。 冒険者って、もっと自由であるべきなんじゃないのかい?」 アリアを組み敷いたまま、ヒュームの青年は彼女の耳に口を近づけた。 「あんたほどの高位の魔道士なら、どこででもいけるんだぜ。知らないのかい?」 (高位の魔道士…わたしが?) 闇の塊が、意志を持って話しかけているのではないかという錯覚に、彼女は陥った。ほんの一瞬、心が動く。 自信を失っていた自分に持ちかけられた甘い誘惑が、耳に残る。 「まぁ、正直に言うとこれが俺の本業。あんたみたいな子をある人に紹介すると、お礼が貰えるって訳」 一見、非道な行為の中にさらりと本音を混じらせる。青年が人を誘惑するときの手だ。本音を聞かせることで、 相手の警戒心を解こうとする。気づかないアリアはただ当惑する。 「な、俺と一緒に来ないか?もっと自由になってみたいと思わないか?」 自由という言葉に、彼女は激しく心を揺さぶられた。国に縛られてなければ、戦いに縛られていなければ、 もっと安楽にすごせるのだろうか。もっとルーヴェルと一緒に…平穏に暮らせるのだろうか。 そんな思いが渦を巻いて、彼女の体から力を抜けさせていく。 ヒュームの青年は、それを無言の肯定と受け取った。そして、自分の置かれている状況を認識する。 年若い娘を組み敷いている、いまの姿。甘い汗の匂いと息づかいが、青年の若さをやがて暴走させた。 そっと手を移動させ、アリアの胸元をはだけさせる。もう片方の手で側にたたんであった布を掴むと 彼女の口にねじ込み、突き飛ばそうとする両手首を捕らえると頭の上で押さえつける。 「!!」 「悪いな、やるつもりは無かったが気が変わった。仲良くしようぜ」 首筋に口づけられ、おぞましい感触にアリアは怯えた。さっきまでの、甘い幻想が一気に吹き飛ぶ。 青年の手が巧みに体をまさぐった。服の隙間から手を差し入れられ、胸を掴まれる。優しさなどかけらもない。生暖かい舌が、彼女の肌の上を執拗に這い回る。恐怖と嫌悪感とで、アリアは気が狂うのではないかと思った。 しばらくして、動きが一瞬止まる。 「そういえば、こないだ同じパーティーでべたべたしていたあの首長はどうしたんだ? …ああ、もしかして捨てられたのか」 闇の中で、くくっと喉の鳴る音がした。笑われた。そう気づいた瞬間アリアの怒りが爆発した。 青年の鼻と思われる付近を狙い、思い切り頭を起こした。がつんと嫌な音がして、アリア自身も痛みで 目が回る。だが、締め付けが緩んだ。手をふりほどき、体勢を立て直すと、向こうが立ち上がりきる前に 思い切り体当たりをくらわせた。 「うわ」 情けない悲鳴を上げて、青年がテントの外に転がり出た。騒ぎを聞きつけて、アリアのパーティーの人間が 何人か、こちらへやってくる。 「おい貴様、彼女に何をした」 問いつめながらも、彼らは乱れた服装のアリアとヒュームの青年を見比べると、すぐに状況を理解した。 「お前、冒険者資格を剥奪されたいらしいな。我々が証人になってやろうか?」 怒りに震える台詞を口にしたのは、奇しくもバンデオムと同じ、ガルカであった。気のいいガルカの戦士は、 なにかとアリア達魔道士を気遣ってくれ、戦闘の時には頼もしい姿を見せてくれていた。 「まったく、まだこんな奴がいるとはね。同じヒュームとして嘆かわしい限りだよ」 アリアと同じ年頃の青年が、やれやれと首を振った。口調は軽いが、それは殺意にも近い怒りを鎮めるため であった。魔道士を失うことは、パーティーの生命線を絶たれるに等しい。もちろん、前衛で体を張って 剣や拳を振るう戦士達を失えば魔道士は生きてはいけない。 チームワークあってこその戦いを、この部外者が汚そうとしたのだ。皆が怒るのも無理はない。 中には、剣の柄に手をかけている者までいる。 「やめてください、もう、いいんです」 服を整えながら、アリアはどうにかそう言った。ただ、怒りで震える口調まではごまかしきれない。 「わたしにも隙がありました。ご迷惑かけて申し訳ありません」 軽く頭を下げる。居合わせた者達は、思わず顔を見合わせた。 それを無視し、アリアは非道を働いた青年を冷たく見下ろす。拒絶された憎しみで震える青年を、 真っ向から見据えた。こんな卑劣な人間に、負けたくはない。 「結構なお話をありがとう。でもわたしには必要のないものです。…二度と、目の前に現れないで」 それだけを告げるとアリアはきびすを返してテントへと戻った。入口で、心配げに彼女に声をかけてくれた 初老のエルヴァーンに、夜明けまで休む旨を伝えて中へと入る。毛布にくるまると、外で誰かが座り込む 気配がした。仲間の誰かが、番をしてくれているのだろう。 「あの、ありがとうございます」 布一枚隔てた向こう側に、アリアは声をかける。返事はなかったが、かしゃかしゃと鎧の触れあう音がした。 言葉は、たしかに伝わっている。 前衛は後衛を気遣い、後衛はそれを信じて前衛を補佐し、癒す。顔も名も知らなかった者同士が、 お互いを信頼して背中を預ける。それを出来るのが本当の冒険者だ。信じた相手を守るためなら、 命なんて惜しくない。 忘れかけていた、かつての決意をアリアは思い出す。守るために命を賭けるのは、自分を粗末にしている からではない。いつ死んでもいいと思っているのとは、根本的に違う。そうだ、何を迷っているのだろう。 (ルーヴェル…) 死にたくないと思わせてくれたのは、他ならぬ彼だ。心に忍び込んでいた虚しさで、歪んでいたアリアの 決意を正してくれた青年は、いつも「生きて帰る」戦いをしていた。無茶はしない、だが、いざという時には 皆で生き残れるために最善を尽くす。自分と彼の違いは、そこだ。一人が犠牲になればいいだなんて、ただの 自己満足だ。 迷いに包まれていたアリアの心が、ようやく光明を見つけた。気づかせてくれたのは、仲間達。昨日までは 見知らぬ他人だった筈の冒険者達だ。守りたい、とアリアは思った。与えられた役割をこなすだけの自分を 捨てて、己の意志で誰かを…ルーヴェルを、守りたい。そうすれば、何かが変わる気がする。変われると思う。 やがて、アリアはゆっくりと眠りに落ちていった。固い決意を、その胸に抱きながら。 翌朝、歩哨の警告でアリアは飛び起きた。テントの外は慌ただしい雰囲気に包まれている。 獣人達が体勢を整え、再びジャグナーへと続く道に押し寄せて来たというのだ。 空になった胃に、水筒に入れてあった果汁を流し込む。戦闘が始まれば、食事を取る暇など無い。 テントから飛び出し、仲間の一人に声をかけた。彼はアリアを待ってくれていたのだろう、 簡単に現状を説明すると、前線へと走り出す。後について駆けながら、ヒュームの娘は呟いた。 「誰も、死なせない。絶対に」 その横顔に、気弱さは無かった。一人の冒険者として在るべき姿へ、ようやく彼女は変わろうとしていた。 やがて眼前に、数匹のオークと戦闘に入った仲間達の姿が飛び込んでくる。ざあっと周囲を見回した。 身の丈ほどもある両手斧を振り回しているガルカの戦士が、肩口に刺さっていた矢を自分で引き抜いている。 少量の血が飛び散ったのを、アリアの視線が捕らえた。立ち止まって意識を集中させ、己の気力を癒しの技 へと変換させる。温かな光が戦士を包み、流れる血を止めた。膂力を取り戻した腕が、振り下ろされた オークの剣を受け流す。ほんのわずかの間、彼はアリアの方を見て微笑した。もしかすると、昨夜彼女の テントを守ってくれていたのはあのガルカだったのだろうか。 「すまん、魔法を食らってから体が重い。なんとかならないか」 細身の長剣を振るう、ヒュームの青年が声をかけた。陽にはえる金髪は、オークの返り血で斑になっている。 「はいっ!」 すかさず、アリアは新たな呪文の詠唱に入った。風の精霊の力を借りて、対象の行動をほんの僅か加速させる 魔法だ。それは、土に属する魔法を打ち消してくれるはず。 彼女の行動は淀みない。腕から変色した血を流している仲間を見つけ、今度は解毒の魔法を唱え始める。 拮抗していた戦況が、有利に進み始めた。 「こっちは大丈夫そう、向こうを手伝いましょう!」 パーティーをまとめていた、ミスラの暗黒騎士が声をかけた。その手の鎌は、獣人と彼女の血で染まっている。 アリアは、彼女に対しても癒しの魔法を唱えた。 「ありがとう!」 ミスラの女はそういって微笑んだ。だがそれもつかの間。武器を握り直すと、劣勢に陥っている他の部隊の 支援に駆け出す。つられて、アリアも走った。 (わたしは、彼女のように戦えない。だからこそ、わたしに出来ることをしなくては) ぶぅんと振り回された槍に吹き飛ばされ、タルタルの黒魔道士が地面に転がった。腹に深い傷を負っている。 先ほどよりも、さらに強い癒しの力で彼を包んだ。魔道士はばっと起きあがると、彼の仲間達が武器を振るう のに併せて強力な魔法を叩き込む。オークがまた1匹、くずおれる。 「よっしゃーー!」 タルタルは飛び上がって喜んだ。しかし、傷のショックが残っていたのか、痛みでうずくまってしまう。 目に涙をため、彼はアリアに苦笑いして見せた。 傷だらけになりながらも、討伐隊は徐々に獣人たちを圧倒し始めた。勝利の予感に、自然と志気が高まる。 一気にたたみかけようと、皆が猛然と切り込んだ。 しかし。たった一人の悪意が彼らを襲おうとしていることに、まだ誰も気づいていなかった。