「オリル、フェイ。部屋に戻れ。」 凛とした声。思いがけない言葉にフェイが振り返る。 「リリ?」 リリはただ静かに微笑んで。 「わたしの問題だ。だから、ふたりとも、部屋に戻って。」 ゆっくりとそうくり返す。 フェイの瞳が絶望の色に染まる、その様をリリは見ていた。 リリのどこかが麻痺して、哀しいくらい冷静だった。 「わたしの?問題だと?」絞り出すようにフェイが呻いた。 前を向いたままオリルは本当に久しぶりに、思い出せないほど久しぶりに泣きそうになっていた。 リリは行く気だ。自分を責めて、一人で罰を甘んじて受けるつもりだ。それが、わかるから。 責任感ばかりが強い。痛みを受け流すことも出来ない。 バカ正直に受け止めて、狂う以外に、忘れる以外に、ごまかす術を知らない。そんなリリ。 キュリリに連れられてやってきた、無力でどうしようもなかったあの時から変わらない。 お前のせいじゃない、言うのは簡単だけど、リリには伝わらないのだろうと思う。 キュリリが傍らにいなくてよかったと思った。 いたらきっと、涙を見せてしまう。 「聞いていいか。」 覚えていないほど昔から、感情を殺すことは得意だった。 そんな自分に今ほど感謝したことはない。 オリルはリリの気配に気おされているかにも見える、立ち尽くしたままのミスラに声をかけた。 「リリを、殺すのか。」 「子を孕んでいるのだろう?アルベルも死んではいない。殺しはしない。」 おそらくその処罰内容は他言無用のはずだけれど。 ミスラは正直に答える。 「いつか、返してくれるのか。」 強者のプライドも見栄も恥も何もない。そんなオリルの真っ向からの問いかけの前に為すすべなどない。 「それは、わからない。」 知る限りを完結に答えて。オリルの小さな肩がほんの少し落ちる。 「罪に問われるのは、わたしだけだな?」リリが問う。 「邪魔をしない限り、ミスラはミスラ以外を裁きはしない。」 その答えにリリが安堵したようにふっと微笑んだ。 リリ、この男にとって、俺達にとって、今おまえを失う、それ以上の罰があると思うのか? オリルはたちつくすまま、リリを凝視している隣の青年を見てそう思う。 「間違ってる!」悲痛な声。 「あんたたち、間違ってる。なんで?なんでー?」 空に飲み込まれるフェイの問いに答えはどこからもかえってこない。 「ヒュームにはわかるまい。」そう言ったミスラの声はどこか哀しげだった。 「ほんの少し時間をくれ。夜があけたら、あんたと一緒に行く。」 心が麻痺したような声のリリの申し出にミスラはかすかにうなづいて。 「ああ、かまわない。」 そういって背を向けて去ってゆく。 ミスラの背をぼんやりと見送って、リリが踵を返す。 「リリ・・・」その背中に声をかけても、立ち止まることはない。 オリルがフェイの膝の裏を励ますようにぽむぽむとたたいた。 他に何も、できないと痛いほどに分かる。 ----------------------------------------------------------------------------------- 異常な気配を感じたのだろう。 キュリリもオルネバンもフェリシアも、起きていた。 居間にぼんやりとたたずむ彼等を見てリリはうっすらと微笑んだ。 立ち止まることなく、そのまま部屋に戻っていく。 誰も何も声をかけられなかった。 正装をする。目立つことを嫌い、戦闘時にしか着ないナイトのAFを着て、 髪を結いなおして、顔を洗った。 腰になじんだ剣をさす。常に傍らにあった、戦い続けた日々を支えた傷だらけの愛しい盾をもつ。 「まてよ。」部屋の戸口にフェイがいた。 開け放たれた向こうに皆がいるのが見える。 どの瞳も言葉にならない、不思議な色を醸し出して、リリを飲み込もうとする。 押し殺した感情が溢れそうになるのを必死で押しとどめて。 「わたし、子を生むのだろう。」 「・・・それから、たぶん五体満足では戻れない。 ・・・・できうる限り、戦ってはみるけれど。」 ぎゅと盾を握りしめた。 共に戦い続けた大切な仲間にきちんと聞こえるように。 罪は、償われなければいけない。 掟をやぶった?否、それよりもなによりも、裏切りの、罪を。 たとえこの身を差し出したところで、償えるものではなくても。 そらすな。目をそらしちゃダメだ。 自分を叱咤しながらリリはつづける。 こんな形で別れなければいけないなんて、思ってもいなかった。 「すまない。ほんとうに・・ごめんな。」 そういったら涙が溢れそうになって慌てて頭を下げた。 唇を血が出るほどに噛みしめた。 その姿にフェイがそっと手をのばす。 あと、ほんの少し。震える指先がリリに触れそうになった瞬間、リリがすっと身を引く。 届かない。届かない思いにフェイが歯噛みする。 「リリ、死ぬな。戻ってこい。待ってるから。」 泣きそうな気持ちで言う。 そんなこと言いたくないけど。 行くなと泣きわめいて力づくで押しとどめて、共に逃げたいけれど。 リリがそれを許さないことは痛いほど分かる。 喉元に熱い固まりがひっかかって苦しい。 「フェイ。」 息のつまるような沈黙を挟んで。 「わたしのことは、忘れてくれてかまわない。」 うつむいたままのリリが血を吐く思いでそう告げた、その言葉に反射的にオルネバンが動く。 ゆるさない。そんなことは、この俺様がゆるさねえ。俺が何のために、忘れたと思ってる? 「ふざけたこといってんなや?」 そう呟いてつかつかとリリに歩みよるその殺気立った身体をフェイが黙っておしとどめた。 いつだって、オルネバンのほうが冷静だった。 はじめてあった時からずっと、フェイの直情っぷりにオルネバンは呆れていたのに。 この瞬間のフェイほどおちつきはらった彼を、皆見たことがない。 先ほどまでの彼と、まったく別人のようで。 その物腰はむしろ柔らかく。その声はむしろあたたかい。 「リリ。俺が、俺達がおまえを忘れられるわけがないだろう? 子供、生んだら戻ってこい。連れてきたっていい。 俺がそんなに心の狭い男だと思ってた?」 フェイにそうまで言わせた、その言葉の裏の覚悟は誰にも推し量れない。 胸が痛くて、キュリリはほんのすこしだけ、目を見開いた。 誰も、悪くない。 リリがフェイを愛したことも、フェイがリリを愛したことも、 オルネバンがリリを愛して、忘れたことも、 フェリシアがオルネバンを愛したことも。 そしてアルベルがリリを求めたことも、リリがアルベルに、抱かれたことも。 誰も、きっと悪くない。 なのにこんなに、世界は残酷で、わたしは無力だ。 キュリリの小さな胸がきりきりと痛む。 フェイは、ゆっくりと息を吸って続ける。 「罰がなんなのか、なんでおまえが罪を償わなきゃいけないのか、 俺にはミスラのことは分からないけど、 それがおまえの運命だって言うなら俺は受け入れる。 みんなを巻き込むのが嫌ならそれでもいい。 だけど俺は、なにがあっても、いつであろうと、 無力かもしれないけど、それでも、おまえを助ける。 そのことを、忘れないで。」 「それも無理だと言うのならどんな姿でもいいから必ず戻って。 どんな姿になってもずっと愛してる。 これからも抱きたいと思ってる。 一緒に戦いたいと思ってる。 一緒に生きていきたいと思ってる。 そのことを、忘れないで。」 それは、常に誰よりも饒舌だけども、決して核心に触れることのなかった、 触れることの出来なかったフェイが、初めて口にする誓いの言葉。 彼はゆっくりと告げる。一言一言刻み付けるように。 「おまえが死んだら、俺も死ぬ。 なによりもそのことを、忘れないで。」 その言葉に、酷くつらそうにリリを睨み付けていたオルネバンが こらえ切れなくなったように瞳をそらした。 ぱたっと床に涙が落ちた。 うつむいたままのリリがまばたきをするたびに、長いまつげをつたって しずくがぱたぱたと床に落ちた。 誰も何も言わなかった。 そのまま、長い長い時間がたったように思う。 ふっとリリが涙を拭って顔をあげて足を踏み出した。 オルネバンとフェイがすっと身を引いて道を開けた。 リリはまっすぐ前をみて背筋をのばして歩いてゆく。 言葉で伝えられるようなものなど、もう何もない。 だから振り返らずに、リリは出てゆく。 朝靄の向こうに、ミスラが待っている。