「今宵訪れるは大地と風の恵み、願うは変わりなき繁栄、我々ミスラの一族に幸いあれ」 ミスラの族長の厳かな声が響く。森の区をぐるりと巡って戻りつつある花嫁行列に先立ち、居住区の奥に設けられた 4棟の東屋(あずまや)の前で、祈りを捧げているのだ。 4色で塗り分けられたそれは、花嫁と花婿がそこで契りを交わすためにしつらえられており、うちひとつに、 ミスラの男が身を潔斎して女を待っている。やがて到着した花嫁は、差し出された4枚の札の中から1枚を選び、 同じ色の東屋に向かうのだ。一夜に契る女は一人だけ。それを、数日から時には一週間近くかけて行う仕組みに なっている。 ふと、彼女は足を早めて周囲との距離を取った。暗がりに向かって、呟くように声をかける。 「久しいの。その後、腕は上がりましたか?」 風に乗って、返事が返ってきた。特定の範囲だけに声を届けるという、訓練された発声であるため、それは 族長の耳にだけ辛うじて届く。 「ふむ…なるほど。ではそなたは…いえ、いいでしょう。彼女を出し抜いて、やれるものならやってご覧。  私は止めません。あなたも、そして彼女も」 しばらくの沈黙、そして短い返事が届く。 「礼などいりません。むしろこの状況は私が望んだこと。あの男を解き放つためにも、きっと必要だから」 その言葉が伝わると、暗がりに潜んでいた気配がふっと消えた。そしてようやく、護衛達が族長の元へとやってくる。 ミスラの長は、ひとつ溜息を付くと、再び祈りの言葉を呟いた。 「そして、いまひとつ…運命に立ち向かう者達にもまた、幸いあらんことを…」 護衛のミスラが首を傾げた。明らかにとってつけたような言葉だ。しかし、その疑問を口にすることはない。 居住区の入り口の方が騒がしくなった。行列が戻ってきたのだ。周囲に緊張と熱狂が伝播する。 族長は、閉ざされた眼をそちらに向けた。その表情は、厳しい。 ゆっくりと歩みをすすめながら、うつむくミューリル。見慣れたダルメルの飼育園を横切り、懐かしい場所へと 戻りつつあるというのに、その心は悲しみで溢れていた。 自分は何一つ変わっていない。体は成長し、技も磨いた、それなのに、その心は昔と同じままだった。 (ゼノン…あたしは) 強くなんて、なれてない。彼の言うとおりだ。未熟で、甘い自分をごまかすために、もっと彼に近づきたいと いう心をねじ曲げて、「好きだ」と錯覚していただけだったのだ。それを、今頃になって気付くなんて。 もうすぐ、居住区だ。もう戻れない。 視界が涙で霞んだ。母さんは、どうだったんだろう。ミューリルはふとそんなことを考えた。 後ろ盾のない親子二人の生活を支えるために、母は随分無理をしていたのではないかと、今になって思う。 儀式を済ませて、子供が出来れば、母親として少しは強くなれるだろうか。子を為した女は、一族の庇護を 無条件で受けられる。冒険者を辞めて、ここで子供と二人で平穏に暮らすのが、一番いいのではないだろうか。 ここなら、自分を受け入れてくれる。だってここには、ミスラしかいないから。みんなが自分を分かってくれる。 奇妙な安堵感が彼女を包んだ。流れ落ちそうになる涙を慌ててふき取る。悩む事なんて無い、族長も儀式に出ろと 言ってくれた。ゼノンがいなくても、ここでならきっと、自分は心穏やかに暮らせるのだ。きっと。 ミューリルは顔を上げた。そろそろ、4人の花嫁の最初の一人が到着しているはずだ。最後尾の自分がたどり着けば、 祭はもう終わる。あとは、札を引いて、東屋に籠もって、男を待てばいいだけだ。外れたら、寝てしまえばいい。 そんな風に、無理に自分を納得させ、落ちつかせた。もう、ゼノンの方を振り返らない。 Bang!Bang!!Bang!!!!!!! 「何事だっ!」 ユスランが声を荒げて叫んだ。もうもうと立ちこめる煙と、硫黄の匂い。もうここまでくれば、観客はほぼいない。 では誰か、それは即ち、祭の妨害者に他ならない。煙の向こうからけたたましい叫び声が聞こえた。 神速の勢いで矢をつがえ、撃つ。 「やめろ!」 ゼノンの叫びは遅かった。すでに矢は放たれ、叫び声の主を射抜いている。 「軽い?」 ユスランは首を傾げた。手応えが軽すぎる。人ではないのか。背後から、斜め前から、そして正面から、同時に 何ヶ所から叫び声が上がる。 「くっ!」 状況がつかめない彼女は、それでも狙いだけは正確に発生源を貫いた。しかし、どれもこれも当たりが軽い。 困惑するユスランとゼノン、そして行列を構成していたミスラ達。やがて、煙が少し晴れた。 周囲には、矢で射抜かれた物体がいくつも転がっている。ゼノンがそれを拾い上げて眺めた。 それはサケビタケと呼ばれるキノコの一種だ。土から生える瞬間や、強い衝撃を与えた時に奇声を発するという 珍しい特徴を持っている。 「きゃっ」 小さな悲鳴が上がった。ミューリルのものだ。全員が一斉にそちらを振り返る。 「な…っ!?」 端正な顔の彼女が、ぽかんと口を開けてその光景を見つめていた。それはゼノンも同じだ。 「わ−−−−−−−−−−−−−−−っはっはっはっはっはっ!」 真っ赤なマスク、真っ赤なマント、真っ赤な布鎧に身を包んだ人物。 それが、ミューリルを肩に担ぎ上げて呵々笑いしていた。花嫁衣装に負けず劣らすの派手さだ。 その周囲にはぱちぱちと火の粉がまとわりついている。炎の魔力を身に纏い、攻撃してくる敵を傷つける魔法だ。 その人物は懐から小瓶を取り出すと、栓を抜いて床にたたきつけた。周囲の火花がそれに引火し、ぼむっと 煙が立ちのぼる。発火薬だ。 「嫌がる娘を無理矢理嫁がせるなど言語道断!愛と正義の名にかけて、彼女はいただいて行くぞ!!」 「…こ、この馬鹿ディルっ!何言ってんの、おろして、おろしてったら!!」 一瞬で正体を見破られ、赤衣装の人物はがくーっと肩を落とした。しかし、すぐに気力を取り戻す。 「と、とにかくっ!こんな結婚は俺的即却下!じゃ、みなさんそーゆー事でっ!」 人一人抱えているとは思えない俊足で、ディルムッドは駆け出した。周囲のミスラ達は慌てて弓に矢をつがえるが、 この状態ではどうやってもミューリルに当たる危険を拭えない。手出しできずに右往左往している。 そんな中、ユスランだけが弦を引き絞った。その瞳が燃えさかる感情を映しぎらついている。 「よせ!ミューに当たる!」 止めようとするゼノンを、彼女は無視した。 「行かせない!絶対に!!」 煙にまぎれて、視界が悪い中、彼女はそれでも狙いを定めた。尋常ではない。そこには殺気すら感じられる。 ゼノンの戦士としての本能が危険を感じ取った。考える前に、手にした盾を構えて突進し、彼女に体当たりを 食らわせる。オークですら押し戻すその技が、小柄なユスランを吹き飛ばした。 「よ、よくも…」 体勢を立て直した女は、ヒュームの騎士を怖ろしい顔で睨み付けた。先ほどまでの無表情が信じられないほど、 鮮やかな感情を浮かべている。ひゅんひゅんと煙を裂いて、彼女の放った矢がゼノンを襲った。だが、彼はそれを 盾で受け、鎧で滑らせ、剣でたたき落とす。残る一本が騎士鎧の隙間を付いて皮膚を浅く傷つけた。 しかし、腕はゼノンの方が僅かに、上。男と女は、じっと対峙する。 だが、居住区の奥の方から起こった騒ぎが耳に届くと、ユスランは即座に身を翻して走り出した。 「く、待て!」 金属鎧のゼノンは、皮鎧のユスランに比べ、どうしても早さで劣った。みるみる差をつけられる。 だが、彼には確信があった。ミスラの族長だ、きっと、彼女の元で何かが起こる。それは予想というより確信。 戸板の渡された道を、彼は駆け続けた。 自分の贖罪はまだ終わっていない、今はまだ、ミューリルから離れる訳にはいかない。それだけは譲れない。 (あのバカ、嬢ちゃんを巻き込んだな。って事は、ルーヴもかよ…) 錬金術の腕を持つ、ギルド仲間の白魔道士と、その恋人である狩人の姿を思い浮かべ、彼はただ苦悩した。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 祭の混乱に乗じて、ミスラの族長の前に、赤い衣装に身を包んだ一組の男女が居た。 護衛の者達は処理に追われて今はいない。他ならぬ長の命で、向かわされていたのだが。 「えーと、その。初めまして」 仮面を取り、ディルムッドはぺこっと頭を下げる。対照的にミューリルはぺたんと床に座り込んでいる。 その顔は今にも泣き出しそうだ。祭を妨害して、ただで済むはずがない。 「お祭り、邪魔してすみませんでした。でも、俺どうしても納得できなかったんで」 「ヒュームに、ミスラの何たるかを理解して貰おうとは思わない。そもそもお前の行動によって、 ミューリルに罰が下るとは考えなかったのか?浅慮は我が身だけでなく仲間をも滅ぼすぞ」 厳しい言葉に、しかし青年は顔色を変えることはなかった。緑の瞳はあくまで、族長の顔を凝視している。 「すみません。できれば俺もこんな手段は使いたくなかったんですが、彼女の保護者がちと過保護でして。 あなたにご相談するしかなかったんです」 ディルムッドは小さく溜息を付いた。肩の傷がまだすこし疼く。 「聞いたのか?ミューリルとその母のことを」 「はい」 娘の全身が硬直した。彼女は思わずヒュームの青年の方を見上げる。羞恥と絶望が、ミューリルを押し包もうとする。 「でも俺、ミューの事好きです。ずっと一緒にいたいんです」 躊躇無く、青年はそう言った。あまりにも自然すぎて、ミューリルは最初何を言っているのか理解できない。 「この子の父のようになってもいいと?」 「なりません」 事実を投げかけ、問う族長に対して、ディルムッドの答えは淀みない。その自信はどこからくるのか、そして、 彼はこんなにも強い人だったのか。ミューリルは、ただただ混乱する。 「何故そう言いきれる。この子の血はは、本来ミスラに弱い血を混ぜない為の神聖な血統だ。  事によってはお前はミスラの旧き血を否定する大罪を犯す事になるぞ」 族長の声も淀みない。怒りや焦りではなく、それは単に確認しているにすぎないから。 「知ったから」 ちょっと考えてから、青年はそう答えた。やや慎重に、相手の反応を探るような言い方ではあったが。 「知ってたら、対処の立てようあると思うんですよね。俺、何も言えずに分かり合えるっていうの、信じてないし。  ちゃんと腹割って話し合って、どういうモノか知ることが出来たら、大抵のことは何とかします。出来ます」 そして、ディルムッドは言い切った。 「で、発作って言うのが、俺の考えている通りのプロセスで発生するんだとしたら、必ず事故は防げます。  そうでなければ、セ…失礼、祭に参加できるはずがないんだから。そうでしょう?」 これは確認だった。彼はミスラの長に対して一歩も引けを取っていない。たとえ不敬を断罪されようとも、 その決意は決して揺るが無い。族長は、しばらく無言だった。遠くから、混乱の騒音が他人事のように響く。 「ミューリル…お前はどうしたいのだ?」 淡々としたその言葉が、娘の鼓膜に突き刺さる。返事をしようと口を開く。だが。 「うわっと!」 情けない悲鳴を上げて、ディルムッドが体勢を崩した。紙一重で、頭のあった場所を矢が通り過ぎている。 疾風の勢いで駆け込んだ影が、ヒュームの体を突き飛ばし、彼とミューリルの間に割って入った。ユスランだ。 「族長、わたしはこいつを殺します!よろしいですね!?」 ぎりぎりと弓を引き絞る。咄嗟にディルムッドは守りの呪文を唱えた。見えない力が術者を覆い、深手から 辛うじて彼を守る。しかし、ふくらはぎに、右の脇腹に、矢が突き立った。 「ディル!や、やめてぇっ!!」 ミューリルの叫びは届かない。眉間を狙った矢が、放たれる。 がきん、と音がして、ディルムッドは即死を免れた。ナイトだけが纏うことを許される白銀の鎧が、彼の視界 いっぱいに広がっている。ゼノンの盾が、彼を救った。 「どけ!貴様もその男が目障りなのだろうが!」 半狂乱になって叫ぶユスラン。対照的に、ゼノンは冷静だ。 「どこまで進んだ?」 ディルムッドに対して、彼は振り向かずにぼそりとそう問うた。 「あ、えーとね。族長さんに言いたいことはゆった。あとは、ミューの返事待ち〜」 矢を抜きながら、いつもの軽い調子で青年はそう答えた。癒しの魔法を唱えて、傷を塞ぐ。 「…まったく、ルーヴや嬢ちゃんまで巻き込みやがって」 「ごめーん、でも、ゆっちゃならない事までは話してないから。…勘弁」 両手を合わせて、拝む真似をするディルムッド。強張っていたゼノンの表情がようやく、緩んだ。 「負けるよ。お前には…」 ヒュームの騎士は、ユスランの後ろに居るミスラの族長へと視線を巡らせた。彼女は、微笑んでいる。 大したヤツだ、とゼノンは胸の内で呟いた。彼女はディルムッドを認めたらしい。あの笑みはそれを物語っている。 (あの族長様を、ものの見事に説き伏せるとは。それに比べて俺はどうだ…ミューを叱れないな) 未来を見ず、過去の愛に縛られ、凍り続けていた心が、ゆっくり溶け出そうとしているのを、ゼノンは感じた。 考えろ、と己に言い聞かせる。誰のためにユミーナは自分を生かした?誰のためにディルムッド命を賭けている? 俺に出来ることは、何だ? 絶望でいっぱいの胸が、少しずつ別のもので満たされ始めた。きっかけを与えてくれたのは、この小賢しい 赤魔道士の青年。あの時、ユミーナとの関係を暴かれて逆上したのは、それをミューリルに知られると 思ったからだった。まだ、自分は彼女を愛していたから、それを汚されてしまったように感じたのだ。 だが、違う。ディルムッドはミューリルの事を真剣に考えている。彼は、いままで体目当てで彼女に近づいた 男達とはかけ離れている。 ミューリルが、何か叫んでいた。自分の言葉一つで一喜一憂し、迷わせてしまっている愛おしい娘。 無言で、ゼノンは突進した。ユスランが慌ててつがえた矢を放つ。的確に喉笛を狙ってきたそれを、 彼は寸前ではじき飛ばした。距離を詰める、マヒ毒の塗られた短剣が、鎧の隙間から皮膚を狙う。 体を反らして、それをかわした。だが、変則的な角度で跳ね上げられた膝蹴りが、前屈みになっている ゼノンの顎を捉える。しかし、その力は弱かった。盾をほおり投げると、彼はくるりと体の位置を変えて、 ミスラの女の右横の空間に滑り込む。 剣の平の部分で腰を強打され、ユスランはもんどり打って地面に倒れ伏した。勝負あり。 切っ先をユスランに突きつけながら、ゼノンはミューリルの方を見た。 「…お前、どうしたい?」 瞳が熱くなった。押さえていた想いが、ゼノンの胸中をふつふつと満たす。鮮やかな花嫁衣装の娘は、呆然と ヒュームの男を見上げている。 混乱から脱出した二人組が、やがてディルムッドの元へと駆けつけた。ルーヴェルとアリアだ。 「ミュー、おいで!」 二人に支えられながら、ディルムッドが叫んだ。切なげに、瞳が揺れている。冗談だと思っていた、彼の行動。 そのひとつひとつを、ミューリルは思い出す。自分の足らない所、ゼノンの足らない所、アリアやルーヴェルの 足らない所…それらを補ってくれる彼の姿を、改めて思い出す。 彼女は立ち上がった。ふらふらと、声の主に向かって歩き出す。もう訳が分からない。でも、彼の言葉は、温かい。 「だめ、いっちゃ駄目!お願い、行かないでっ!」 ゼノンに剣を突きつけられながら、ユスランが絶叫した。薄い金色の瞳からは涙がぼろぼろ溢れている。 その叫びを、ミューリルは他人事のように聞き流していた。おずおずと、手を伸ばす。その手を、青年が掴む。 強い魔力の波動が、2人のヒュームと一人のエルヴァーン、そしてミスラの娘を包み始めた。 白魔道士の娘が、魔法の力を行使している。 「お願い、戻ってっ!もう嫌なの、あなたまで姉さんのように失いたくないのよ!」 波動が途切れた。呪文が完成し、彼ら4人をここではない別の場所に運び去ってしまったのだ。 泣き叫ぶユスラン、それを呆然と振り返るゼノン。やがて、ミスラの族長は静かに口を開いた。 「ユスラン・ロゥエ、もうお止めなさい。運命に立ち向かおうとする者に、手出しはなりません」 「ロゥエ…!?」 その言葉に驚愕する男。それは、彼の愛した女と同じ氏族名だった。ミスラは同じ母親から生まれた者は その母の氏族名を名字として使う。それはつまり、ユスランとユミーナが血族であることを意味する。 「あなたは、ユミーナに夜光酒を飲ませなかった。儀式の際に使う、あの酒を。結果彼女は、男を殺してしまった。  あれ以来、あなたは掟に対して厳格になりましたね。己の過ちを償うかのように」 ひくっと、叱られた子供のようにユスランの喉が上下した。ゼノンが、彼女を凝視する。 「北の地の不穏な空気…闇の王の噂…ジュノ大公に纏わる疑惑…世界は刻々と変化しています。  我々ミスラも変わっていかなくてはならない。しかしそれは、そう望み、願う者自身の意思で成さねばなりません。  あなたはそれに介入したことで、因果律を乱しました。その罪は、償わなければなりません」 族長は、ユスランを見下ろした。閉ざされた瞼の裏の、光を失った瞳で。 「ユスラン・ロゥエ、あなたを追放します」 言葉の内容とは裏腹に、その声は温かく、慈愛に満ちていた。