朝もすっかり遅くなった頃、アリアはようやく目を覚ました。 毛布にくるまれた自分が、全裸であることに気づいて赤面する。 「ルーヴ…?」 呼びかけるが、返事は無い。寝台の半分はすでに熱を失っており、部屋の中に主の姿は見あたらなかった。 別に珍しい事ではない。ルーヴェルの部屋で朝を迎える日は、たいてい彼の方が先に起きている。 床に落ちた服を拾って、もそもそと着替える。 火種の入った壺から暖炉の薪に火を移し、部屋を温めると、アリアは部屋の掃除を始めた。 まるで、夫婦の真似事のようだと彼女はふと思った。 愛する人が居て、帰りを待って、温かな食卓を囲む。ありふれた、平穏な生活。 でも、しょせんは真似事だ。なぜなら、自分も彼も、冒険者なのだから。 「冒険者…」 戦闘でも、日常の生活でも、そして冒険者としての在り方でも、ルーヴェルはアリアより遙かに 経験豊富だ。いや、ルーヴェルだけではない。リンクギルドのリーダーでもあるパウ・チャ、ギルドの 双璧とも呼ばれているナイトのゼノンとサフィニア、華奢な体から必殺の拳を繰り出すモンクの ミューリル、そして黒魔法と白魔法をともに使いこなす赤魔道士のディル…皆、一流の冒険者と 言って良い。彼らはアリアの知らない事を教えてくれる。チームの中に、アリアの居場所を作ってくれる。 アリアは、そんな彼らに応えたくて、必死で後を追うのだ。 わたしは何が出来るんだろう? 愚かな問いが、アリアの胸を刺した。 ルーヴェルと暮らすようになってから、冒険者としての彼女は生活は劇的に変わった。 施療院出身者として、国から強制的に与えられるミッションは、以前とは比較にならない期間で こなせるようになったし、それに従い、実感が伴わないままにどんどんランクだけが上がっていった。 今回の査定だって、バンデオムが来なければここまで動揺することはなかっただろう。 そして、個人としても、何もかもが変わっている。 いつ死んでもいいと、昏い虚無を心に住まわせていたアリアに、生きたいと思わせてくれた青年。 夜毎、彼女を愛してくれる優しいエルヴァーンは、一番近い他人になった。 ありふれたおとぎ話の王子様のように、突然あらわれては何度も命を救ってくれたルーヴェル。 自分は、彼に釣り合う存在なのだろうか。経験の無さと、あまりの無知さを思い知らされ続けたアリアは、 胸の中にしまっていた疑問を膨れさせてしまう。 何故、ルーヴェルはわたしを側においてくれるんだろう? わたしは、彼になにをしてあげられているだろう? 一拍おいて、己の問いに己が答えを出す。 (わから…ない) アリアは、自分の心がすうっと冷えるのを感じた。 (わからない…本当にわからない!) 施療院の孤児達の中で、アリアは決して優等生ではなかった。魔法の素質は常人より多少勝る程度だったし、 今でも黒魔法は上手く使いこなせない。だからその分、技を磨こうと思った。魔法に頼らなくとも、傷や 病気を治せるように錬金術の勉強もした。でも、それでもやはり、持って生まれた才能というのは存在する。 同期の生徒達が次々と冒険者として認定されていく中、何故かアリアの評価はいつも厳しく、どうにか資格を 授与された時は最後から数えるほどの順番だったと言っていい。 何度か、瀕死に陥るような恐ろしい目にもあった。また、自分が未熟だったせいでパーティーを組んだ相手を 危ない目にあわせてしまったこともある。 それでも、歯を食いしばって、一人で耐えてきた。大聖堂からの依頼を完遂し、秘法と呼ばれる魔法を 授けられたときは天にも昇る心地だった。やっと自分の足で歩き出せたと思っていた。その時までは。 なのにルーヴェル達に出会ったことによって、良くも悪くもアリアの自信は粉々に打ち砕かれた。 だから、彼と彼の仲間に求められるまま自分に与えられた役割をこなし、その恩恵に預かるようになった。 自発的に動くことを、自分の頭で考えることを、無意識のうちに止めてしまった。 ルーヴェルの言うとおりに…みんなの望むままに…そうしていれば、間違えない。怖い事なんて、ない。 でも、それでいいの?本当に? 自分の進んできた道のりに思いを巡らせながら、アリアはよろよろと立ち上がった。 (ダメ、このままだと本当にわたしは、何もできなくなる…ルーヴの側に、いられなくなる) 歪んだ決意が、迷走する彼女の心を捉えた。幽鬼のような足取りで自分の部屋に戻ると、戦装束に身を包む。 (しっかりしなくちゃ、ルーヴみたいに、強くならなくちゃ…) 支度を終え、アリアは扉を開け放った。目指すはルルデの庭、故国の領事館。そこはいつも、仕事と仲間を 求めて冒険者達が集う場所だ。折良く、定期的に行われる討伐隊の募集が掲示されていた。派遣先は少々 危険な場所ではあったが、その代わり、完遂時の報酬は大きかった。アリア達、施療院出身者が月ごとに 納めなければならない戦績、それがゆうに数ヶ月分は支払われる事になっている。 さっと周囲を見回して、パーティーを組み始めたであろう人々を観察した。 やがて、数名の視線がちらちらとアリアに向いた。金属や、革の鎧に身を包んだ集団だ。アリアのように、 明らかに魔道士と判る服装をした者は、その中には居ない。おそらく大丈夫だろう。すぅ、と息を吸う。 そして、ルーヴェル達と出会うまで、繰り返していた言葉を思い出す。 「白魔道士のアリアです。もし討伐隊の参加枠があるのなら、ご一緒させてください」 アリアがルーヴェルの部屋を後にした頃、エルヴァーンの青年は沈痛な面もちでジュノの町並みを歩いていた。 「おや、偶然だな」 冒険者達の居住区へと繋がる回廊へ出たとたん、彼に声をかける者があった。忘れたくとも忘れられない声。 ルーヴェルの全身がさっと緊張する。そう遠くない場所に、あの鈍色の鎧のガルカが立っていた。 「ちょうど良かった。たった今、君の部屋はどこかと訪ねる所だったのでね」 微笑するバンデオム。しかし、ルーヴェルの目にその笑みは仮面のように映った。どこまでも儀礼的だ。 「俺に、何か」 内心の激昂を悟られないように、つとめて平静を装いながらルーヴェルは応えた。ガルカの意図が、判らない。 「ふむ…ここでは何だ。どこか、静かに話せる場所にいこうか」 バンデオムはそう言ってくるりときびすを返し、町並みの方へと歩き始めた。 ルーヴェルはふと、居住区の方に目をやった。アリアはもう目覚めているだろうか。 出来れば、そっとしておいてやりたい。 可哀想なくらいに怯えていた夕べのことを思い出し、青年は黙ってガルカの後に従った。 大通りをぬけて、下層の中でも一段低い、場末の酒場に入った所で、彼の足は止まる。主人と思われる年老いた ミスラがバンデオムを見ると、あごをしゃくって奥の席を指した。まばらにいる客の誰もが、新たな客二人に 目もくれない。静かに飲む者、また、明らかに密談と思われる話に興ずる者などなど、みなが勝手に振る舞う。 老ミスラが、エール酒(ビール)の入ったジョッキを運んできた。ガルカは何も言わずに対価を支払う。 その様子を見る限り、彼はここの常連なのだろう。 「さて、まず話というは他でもない。アリアの事だが」 一口で、大きなジョッキを半分も空けたバンデオムが唐突に切り出した。 「彼女はバストゥークに戻されるだろう。いや、戻さねばならない」 けたたましい音を立てて、ジョッキが床に落ちた。テーブルを蹴り倒して、ルーヴェルがバンデオムに 掴みかかったのだ。嫌な音がして、青年の拳がガルカの頬にめり込んだ。続けて二発目が顎に命中する。 しかし、 「一発目は、許そう」 バンデオムの掌が、再度振り上げられたルーヴェルの拳を止めた。はっと気づく間もなく、剛腕から 繰り出された一撃が青年の腹に叩き込まれる。とっさに腹筋を締めて衝撃を殺すが、それでもあまりの力に 息が止まった。意地にかけても、咳き込むところは見せまいとする。 「不本意だろうが、これはすでに決定したことだ」 死刑宣告ともとれる、冷徹な言葉がルーヴェルの耳に突き刺さる。 店の中は相変わらず静かだった。客達は、互いのトラブルには干渉しないのが、暗黙の掟になっているから。 「…決定だと。お前が認めない、の間違いだろう」 大使から聞いた話を思い起こしながら、青年は反論した。施療院出身者だからといって、国から非人道的な 強制を課されていたのはずっと昔の話だと、大使は言った。今まで星の数ほどの冒険者達と接してきた人間が そう言っていたのだ。なのになぜ、このガルカは一調査官の立場でこんな物言いが出来るのか。 「そうだな」 バンデオムはあっさりと肯定した。ルーヴェルは更に耳を疑う。こいつは一体、何者なのだ。 「もちろん、理由はある」 倒したテーブルを戻し、椅子に座り直すと、ガルカは冷たい視線で床に膝をつくエルヴァーンを見下ろした。 「近頃はずいぶん規約も甘くなった。施療院出身者は皆ランクを上げ、ジュノ大使館所属になれば自由の身だ。 その後は、他国へ移籍することでかつての故国に仇を為す者も多い。国の恩恵と、国民の血税で一人前の 顔が出来るというのに」 苦々しげにバンデオムはそう言った。 「きちんと義務をこなそうともせず、自由だけを求められては国は乱れるばかりだ。 アリアにも、他国へ移籍することで、国家義務から逃亡するのではという疑いがかかっている。その証拠に…」 一度、口を閉じる。店の主人が床におちたジョッキを拾って、去っていった。 「サンドリアの密偵が、彼女に接触したという話があるのだよ」 剣のような眼差し。否定を許さない、永久凍土のような固い意志。鈍色の鎧のガルカは、忘れたはずの過去を ルーヴェルに突きつける。まるで、青年と娘の未来を閉ざそうとするかのように。 「サンドリアも、ウィンダスほど魔道士に恵まれているわけではない。他国の者を勧誘し、移籍させる動きが 少なからずあると聞く。事実ならゆゆしき問題だ。私は、その調査をも受けてここへ来た」 懐から何かを取り出し、ガルカはそれを床に放り投げた。からからと乾いた音を立てて、それは青年の元へと 転がってゆく。拾い上げたエルヴァーンの水色の瞳が、驚愕で見開かれた。 呆然として言葉もないルーヴェルを残し、やがてバンデオムは席を立った。昼だというのに薄暗い店内を抜け、 日の射さぬ路地へと続く扉を抜けて、店を後にする。 青年が、よろよろと立ち上がった。ガルカの後を追う気力すら、失われている。 その手の中には、刀身を失い、ひどく焼け焦げた短剣の柄が握られていた。