部屋に戻ると、アリアは居なかった。 ただ、内部は片づけられていて、自分の帰りを待っていてくれたのだと言うことだけが伺える。 寝台に腰掛け、手の中の短剣の柄を眺めた。はめ込まれた、黒鉄製の小さな紋章。 生まれたときから、彼の傍らにあった図章だ。家という名の義務に縛られていた頃の、象徴でもあった。 (俺が、アリアを縛らなければこんな事にはならなかったというのか) 気弱で、放っておけなくて、ついつい世話を焼いていた。 アリアの働きは、今までに組んだどの白魔道士よりも的確だったが、冒険者としての立ち居振る舞いには どこかちぐはぐな所があったからだ。 理由はすぐに分かった。施療院の出身者は、定期的に戦績を国に納めなければならず、また強制的に ミッションを課せられることもあるからだ。討伐隊に参戦し、ミッションをこなし、その合間をぬって 次の戦いの準備をする…そんな日々が、彼女の経験を偏ったものにしていたのだ。 アリアの日常は、ルーヴェルの想像よりも遙かに荒んでいたのを知って、最初でこそどこかで同情していた。 だが、自分よりも小柄な体でそれを受け止めている姿を見るにつれ、過去を捨てたルーヴェルの心に変化が 起こった。いつも見上げるようにしてルーヴェルを見つめ、彼の言葉にいちいちうなずき感嘆する、 素直な彼女と接している内に、いつしか同情が愛情に変わり始めた。 己の変化を自覚したのは、二度目に彼女と再会した時、ノートリアスモンスターとの戦闘に巻き込まれて、 瀕死になりかけたアリアの姿を見た時だ。 一命を取り留めた彼女の姿を見た夜、胸の中にしまっていた想いが溢れた。 かつて、家と名とを捨てるきっかけとなった事件で、誰も守れず、救えなかった自分 新しい名と共に生きるようになってからも、誰とも深い関わりを持たず、孤独に生きてきた自分 誰かを救えたという嬉しさが、ルーヴェルの心を温めてくれた。彼女が自分を慕ってくれていると知って、 更に想いを深めた。過去を知らず現在の自分だけを見てくれるアリア。彼女なら自分を受け止めてくれると、 心のどこかでそう確信したルーヴェルは、体を重ねて彼女を捕らえ、それからは片時も離さなかった。 ずっとずっと、二人で生きていくのだとそう固く決意したのだ。なのに、 「俺が、あいつの未来を閉ざそうとしてるのか」 なぜ今になって?いまさら何を償えと?考えても考えても答えは出なかった。 (罰だとでも…言うのか。同国の者を殺めた…俺の) 手の中の、煤けた柄をぎりりと握りしめる。やらなければ自分が殺されていた。 だがあの時、それまで幾度と無く獣人の心臓を抉ってきた刃で、仲間の背を刺し貫いた瞬間、 ルーヴェルは冒してしまった罪に立ちすくんだ。誰かを救うどころか、人を殺してしまった。 まだ若かった彼に、その事実はあまりにも重すぎた。だから彼は、罪から逃れるようにして、 使いなじんだ剣を炎に投じたのだ。そうしなければ、きっと自分は壊れていたから。 なのに今、蘇った罪の重さが悪夢のように彼を苛んでいる。 捨てたはずの過去に足を捕まれ、奈落の底に引きずり込まれるような感覚に、ルーヴェルは囚われた。 その夜。アリアはルーヴェルの部屋には現れなかった。ルーヴェル自身、彼女の顔を見る勇気を失っていた。 暖炉にくべられていた薪はとうに燃え尽き、海風の冷たさが岩壁を通して部屋を冷やしていく。 冷え切った寝台の上に横たわると、いつしかルーヴェルは眠りに落ちていった。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- 鮮烈な赤が、彼の視界に広がった。仲間の一人が、ルーヴェルの制止を振り切って、半裸の女性を 背中から袈裟懸けに斬ったのだ。腹がずきずきと痛み、声が出ない。もう一人、大聖堂から直接指令を 受けていた二人組の片割れが、止めようとしたルーヴェルの腹に膝蹴りを加えていたのだ。 女神の信者にあるまじき、おぞましい犯行を重ねていた司祭は一番始めに殺されていた。若く美しい娘 を選んで、連れだそうとしていた人買い達も、すでに絶命している。残っていたのは、信仰心を利用されて 弄ばれ、汚された女達だけだった。ひとり、またひとり、血の海の中に沈んでいく。 (女神よ…アルタナ神よ、いるのなら彼らを止めてくれ。こんな事はやめさせてくれ!) どれほど祈っても、奇跡は起こらない。やがて、青年の瞳が驚愕で見開かれた。密偵の一人が、全裸の 女性の腕を掴んで引きずりだしたのだ。 「止めろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」 料理の上手な、心優しい女性だった。穏やかで、控えめで、信心深くて。休日の礼拝をさぼりがちだった 少年時代にはよく叱られたものだった。戦争で夫を失った彼女は、幼くして母親を失ったルーヴェルの家に 乳母として雇われ、実の子のように彼を愛してくれていたのに。 いつも後頭部でまとめられていた銀髪は、今はほどけて彼女の顔を半ば隠していた。何か薬を使われて いたのだろう。緑の瞳は虚ろで、口からは涎が流れている。自分が置かれている状況を理解していないのか、 剣を振りかざす男をぽかんと見つめていた。黒い刃が、ふくよかな胸の間を刺し貫いた瞬間、全身が びくんと跳ね上がった。だが、それで終わる。塵のように投げ捨てられた体は、もう動かない。 仲間だった男達の目が、ついに最後の一人に向いた。それは、他でもないルーヴェルだ。 「王宮に、いや、特にあの宰相の耳に届くのだけは避けたいのでな」 確か、そんな風に言っていたはずだ。いや、言葉などどうでもよい。彼らはルーヴェルを殺そうとしている。 それだけが分かれば十分。 (これが、こんな事が俺達の仕事だというのか!) 自分はそう叫んでいたと思う。国と、大聖堂との軋轢に振り回されながら、罪を闇から闇へ葬る。 いたずらに世間を騒がせないため…人心に平穏を…体裁だけとり繕おうとするすべての言葉が、 空々しく彼の耳を素通りした。そんな仕事のどこに、正義があるというのだ? 怒りと絶望で我を忘れたルーヴェルは、自分に刃を向け、掴みかかってきた男の背に、容赦なく 刃を突き立てた。心の臓をえぐる感覚、獣人も人間も、それは大差なかった。男は即死だろう。 屍を抱いたまま、ルーヴェルは顔を上げる。優しかった乳母は、すでに冷たくなっていた。 (…違う?) 彼女は銀髪で、瞳は緑だったはずだ。横たわるその体はエルヴァーンにしてはやや色白で、小柄すぎる。 胸の間から血を流しながら、瞳孔の開いた瞳がルーヴェルの方を向いていた。顔にかかる髪は黒くて短い。 自分が救ったはずの命、これからもずっと守るべき、愛おしい女。それが、何故? 「アリア!?」 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 自分の叫びで、ルーヴェルは目を覚ました。心臓が早鐘のように鳴っており、乱れた呼吸が治まらない。 (嫌な…夢だ) 胃がむかむかした。バンデオムに殴られた衝撃がまだ残っていたのだ。だからだろうか、こんな夢を見たのは。 起きあがると、水差しから冷たい水を喉に流し込む。床の上に転がっていた、あの黒焦げた柄を拾う。 「『無闇に怖れるな。本当に何もできなくなるぞ』…」 数日前、アリアに告げた言葉を繰り返す。落ち着け、と自分に言い聞かせた。あのガルカは何故これを 持っていたのだ?どうやって、これと自分を結びつけた?考えれば考えるほど、不透明な部分が浮かび出す。 本国でも、公式に死亡とされているはずだ。それを曲げて、なぜ自分が生きていると疑っているのだ? そもそも、あのガルカに疑いをもたれる原因がなんだったのか。ルーヴェルには思い当たる節がまるでない。 (アリアに、聞くべきだな) パウ・チャとサフィニアの報告だけを待ってはいられない。心を切り替えたルーヴェルは、服を整えると 外出の準備を始める。しかし、しばらくしてどんどんと激しく扉を叩く音がした。 「ルーヴ、おいルーヴ。いるのか?」 ヒュームの騎士、ゼノンの声だった。かなり切迫した様子である。鍵をかけ忘れていたため、やがて 蹴り破らんばかりの勢いでドアが開かれた。 「…っ、やっぱり居たか。おい、何かあったのか?」 普段は飄々としているゼノンが、単刀直入に問いかけた。隙さえあれば、ルーヴェルをからかって 酒の肴にするような彼だが、今日は何故かゆとりが感じられない。装備品もかなり汚れている所を見ると、 討伐隊に参加した帰りだったのだろうか。 「…何か、と言われても」 言葉の意図する所が分からず、ルーヴェルは困惑した。 「たった今、俺と入れ違いで嬢ちゃんが臨時募集の討伐隊に参加していたんだ」 「なに?」 「魔法ですっ飛んでいっちまったから、声をかける暇も無かったよ。リンクパールも外していたようだしな。 だが、お前の姿がないのと、俺達に何も言わずに行ったというのがどうにも気になった。募集自体も、 定期募集と銘打ってはいるが、その実は戦力補充のために今朝がた急に決まったものだったし」 「どういう事だ」 「ダボイとジャグナー森林を繋ぐ道の辺りで、高位のオーク共が集結しているんだ。俺は斥候として 出ていたんだが、とても戦力が足らなくて。とって返して、討伐隊を再編するよう申請したのさ。 報酬は破格だが、今回はだいぶ危険だ。状況が状況だけに、事情を把握してない者もいて浮き足立ってる」 ルーヴェルの顔から血の気が引いた。アリアの心がわからず、しばし呆然とする。 「ルーヴ、なぜ嬢ちゃん一人で行かせた?何があった?」 厳しい口調で問いつめられ、青年はとっさに答えられない。だが、やがて原因にたどり着いた。 答えはただひとつしかない。彼女は、そこまで追いつめられている。 「ゼノン、すぐ出られるか」 髭面が、いぶかしげにゆがめられた。 「理由…は後で話す。今は、すぐにでも発ちたい。…頼めるか?」 言いながら、ルーヴェルは革鎧を纏い、出立の準備を整える。 側にいてやれと、パウ・チャに言われていたはずなのに。己の苦悩に取り付かれて、片時でも守るべき モノを見失っていた自分を、ルーヴェルは呪った。離れたくないと泣いていた姿が、脳裏に蘇る。 離さない、離すものか。世界の全てが敵に回っても、俺はあいつを守る。 「構わんが…パウ・チャとサフィニアに連絡が取れん。ディルもジュノを離れているし、余所から人を 集めていては時間が…」 ぶつぶつとゼノンが呟いている間にルーヴェルは支度を終え、ドアを蹴り開いた。 「ああもう、分かったよ。行けばいいんだろう、行けば」 暖炉の脇にかけられていた、清潔な手ぬぐいを一枚失敬しつつ、ゼノンもそれに続いた。 長身に似合わぬ身軽さのルーヴェルの後を、顔を拭きながら走る。鎧の目立った汚れも拭き落とす頃には、 上層の町並みが見え始めた。遙か下に海面を望む、外壁の向こう側に汚れた手ぬぐいを丸めて放り投げる。 警邏隊であるサフィニアがこの場にいたら、きっと彼女に殴られていただろう。 「なぁ、ルーヴ」 駆け続ける青年の背中に、ゼノンは声をかけた。 「お前、変わったよ。もの凄く」 その声に、嘲りや嫌味はなかった。ルーヴェルは肩越しにちらりと、ヒュームの男を振り返る。 「パウ・チャにも同じ事を言われた」 止まりもせずに、エルヴァーンはぼそりとそう呟いた。ほう、とゼノンは嘆息する。 「そうか。まぁ、悪いことではないからな」 何気ないその台詞が、青年の心に響いた。萎えかけていた想いを、再び強く意識する。 (そうだ、俺は変わらなければならない。あの悪夢からあいつを守るために) 夜が明け始めたジュノの街角を、二人の男が一陣の風のように駆け抜けていった。