ぱたんと扉をしめて、フェリシアが居間に戻ってくる。 北サンドリア居住区、オルネバンの実家。 オルネバンの両親は疲れきって隠れ家を求めてやってきた6人を、わけも聞かずにうけいれた。 『とりあえずいったんうちに来るんだ。 俺がエルヴァーンにあるまじき闇に属する暗黒騎士の道を選んだ、その時から 彼等は俺と修羅の道を歩む覚悟を決めているからな。』 追っ手がくる。 行き場を思案するオリルにそういってオルネバンは苦しそうに笑った。 「リリは?」キュリリがフェリシアに問いかける。 「今の所起きる気配ないわね。」肩を竦めて答えて部屋を見回す。 このパーティが、こんなふうに疲弊していたことがあったかしら? 部屋の重苦しい雰囲気に、悲しい気持ちでフェリシアは考える。 汗をびっちりかいて、苦しげに眠る隣の部屋の娘を思う。 正気を失う寸前で自分のスリプルで意識を失ったリリを、愛しく思う。 それはちょうど姉が妹を思うような気持ちで。 そして・・・・同じくらい疎ましく思うのだ。 消えてしまえばいいとどこかで思うのに、どうしようもなく救ってやりたいと思う。 フェリシアもまた、苦しんでいる。 その誇り高いたたずまいに、やり場のない思いばかりを抱えて。 「説明、して。」 壁際にもたれてうつむいたままのフェイが言う。 怪訝そうにオリルがフェイを見遣る。 おおまかには説明したはずなのに。飲み込みの悪い男ではない。 リリの母が選ばれたミスラであったこと。おそらくは、リリもまた。 男児を生むことのできる条件が揃ったら 何より優先して男児を生ませることにミスラ族全員が協力する掟。 そしておそらく、今回、リリがその条件が満たしていたであろうこと。 ミスラ族の秘密。他種族とは子を為せないこと。 あえて淡々と告げた、それらの説明をフェイは黙って聞いていた。 「あいつを殺しちゃだめだっていった、その理由を説明して。」 感情を押し殺そうとして失敗した上擦った声で、頑にフェイはくり返す。 脳裏に蘇る光景。リリの上に倒れこんだ男の姿。 濃い血の匂いと、・・・あれは情交の気配。 唇を不自然なほど真っ赤に染めて、大きく目を見開いたリリの姿。 リリが舌を噛んだのかと思ったのだ。 目の前が真っ赤になった。血が逆流した。 リリがやらなければ、確実に自分が彼を殺していたと、自信をもって言える。 善も悪もどうでもよかった。ただ、憎かった。あの部屋に存在した全てが。 そう、もしかしたら、リリさえも。 「あれは、悪じゃない。」 オリルの代わりに諭すようにゆっくりとキュリリが答える。 「そんなこと・・・・わかってる。」 絞り出すようにフェイが答える、その姿にかける言葉など見つからない。 「あれを殺したら、問答無用でリリは殺されるぞ。」 オリルが言う。 「ミスラ族は同族殺しを厳しく禁じてる。まして貴重な男性種だ。 罪狩りのミスラが来る。・・・いや、どちらにしても来るだろうな。」 そうつぶやいてオリルは嘆息する。 「罪狩りのミスラ?」オルネバンが問いただす。 「リリを連れていったやつもそうだろうな。 彼等は彼等なりの掟をもっていて、掟をもっている以上 その掟を遵守ための機関ももっている。それが罪狩りのミスラだ。 掟によって決定されることを遂行し、やぶったものを、処罰する。」 「殺す・・・の?」リリを連れ去られた時、誰もが無力だった。 そのことを思い出して震える声でフェリシアが聞く。 オリルはちらりと彼女を見て。 「殺す時もある。基本的には目には目をだな。殺せば、殺される。」ただそう答える。 「まあ。」サンドリアティーを一口含んでオリルは続ける。 丸い瞳は気づかうようにフェイを見て。 「リリが妊娠していたら、殺されはしないだろうな。 少なくとも出産するまでは。」 オリルの言葉にフェイがぎゅと瞳を閉じる。 後悔と嫉妬と怒りと懺悔と。 口を開けたら叫びだしそうなどろどろとした感情が渦巻いているのが分かる。 「とにかく・・・しばらくはむこうの出方をうかがうしかない・・か。 オルネバン、信頼できる医者を知らないか。」 「ああ、明日にでもきてもらうよ。」 オリルとオルネバンの会話も遠くなってゆく。 なにもできなかった。 無邪気に求めるだけで、満たしてやれるつもりだった。 記憶がない、子供が出来ない、それを言えなかったリリの苦しみも知らないで。 守るつもりでそばにいてやってもおめおめとさらわれる。 助けるつもりで飛び出して、あげくには結界の中で迷ってオルネバンに助けてもらう始末だ。 なにも・・・・なにもできなかった。 誰よりも自分に腹が立つ。握りしめすぎた拳の中で刺さった爪が血を滲ませる。 そんなフェイを、キュリリは心配そうに見守っていた。 リリは、強い。あの子は強い。だって戦ったではないか。 痛み分けのように双方がひどく傷付く結果になっても、リリは戦った。 キュリリはそのことが誇らしかった。たとえそのせいでこの先、事態がより酷くなろうとも。 戦い続けたリリを間違っていたなんていうことは、このわたしが許さない。 だけどいまむかいで膝を抱える青年は。 その純真さゆえに、耐えられるだろうか。この先のリリの運命に。 キュリリはただ、そのことが心配だった。 ----------------------------------------------------------------------------------- 暗闇だった。あまりにも暗くて自分が目覚めているのかどうかも分からなかった。 ここは、どこだろう。どのくらい眠ったのか。 かすかに痛む手首と足首。奇妙な違和感を覚える下腹部が 一部始終が夢ではなかったことを知らしめる。 息を殺して、暗闇を睨んだままじっとして、耳をすませる。 すーすーとくるしげな寝息が聞こえた。 そっと片手をうごかして傍らでつっぷしている気配を確認する。 馴染んだ、柔らかい髪に手が触れたのであわてて手を引っ込めた。 顔を、みられたくなかった。 細心の注意を払ってそっと身体を起こす。それなのに。 「・・・ん・・リリ?」 フェイは起きてしまう。暗闇でそのまま固まって。 ふと髪に触れる懐かしい感触に泣きそうになるけれど。 ふりはらうように飛び起きて壁際に逃げた。 「さわるな。」震える声で威嚇するようにそう告げた。 わたしは裏切り者だから。おまえも、見たように。裏切り者だから。 太陽を裏切った月に、暖かく触れてもらえる資格なぞない。 暗闇に感謝する。泣きそうなほど歪んだ醜い裏切り者の顔を見られなくてすむから。 「リリ?」フェイの声も震えている。 背中ごしに触れたノブの感触に安堵してそのままドアを開けて 部屋を飛び出した。 めちゃくちゃに部屋をいくつもかけぬけて、中庭に出た。 月のない暗い夜だった。北から冷たい風がふいている。 ずるずると柱の影に座り込んで、そっと下腹部に触った。 おそらく、ここに子供がいる。そのことが、わかる。 その事実がリリを奈落の底へ突き落とす。 このまえフェイに愛してもらった夜はほんの3日か4日か前のことなのに。 たったそれだけの期間で激変する世界に唖然とする。 もう二度と戻れない幸福な夜。 わたしは、あの男に抱かれた。 あの腕の中で、それも、あんなに感じてしまった。 それこそが裏切りなのだと思う。それこそが罪なのだと思う。 自分が噛み砕いた、腹の子の父親の肉片の味を急に思い出して リリは猛烈な吐き気を感じる。 うずくまってげえげえと戻すけれど、 胃の中には何もなくて胃液だけを戻した。苦しくて涙が滲んだ。 「子を為したか?」 また、気配だけが先に忍び寄る。 あの日のミスラが来たと分かる。 頭の芯がすぅーっと冷えて、なぜだかリリはおそろしく冷静だった。 ゆっくりと声に向きかえろうとした。それよりも早く。 「もう連れていかせない。」中庭にフェイの声が響く。 風のように俊敏にフェイがミスラの後ろを取った。 鋭く宙を舞ったナイフの切っ先が届く寸前、ミスラはかろうじて身を翻す。 羽が生えているかのようにすいっと引いて壁を背にする。 そのまま、フェイにむかって矢をつがえた。 「夜中にとんだ珍客か。」柱の影から小さな男がちょこちょことでてくる。 そのかわいらしい姿に似つかわしくない強者のオーラにミスラがちょっと眉をあげた。 「フェイ。ナイフをしまえ。」オリルがミスラを睨んだまま言った。 「なんでっ!」 「いいから。」いいつのるフェイを指先で制して。 「ありがたいな。わたしも別に手荒な方法を望んでいるわけじゃない。」 くすりと笑って弓をおろしてミスラが言う。 「何の、用だ。」 オリルがじりじりとリリのほうへ近寄り、かばうように前に立った。 すぐにフェイが舞い戻ってその横に立つ。 「お前達が逃がしたのだろう? 知っているはずだ。リリはアルベルを殺そうとした。」 「だけど死んじゃいないだろう。」 「ああ。だからといって罪がなくなるわけじゃない。」 「ならば、どうする。」 「罪は償ってもらわねばならぬ。」 「ほぅ?」 罪。わたしの、罪。 リリははいつくばったまま、フェイの背中を見ていた。 自分をかばうように立ったその背中は近くて、遠い。 幾度もその背中に爪をたてた、あの夜はもう戻らない。 わたしが選ばれたミスラだったから。 わたしがミスラだから。 フェイを愛したから。 淫売・・・だから。 こんなにも大切な人たちを苦しめる。 愛しい背中とずっと守ってくれた小さな背中を見つめて。 ここにいないもうひとつの小さな背中と。 女らしい華奢な細い美しい背中と。 それから、大きな浅黒い背中を思い出す。 せめて、誰も、傷つけさせは、しない。 そしてリリはすっと立ち上がった。