「リリ=フェムル。」族長の声がする。 「手荒い扱いすまぬな。時間がなかった故。」そうつげる声に抑揚はない。 「なにが!」投げ付けるようにそう言って睨む。 相手が本来楯突くことは禁忌であるはずの族長様であることも関係なかった。 視線の先、優美な飾り冠をかぶった族長の顔には奇妙に表情がない。 ただ、唇だけが動いて声を紡ぐ。 「お前は子を生む。男の子だ。うれしかろう?」 なん・・・だと? 「アルベルに季節が来た。彼がおまえをご所望だ。」 なにをいっているのかわからない。 「説明が、必要か?」 むしろ冷たいとも言える視線でリリを見下ろしていた族長の顔に初めて 表情らしきものが浮かぶ。 族長はちいさく息を吐くとリリの傍らに座り込んだ。 そこから聞いた話は キュリリとフェリシアの恐ろしいほどの殺気がウインダスの族長から聞き出した話と。 オリルの無言の脅しが開かせたジュノの冒険者登録所の膨大な機密書類の中から拾い上げた情報と。 きれいに合致する。 「調べさせてもらったよ。おまえに記憶がないと言うのは本当らしいな。 ジュノの大公は虫が好かぬが、このタイミングで航路を開いたことには感謝するよ。 そうでなければまた、おめおめと季節を逃すところだった。 大陸からおまえが来なければな。 アルベルが嗅ぎ付けたよ。おまえの季節をね。そしておまえを欲しいといっている。」 そういってリリの赤い瞳を覗き込む、その表情はどこか哀しげだった。 「アルベル・・・誰?」 そんな知り合いに心当たりがない。 その問いには答えぬまま、族長は続ける。 「ミスラ族には男が少ない。知っているな?」 「今いる男は3人だけだ。みなこのカザムにいる。 男は長命なんだ。そのかわりめったに生まれない。」 「まず、男児を産める女がすくない。おまえはその中の一人だ。おまえの母もそうだった。 おまえの母は幸か不幸か季節がめぐらなかった。 そのまま、あの大戦で死んだ。 それから、男のほうがある季節を迎えないと男児を孕ませられないんだ。 その季節は長い一生に一回しかない。 もちろん、女も季節がこないと妊娠しない。それは知っているな? すなわち男の季節と、男児を生むことのできる女の季節が重なって、 交接しなければ、男は永遠に生まれないというわけだ。」 妊娠、しない。そう。リリは気付いている。知ってずっと知らぬふりをしていた。 ミスラ族は妊娠しない。 年に一度だけ、妊娠する日がある。 だけどミスラ族は同族との間でしか子をもうけられない。 そして、そのことを知る人間はすくない。 子の父親たるミスラのオスは、特定の子供の父親ではない。 すべての命の父となる。 それならば。異種族の恋人をもつミスラ達がとる道はいくつあるのだろう。 恋人を、一生騙しつづけるか。子を、もたないか。あるいは一人で、育てるか。 いずれであっても、真実が流布されるのは彼女達の日々をより厳しいものにするだろう。 だからこそ、それはミスラ族のみが伝える秘密のひとつなのだ。 気付いていたけれど。他人の口からそれを聞くことは意外なほどリリの心を乱す。 黙りこくったリリを見て、あやすように族長は続ける。 「おまえは、あの男とは、幸せになれまい?」 常に傍らにあった獏とした不安。オリルとキュリリ、オルネバンとフェリシア。 彼等には無縁の事実。目をそむけ続けた、真実。 それは全てのミスラの哀しみでもある。族長とて例外ではない。 リリにもそれはわかる。 フェイを愛している。今だからきっと、よけいにわかる。 漠然と思っていた。このままでいい。このまま子などもうけずに フェイと一生寄り添って生きていければ、それでいい。 そう思っていた。 「おまえは無理なのだよ。」 「おまえは選ばれたミスラなのだから。最初から。 季節が巡れば男を生まねばならない。我ら全員のために。」 リリの心を読んだように族長が静かに告げた。 リリの手足から取り戻しかけた全ての力が抜けていく。 心のどこかが麻痺したようで、頭がじんじんする。 まるで思い出せない過去を覗き込もうとした、その時のように。 気付くと涙を流していた。 フェイ。 わたしに初めて形を与えてくれた。 生きていく理由をくれた。 わたしが焦がれて焦がれて届かなかった太陽のようなひと。 初めて手に入れた、わたしの太陽。 フェイ。 わたしはおまえの、子を孕めない。 おまえがどれだけわたしの中に精を注ぎ込もうとも、実を結ぶことはない。 そのことも、告げられなかった。ずっと、ずっと。臆病で。 リリは知らない。 その男が張り裂けそうな心で、結界によって歪まされた隣のジャングルをさまよっていることを。 月が太陽を請うように、また太陽も月を請うていることを。 声もださず、まばたきもせず、涙を流し続ける娘の赤い髪をそっと撫でて、族長は続ける。 「わたしたちにはわたしたちの掟がある。 命を繋ぎ、永遠を紡ぎ、血を伝えるのだ。 この世界にミスラとして生を受けた瞬間から、 我々の最も根源的な使命が何であったか、 それがわからない、おまえではあるまい?」 そう告げて族長は扉を出てゆく。 日が傾いてゆく。凪いだ海の向こうから、月がのぼり、やがて夜が来る。 族長の足取りも、重い。