遠くから雷鳴がかすかに響く。僅かに水の匂い。きっとパシュハウ沼の方は雨が降っているのだろう。 打ち合わせ通りコンシュタットに降り立った四人は、小休止の後、二手に分かれた。 「でも、本当に大丈夫なんですか?二人だけで…わっ」 ディルムッドの顔色はまだ悪い。心配したアリアはそう問いかけるが、背後から腰に腕を回され、ひょいと鞍上に 持ち上げられた。ルーヴェルがすでにチョコボに乗っている。 「んー、だいじょぶだいじょぶ。ぞろぞろ行く方がよっぽど危ないって」 ひらひらと手を振るディルムッドが、エルヴァーンの青年に目配せする。小さく頷くと、彼はチョコボを走らせる。 でも、と言いかけたアリアの声が最後に届くが、あとは絹を引き裂くような悲鳴が流れ、そして遠くなった。 彼女はチョコボに乗るのが苦手なのだ。そして、二人乗りというのは実は結構危なかったりする。 「あーあ、かわいそ…」 ミューリルがぼそりと呟いた。まぁ、ルーヴェルの腕は確かだから、落ちることはないとは思うのだが。 「さ、俺達もいこう」 ディルムッドはさりげなく彼女の手を掴み、夜空の下を歩き出した。 「もう、ルーヴったら!」 ルーヴェルの腕に支えられながら、アリアが悪態をついた。しかし、その声は僅かに震えている。かなりの速度だ。 落ちれば怪我は免れない。仕方がないから、腹を立てながらも彼の腕にしがみついてる。 「ディルさん、まだ具合が悪いみたいなのに…いいの?あのままで」 「構わん。それに、あまり野暮な事はしたくない」 即答するルーヴェル。真下から、アリアは彼を不思議そうな眼で見上げた。しばらくその言葉の意味を考え、 やがて彼女は赤面する。 「それ…は、つまり、その……そういうこと?」 ルーヴェルは身をかがめると、アリアの頬にキスをした。そして、彼女を支える腕に軽く力をこめる。 「ご名答」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「こうしてると、思い出すな」 さりげなく、ディルムッドは切り出した。あちこちの傷跡がずきずき痛むが、それは決して口に出さない。 チョコボに乗ることは出来なかった。使えば、必ず足がつく。しばらくの間、それだけは避けなければならなかった。 祭を妨害されたミスラ達が、どういう出方をしてくるかはっきりするまでは。 「昔さぁ、まだちっちゃかった頃だけど、仲の良かった子がいたんだ」 ふふっと、思い出し笑いをする。蘇る遠い記憶は、彼にとっては何ものにも代え難い宝物だった。 「俺、子供の頃は体が弱くて、よく守って貰ったんだけど。その子、いかんせん無鉄砲な子でね、 ある日ロランベリーの畑に迷い込んで、帰れなくなったんだ」 ふっとミューリルの視線が彷徨った。自分の手を引く青年の、その金色の髪を凝視する。どこかで、見たような構図。 「俺、どうにかその子を見つけたんだけど、周囲はグーブーやクゥダフで一杯。畑のガードさんに来て貰って、  やっと街まで帰れたんだ。でもその子、恐怖で足がすくんでたらしくて、仕方ないから俺が手を引いてたの」 きゅっと手に力がこもる。温もりが、互いに伝わる。 「こんな風に」 振り返りもせずに、彼はそう言った。昼間なら、その耳が真っ赤になっているのが見て取れたのかもしれない。 「う…、え……えーと」 冒険者としてジュノに戻り、パウ・チャのリンクギルドに所属してすぐ、獣人討伐隊で出会った青年。 出会ったその日にリンクパールを要求され、ギルド仲間となった彼に対して、最初でこそ中衛という半端な位置で戦う 姿にに苛立つ事もあったが、その的確な仕事ぶりはミューリルだけでなく、皆を感嘆させた。ただ、彼は何かと ミューリルに付きまとい、少なからず鬱陶しくもあったが。 でも、嫌いにならなかったのは、初めて出会ったときどこか懐かしい感じがしたからだった。自分も、幼い頃に ジュノで暮らしていた頃があるから、同じジュノ育ちの彼とどこか共感したのだと、そう思った。しかし、 「…まだ、思い出さない?」 言葉が揺れる。泣き出しそうな声だと、ミューリルは思った。いつも笑顔の下に本音を隠すディルムッド、 その彼が、こんな風に乱れるなんて。 「その子、手を引かれながらゆったんだ。『いっしょにいて、ずっといっしょにいて』って、泣きながらね」 脳裏に蘇る光景が、ミューリルの思考をしばし止める。あの時、つまらない親子喧嘩で飛びだしたのは自分。 ようやく戻った自分を母は泣きながら抱きしめてくれ、つられて泣き出す自分に、ゼノンが温かいミルクを 差し出してくれた。帰れる場所があるという安堵感が、彼女を幸せな気持ちにさせてくれた。 そして、助けに来てくれた少年に淡い恋心を抱くようになった彼女は、幼い独占欲で彼を自分のものにしようとした。 『ミューの、おムコになれ!』 事件の翌日、少年を迎えに言った彼女は開口一番、そう言ったのだ。少年は驚きながらも、こくこくと頷いていた 気がする。もっとも、その時は言葉の意味をきちんと理解していたとは言い難いが。 「……『ディー』?」 ほとんど無意識に、その言葉が口をついた。ディルムッドが立ち止まる。天を仰ぐ。雲はゆっくりと晴れて、星々が 彼らを見下ろしている。手が離れた。青年は、両手でガッツポーズを取る。そして、くるりと振り向いた。 「約束、思い出してくれた?」 ぽかんとミューリルの表情が固まった。だが、すぐにはっと我に返る。 「じょ、冗談でしょ?!なんで?なんで?だって、ディーはもっと色白で、もっと軟弱で…」 「うは、キツっ!ま、事実だけど…あのね、俺だって一応頑張ったの。10年近くもたてば人なんて変わるって」 苦笑いしながらそう告げるディルムッド。くるくるとよく変わる表情から、薄幸の美少年の面影など微塵も感じられない。 「それに、ミューが言ったんだよ?『おムコになれ!』って…だから」 「うるさいうるさいうるさーい、それ以上言うな〜〜!」 幼さゆえの暴走をつつかれて、ミューリルは逆上した。ふー、ふー、と荒い息を付く。ふと、背中に生暖かい風が ふううっ、とかかった。同時に、ずしん、と大地が揺れる。ディルムッドの視線がミューリルの頭のやや上を向き、 そして引き攣った。 「逃げ!!!!!!!!」 言われるまでもなく、ミューリルは駆け出した。本能が危険をびんびんと伝える。近頃、コンシュタットやラテーヌでは 熟練の冒険者ですら圧殺する凶悪な大羊が出没するという話を聞いたことがあるからだ。 ディルムッドが気力を振り絞り、魔法を繰り出す。足を止め、鈍くさせ、そして眠らせる、対象の行動を阻害する為の 考え得る限りの呪文を唱え尽くして駆け出す。 「あうっ!」 衣装の裾が足に絡みつき、ミューリルは転んだ。すぐに跳ね起きると裾を縦方向に思いっきり切り裂く。 上等な絹布が台無しだ。勿体ない…とディルムッドが口の中で呟いた。 荒涼とした岩の大地に、僅かな下草、だが比較的穏やかな気候のグスタベルクにたどり着いた二人は、休めそうな 岩屋を見つけてやっと腰を下ろした。ここまでくれば、もうあの大羊は追ってこない。たとえ来たとしても、 バストゥークの警備隊によって撃退されることだろう。 わずかな荷物から食料を取り出し、二人で分け合う。水が足らない。アウトポストに常在する商人から水を分けて 貰うために、ディルムッドは一人で傷を押して出て行くことになった。何せ、花嫁衣装のミューリルは目立ちすぎる。 取り残された彼女は、ぼんやりと考え事をしていた。遠くからごうごうと滝の流れる音がわずかに響く。 (これからどうなっちゃうんだろう…) ウィンダスには戻れない。それどころか下手をすれば追っ手がかかるだろう。ゼノン、彼は「どうしたい?」と問うた。 奇しくも、族長も同じ問いかけを自分にした。何故か気になった、ユスランという女の動向。そして… (ディー…か) 子供の頃の淡い恋が、幸福の記憶と重なった。ディー、いや、ディルムッド、彼がずっと自分を知っていたなんて。 ずるい、と単純に彼女はそう思った。知っていたら、もっと早くに気付いていれば、色々話せたかもしれないのに。 彼は最初から、ミューリルの事を分かっていたのだ。なのに、どうして言ってくれなかったのだろう。 「ああ、もう、ばかばかばか、ディーの…大バカ…!」 膝を抱えてミューリルは泣いた。頭の中がごちゃごちゃして、考えがまとまらない。あんまりにも沢山の出来事が ありすぎて、それが彼女を翻弄している。 「ミュー…?どうしたの、どこか怪我でもしてた?!」 おたおたとディルムッドが駆け寄った。その手がぺたぺたと自分の体に触れる。だが、不思議と嫌な感じはしなかった。 いつもだったら、ここで自分がキレて彼に八つ当たりをする所だ。だが、ディルムッドは彼女の暴言をいつも苦笑して 受け流す。最後まで耳を傾け、決して自ら荒ぶる事はない。いつもいつも、彼はそんな風に彼女の側に、居た。 「なんで、どうして話してくれなかったの…」 腫れた眼で、ミューリルはディルムッドを見上げた。涙で、彼の顔がぼやけている。 「なんで、側にいるの?なんで、儀式のジャマしたの?なんで…なんでいつも、そんな風に優しいのよ…っ!」 駄目だ。ミューリルの心が警鐘を鳴らした。自分が、彼に、寄りかかろうとしている。ゼノンに受け入れて貰えなくて、 一族を飛びだす羽目になって、どうしたらいいのか分からずに震えている心が、ディルムッドの温もりを求めている。 青年の手が、娘の肩に置かれた。顔が近づいて、額にちゅっと口づける。子供同士でするような、軽いキス。 「俺、決めてるから。ずっと」 真摯な緑の瞳が、蒼い水晶のようなミューリルの瞳を覗き込む。その瞳に映った自分を、見つめている。 「ミューも、決めて。じゃないと、俺…ミューのこと『貰っちゃう』よ…?」 温かなものが、ミューリルの唇に触れた。それがディルムッドの唇だと気付いたのは、少し遅れてからだった。 それはすぐに離れて、もう一度、触れるようなキス。そしてまた、すぐに離れる。ディルムッドの手が震えていた。 「…ごめん、急がせたくなかったけど、やっぱり限界だ。俺、ミューのこと…」 欲しいんだ、彼は唇だけでそう告げた。今まで何度かあるけれど、こうまで露骨に『女』を求められたことは無くて、 それがミューリルを困惑させる。どうしたらいい、どうしたらいい、胸の内でその問いがぐるぐると巡る。 気が付いたら、ころんと寝転がっていた。そこでようやく気付く。 「だ、ダメっ!」 慌てて彼を突き飛ばした。心臓がばくばくと音を立てて騒いでいる。恥ずかしさだけではない、これは…あの時と同じ。 「駄目…だよ。わたしとやったら、ディー…死んじゃうよ!!」 その事実に気付いて、ミューリルの瞳からぼろぼろと涙が溢れた。口の中に、血の味が蘇る。ゼノンを噛んだときの事を、 微かに覚えていたから。そうだ、自分は他の種族とは、交わってはいけない。 だからこそ、儀式に参加しようと決意したのだ。 なのに、体が熱い。さっきのキスを思い出して、全身が震えた。痺れるような甘い感覚が、背筋を駆け昇る。 なんて、自分勝手なんだろう。己の軽薄さに、ミューリルは本気であきれ果てた。あんなにもゼノンを慕っていたのに、 今の自分は、優しいこの青年に心が揺らいでいる。なら、尚のこと、自分は彼に抱かれる資格など無い。 よろよろと立ち上がって、彼女は外に出ようとした。その腕を、掴まれる。 「どこ、行くの?」 ディルムッドの声が固い。その瞳に、わずかに怒りが籠もっている。 「今から外でたら、バストゥークの警備隊に見つかるよ?そのカッコで、なんて言い訳するつもり?」 はっと気付いて、ふらふらと足から力が抜けた。もう数時間もすれば夜明けだ。昼日中にこんな服装で出歩ける訳が無い。 見つかったら連れ戻される。最悪、二度とウィンダスから出られない。ゼノンにも、ディルムッドにも、 きっと一生会えなくなる。それは、それだけは、絶対に嫌だ。彼女は、青年の方を振り向いた。涙がぽろりとこぼれる。 「いい子だね、ミュー」 意地悪っぽく囁いて、ディルムッドはミューリルの躰を引き倒した。