ディルムッドは、体の弱い少年だった。 肌が弱く、とくに痛みに対する耐性がとても低くて、発作が起きると身に纏う衣服の感覚ですら苦痛に感じるほど 虚弱な子供だった。 現在でこそ、薬と訓練によってかなり体質改善が出来ているものの、昔は外に出て遊ぶことすらままならぬ 身であった。同年代の子供達は面白がって彼に苦痛を与え、いじめ抜いていた。 そんな時だ。ある日、いつものようにジュノ港区の路地裏に引きずり込まれ、棒で小突かれていたとき、 小さな影がディルムッドといじめっ子達の間に割って入った。それは、頭部から突き出た特徴のある耳と、 ゆらゆらゆれる尻尾を持つミスラの少女だった。 多対一の戦いに、彼女は猛然と立ち向かい、そして勝った。もちろん無傷というわけにはいかなかったが。 腫れた頬と、切れた唇を晒しながらも、ミスラの少女はディルムッドの方を振り返って微笑んだ。 (い、痛くないの…?) 助けられた安堵感から、ぼろぼろ涙を流して問いかける年上の少年に、年下の少女はにっと笑った。 (いたいけど、へーき。だってあたし、いつかボウケンシャになるんだもの!) わずかな期間ではあったが、それ以来二人は昔年の友人のようにいつも一緒に遊んだ。 唐突に別れの日がやってくるまで、日が昇り、日が沈むまでいつもいつも二人でジュノの街角を駆けた。 (騎士サマもいいにゃ、ぜのおじさんみたいな戦士もすてがたいにゃ。ママみたいにシーフもいいんだけど…  でもでも、やっぱりこのコブシで殴るのがイチバンにゃ!) あどけない笑みを浮かべて語るその言葉が、数年後には現実の物になると、この時誰が想像しただろう? (ディーは?) あの時の彼女は、ディルと呼ぶと舌をかむから、と言って、とうとうそんな風に彼の名前を縮めてしまっていた。 (…ボクは、無理だよ) うつむくディルムッド。両親は虚弱な彼が外に出ることさえ、あまりいい顔はしなかった。むー、と黙り込んでいた 少女は、やがてディルムッドの顔を挟んで無理矢理自分の方に向けると、その頬をつまんで引っ張った。 (ディー、そんな軟弱なコトいってたら、おムコにしてあげないぞ!) 少年の体が硬直した。頬をつねられた痛みより、その言葉の与えた衝撃に目を白黒させる。 やがて指を離すと、ミスラの少女は真剣な目でディルムッドの緑色の瞳を覗き込んだ。 (…ミューといっしょに冒険するのは、イヤ?) ミスラ特有の、くりくりした蒼い瞳が少年を映す。所在なげに、尻尾が左右に揺れる。吐息を感じるほどに、 顔が近づいている。 (イヤ…じゃないよ。ボクも、ボクも出来ることならミューと色んな所に…行きたい) 閉ざされた世界しか知らない自分。誘う少女。幼い頃の甘く切ない思い出が、ディルムッドを変えた。 少女が照れたように笑った。喜びのあまり、ディルムッドの額に軽く口づける。 ヤクソクだよ、と彼女は呟く。少年の頬が桜色に染まったことにまでは、気づいて居ない。 黄昏色の約束が、少年と少女を繋いだ。やがて少女の母が死に、彼女がウィンダスに連れて行かれるまで、 いつもいつも彼らはまだ見ぬ世界について語り明かしていた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「…いてててて」 自分の口から漏れた呻きで、ディルムッドは目を覚ました。全身がぎしぎしときしんで、頭が重い。 軽度の脱水症状でもおこしたかのように、微熱に襲われている。意識を失う寸前、飛び込んできた声が脳裏に蘇る。 「ミュー!?」 がばっと跳ね起きる。額におかれた手拭いがはたりと膝の上に落ちた。 「ディル、起きたのか」 よく通る声が響いた。ルーヴェルだ。苦々しい表情でディルムッドを見つめている。 「ルーヴ…俺、一体…あいててて……」 全身を襲う苦痛に、青年は悶えた。世界の在りよう、己の心身の在りようを無理矢理変動させる、秘術の名残だ。 無理に歪ませた反動が、一拍遅れて術者を苛む。それは、痛覚に弱いディルムッドにとっては拷問に近い。 しばらくして、アリアがやってきた。冷たい井戸水に果汁と蜂蜜を加えた飲み物を、ディルムッドにすすめてくれる。 ジョッキに満たされたそれを一気に飲み干すと、彼は自分で自分の両頬をぱーんとはたいた。 「も、だいじょぶ。ルーヴ、今どうなってる?」 自分はもう、痛みにもがく小さな子供ではない。ディルムッドは己にそう言い聞かせる。骨がきしむような苦痛を、 意思でねじふせ、状況理解に努めようとする。 「ミューリルは…ゼノンが連れていった。…そして、今夜ミスラの居住区で祭が開かれることになっている。 触れが出回っていてな、どうも、年に1,2度、集団婚の儀式として半定期的に行っているらしい。 幸か不幸か、外貨を稼ぐ手段ともなっていて、祭の目玉として花嫁の行列を一般の人間に公開しているそうだ」 むっつりした顔で、エルヴァーンの青年はそう告げた。ディルムッドは絶望しない。むしろ、その脳裏では 目まぐるしく思考が回転している。 「OK、まだ手遅れじゃなさそだね」 ディルムッドは、ゼノンから聞かされた話を極限まで削って二人に話した。ミスラ族の秘儀に関することは 決して言わない。言えば最悪、彼らもウィンダスのミスラ達から追われる身になる。それだけは避けたかった。 ただ、今回のことは決してミューリルの意思ではないであろう事だけは、強調して伝える。 ルーヴェルもアリアも、それには同意した。どう見ても、ゼノンの行動は理解しがたい。 「でも、どうするの…パウさんに連絡が取れないし。ディルさんも、その体では…」 アリアが強い癒しの魔法をかけてくれたお陰で、体の内側の損傷もずいぶん治ってきた。だが、所詮は応急処置。 体にかかった衝撃と負荷を完全に癒すには、自分自身の治癒力に任せるしかない。 「だいじょぶ。それに、そんな事言ってられないよ」 心配する白魔道士の言葉を、ディルムッドはやんわりと遮った。彼女のお陰でどうにか動ける程には回復している。 「確かに…今回の件はタイミングが良すぎる。ミューリルの意思が関わっていないのなら、  無理をしてでも救うべきだろうな」 厳しい声でルーヴェルはそう告げる。彼とて事件の概要は掴んでいないが、仲間が望まぬ状況に囚われている以上、 それを救うことは当然の義務だ。顎に手を当て、エルヴァーンの青年は何事かを考え込んだ。 「うん…そうね。訳も分からずいきなり結婚なんて、どう考えても間違ってますっ!」 アリアが机をばん!と叩いた。妙に力が入っている。バストゥークという国で、ヒューム族の価値観の中だけで 暮らしてきた彼女だから、ミスラ族の儀式の意図までは分かってはいないのだろうが、それでも、無知ゆえの その態度が今のディルムッドには温かかった。やがて、額に手を当て、ヒュームの青年は目を伏せる。 「ちょっとだけ、静かにしててね。考え事するから…」 狩人の青年、白魔道士の娘、そして赤魔道士の自分。三人の性格・能力・経験を記憶から引っぱり出し、そこから 発生させられる力を導き出したディルムッドは、様々な想定を思い描いてぶち込んだ。聴覚と嗅覚に優れた ミスラの警備隊、そして最大の敵となるであろうヒュームの騎士。彼らを出し抜くにはどうしたらよいか、 すさまじい早さでプランを練っていく。使えない手は次々と潰し、わずかでも可能性のある方法を導く。 「当然だけど…正攻法じゃあダメだねぇ…とすると…よし!」 ディルムッドはぽむ、と手を打った。 「アリア、君、発火薬作れたよね?あとはあれ…こないだザルカバードでエレメント狩るときに、 ルーヴの使ってたあの矢は?すぐ出来る?」 「炎の矢のこと?あれは、バストゥークのギルドでイメージ補助を受けないとまだ安定しないのだけど…」 「まだ3ダースほど残っている。それでは足りないか?」 エルヴァーンの言葉に、ヒュームの青年はにっと笑った。 「上等。…そだ、アリア、あとひとつ探して欲しいモノがあるんだ」 人差し指でくいくいとアリアを手招きすると、ディルムッドはその耳元でなにやら囁いた。枕元の荷物を 引き寄せると、財布代わりの小袋から金貨銀貨を鷲掴みにして彼女に手渡す。 「じゃ、薬と、今言った物、お願いね。あとは、リンクパールいつもつけといて。また指示するから」 「え、ええ…でも、何に使うんですか?そんな物」 困惑する仲間に、青年はイタズラ小僧の笑顔で答えた。 「ナ・イ・ショ♪」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 闇夜に、鈴の音が響く。十重二十重に、波のように寄せては引き、ひいては寄せるその音色は、 ウィンダス森の区の最深部、連邦政府の役人ですらおいそれと足を踏み入れられない領域から響いている。 透明な歌声が、それに重なる。同族と命の重さと、大地と空とを称え、敬う、ミスラ族の旧い言葉で歌われる歌だ。 うねり合わさるいくつもの声。単調だが、その響きは力強く美しい。居合わせる参列者達から、感嘆の言葉が漏れる。 やがて、人々がざわめきはじめた。森の区の、ミスラの居住区から、手の院を中心にぐるりと巡るようにして、 花嫁達の行列がやってきたのだ。 先頭を歩くのは、真っ白い絹布の衣装に身を包んだ双子のミスラ。これは、何人もこの行列を汚してはならないと 言う意味が込められている。その後に、茶色、緑色、橙色をそれぞれ基調にした皮鎧で武装する者達が続く。 大地と、緑と、太陽を表す衣装は、嫁ぐ者達に自然の恵み在れと願う一族の心でもある。 鈴の音と、歌声が一層高まった。鮮やかな紅色の晴れ着を纏う一団が、闇夜を退けるようにして現れたのだ。 ほうっ、と人々が声を上げる。高度な骨細工の技術で成し得る、複雑な紋様の装飾具と、伝統的な染色の技法が 組み合わされた花嫁衣装は、褐色の肌を持つミスラの若い女達を、妖艶なまでに美しく引き立てている。 タルタルの子供達が歓声を上げた。駆け寄ろうとして、警備の大人達に引き留められる。 夜光草の明かりと、たいまつの明かりが、真紅の衣装の娘達を祝福するかのように輝いていた。 そんな光景を、ミューリルは他人事のようにぼんやりと眺めていた。 すぐ斜め後ろには、騎士服に身を包んだヒュームの男が介添人として付き従っている。これも婚儀の際の習慣で、 等しくアルタナ女神のご加護を賜るという意味で、花嫁には必ず一人以上、多種族の者が付き添うことになって いるのだ。彼と対象の位置に居るのはユスラン。ミューリルの護衛として、表情を崩すことなく歩み続ける。 (ああ…子供の頃…憧れていたっけ、この光景……) 美しいが、数キロはある重い頭部の装飾具に、ともすれば首ががくがくと揺れそうになる。こんなに重たい物だとは あの頃は想像もしなかった。ただただ、羨望の眼差しで嫁ぐ女達を見上げていた気がする。しかし。 いつからだろう、この儀式が自分とは無縁だと切り捨てるようになったのは。 布鎧や皮鎧のミスラ達に混じって、かしゃかしゃと場にそぐわぬ金属の触れあう音が後ろから響く。 そう、修行の苦しさから自分を支えるために、彼の存在を心のより所にするようになってからだ。 母一人子一人、後ろ盾も何もなく暮らしていた彼女に優しく接してくれていたヒュームの男。 父親のように接してくれた彼がいたから、ジュノでの生活はミューリルにとって楽園の記憶であった。 そして、修行を終えた自分を彼が迎えに来てくれた時、慕う心は恋に変わった。 普段は女癖が悪く、大の酒好きのゼノン。しかし戦闘となると、その表情は一変した。強く厳しく、 ギルド仲間やミューリルを守り、庇うその姿は、未熟なミューリルにとってはただただ憧れであった。 ("憧れ"………?) ふと、ミューリルの脳裏に子供の頃の記憶が蘇った。 ジュノの路地裏で、同年代の子供達がよってたかって、一人の少年をこづき回している、その光景。 『ミュー、冒険者になりたいのなら、弱いヤツを見捨てちゃあいけないぞ』 母を守り、いつも隣に居た男は、幼いミューリルの頭をなでながらそう言って、笑った。 だからあの時彼女は迷わずいじめっ子の群に突進した。ゼノンの言うことはいつも正しかったから、そうすれば 自分も彼や母のように立派な冒険者になれると信じて疑わなかったから。 ミスラ特有の俊敏さで、少年達の腕をかいくぐり、歯を立て、撃退したときは、本当に自分が誇らしかった。 いじめられていた、色白で線の細い、ヒュームの男の子からお礼を言われ、これでゼノンに近づけたと思った。 (何か…違うよ) 強くなる、強くなりたい。病弱なその少年と、いつも一緒に遊ぶたび、二人で互いにそう誓い合った。 彼に、夢を語った事がある。いつか立派な冒険者になって、色んな所に行きたいと。 少年も言っていた。自分と一緒に行きたいと。そして約束を交わしたのだ。幼い日の、たわいない誓いであったが。 あれから、彼女の目標はゼノンに近づくことになった。彼のように強くなりたい、彼に近づきたい、 母が死んでウィンダスで修行を積むようになってから、その想いは益々強くなった。だが彼は、 ミューリルの修行の日々が無意味と思わせるほど強く、立派な騎士となって彼女の前に現れた。 喜びと、嫉妬と、失望。それがないまぜになって、いつしか彼女の心は変化した。 ミューリルは思わずゼノンの方を振り返った。なぜ自分は、彼に付きまとった?彼が好きだったから? もちろん、好きだった。彼の居てくれた、少女時代は幸福だった。ミューリルにとって、ゼノンこそが「父親」 だった。もちろん、父を求めるな、と恫喝されたあの時の衝撃を忘れたわけではない。覚えていたからこそ 彼を頼らない自分であろうと思えるようになった。 でも、それでも矢張り、幼い頃の記憶が幸せすぎて。己の未熟さを思い知らされる度、彼女の中の子供が、 密かに暴れ出していた。思うようにならない現実から、目を背けるために。 そこまで思い至って、ミューリルは愕然とする。 (ぜのおじちゃんが、すき。おじちゃんといっしょなら、きっといつも、みゅーはシアワセ) 口の中で、呟く。幼い自分が繰り返し思い続けていた言葉を。そして気付くのだ、己の心の悲しみと歪みに。