あてがわれた部屋の片隅で、ミューリルは膝を抱えて泣いていた。 いつもは感情にまかせて揺れる尻尾が、今はだらりと力無く床上を這っている。 連れて行かれた族長の元で、彼女は耳を疑う話を聞かされた。母の死、関わったゼノン、そして今また自分に 降りかかろうとしている血の業…どれもこれも若い彼女には衝撃的すぎて、その時はただただ混乱した。 そして、追い打ちをかけるような宣告が、ミューリルを打ちのめす。 「私は、あなたが【交の儀式】に参加することを望みます」 それはミスラに伝わる秘儀だった。物心付いてからウィンダスで育ったミューリルも、もちろんそれがどういう物か 知っていた。でも、自分には無関係だとずっと思っていた。ゼノンへの思慕が、恋心へとすり替わってからは。 儀式への参加は本人の意思で決まる。本来なら、族長自らがそれを勧めることはない。なぜなら族長の言葉は絶対 だからだ。それを口にされたということは、拒絶を許さないと言うことに等しい。 (あたしは…どうすればいい?) ミスラの娘はとめどなく溢れる涙を拭おうともせずに、ぼんやりとそんな事を考えた。 本来なら賓客を迎えるこの部屋をあてがわれてからすでに半日。その間、ゼノンが一度だけ彼女の様子を伺いに来た。 ミューリルはゼノンに問うた。自分はどうすれば良いのかと。ここから出して欲しいと。 しかし彼は無表情だった。その顔に感情を表さないまま、自分に決定権はないと、ただそれだけをミューリルに 言い放った。 当然、彼女は火がついたようにゼノンを罵った。裏切り者、卑怯者、母を返せ、そんな風に思いつく限りの罵声を ヒュームの男に投げつけた。だが、ゼノンは反論することなくその言葉をすべて受け止め、やがて激情冷めやらぬ ミューリルに向かって一言だけ思いを伝える。 (俺は…お前に、母親のようになって欲しくない。ただ…それだけだ) いつもミューリルを縛っていた台詞が、今ふたたび彼女の心に突き刺さった。そして、思い知らされた。 彼は、自分を女として見てくれてない。ただただ、母のように死なれて欲しくないだけで、側にいたのだ。 愛でも、恋でもなく、ただの義務感だけで見守り続けていたのだ。 ミューリルも女だから、それが分かった。慕い続けた男の心に、自分が入り込む余地など無い。 そして彼も、自分が族長の言葉に従うことを望んでいる。 たくさんの事実が、ミューリルの心をずたずたに傷つけた。ゼノンが去った後、彼女は食事に手をつける事もなく 泣き続けた。声もなくぽろぽろと涙がこぼれて、膝小僧をじっとりと濡らしていった。 「ミューさん…」 聞き慣れた声が、頭上から降ってきた。いつ入ってきたのか、それすらも分からない。 「大丈夫ですか。体の方はどうですか?」 柔らかな声が鼓膜に染み込む。温かな手がそっと髪をなぜる。そう、彼女はいつも優しい。 顔を上げると、そこにはギルド仲間の白魔道士が心配そうに自分を見つめていた。清潔な手拭いを取り出すと、 涙でべしょべしょに汚れた頬を拭ってくれる。 ミューリルの記憶の限り、彼女はいつもそうだった。仲間から罵られても、パーティーが危機に陥っても、 前線に立つ自分やゼノンを癒し、励まし、その技を振るう。自分は、彼女のようには、なれない。 「アリア…あたし、あたし……!」 ミューリルはアリアの胸に取りすがった。押し殺していた感情を解放したかのように、声を上げてわぁわぁと 泣き喚いた。弱くて弱くて、どうしようもない自分の性根を、今はただ誰かに受け入れて欲しかった。 その間、アリアはじっとミューリルの為すがままだった。困惑した表情のまま、小さな子供をあやすように 頭を撫で、背中をさすってやる。外まで響くような大声で泣き叫ぶミスラの娘を、ただ黙って抱いていた。 泣き声はやがて小さくなり、そして止まった。どれくらいの時が過ぎたのだろうか。 ミューリルはやっと顔を上げた。 「どうして、ここにいるの?」 ようやく落ちついたミューリルは、顔を拭いながらそう問いかけた。ここはミスラの居住区の中でも最深部に あたり、ウィンダスの役人ですらそうそう足を踏み入れられない所の筈だ。多種族の、しかも他国の者が おいそれと来られる筈がない。 「…ゼノンさんに、呼ばれました」 険しい表情で、アリアはそう答えた。ミューリルの尻尾がぴくりと跳ねるが、顔の表情は変わらない。 「ミューさん、その…」 ヒュームの娘は口ごもった。困惑した瞳でミューリルを見つめている。 「結婚…するって本当ですか。なぜ、こんな急に?ゼノンさんに聞いても何も答えてくれないし…それに」 冷えた頭に、現実が突き刺さる。ミューリルの心がすうっと固くなった。泣いても喚いても、今の状況は 変わってくれない。 「ディルさんは?昨日、依頼を終えて別れてからまったく姿を見ないんです。何かご存じですか?」 ミスラの娘の心に、衝撃が走った。 「なん…ですって?」 ゼノンの刃を受けて、重傷を負っていたディルムッドの姿が脳裏をよぎった。ユスランという名の女が彼を どこかに運び去ったのは覚えている。その後、なし崩しに族長の元へと連れていかれ、身を切られるような 事実を突きつけられた。その辛さが、彼女の思考から青年の事をすっかり忘れさせていた。 「ど、どうしようアリア、ディルは…」 ミューリルの膝がかたかたと震えだした。 「ひどいケガをしてた筈なの。ヘンな技で傷は塞いだみたいだけど、あれは術者にすごい負担のかかるモノだって、 聞いてる…」 ふらふらとミューリルは立ち上がった。詳しいことまでは分からないが、ゼノンと対峙し、ユスランに連れて 行かれたということは、今回の事…自分の事と何か関係が在るはずだ。いつもへらへらと笑って、とぼけた事 ばかり口にするヒュームの青年が、真摯な顔でゼノンと切り結んでいた。あんな彼を、ミューリルは見たことがない。 「ダメ…助けなきゃ。あたしのせいで、ディルは…」 壁に手を付いて、扉に向かう。アリアが慌ててその体を支え、回復魔法を施すが、それは弱った心を癒すまでには 至らない。ミューリルの血色の悪さは、治らなかった。 扉を開けると、見張りとおぼしきミスラが二人を止めた。武器を降りかざさんばかりの勢いだ。 ミューリルはアリアに目配せする。今は、このミスラに構っていられるほど体力も気力もない。 「…ごめんなさい」 アリアが、見張りに向かって手をかざした。黒魔法の呪文を呟き、掌から放たれた波動が相手を包み込む。 抵抗する間もなく、見張りのミスラはずるずると床にくずおれた。アリアの眠りの魔法が、良く効いている。 しかし、外に出たところで、二人の娘は顔色を変えた。 穏やかなウィンダスの風景にそぐわぬ、騎士鎧の男がそこに立っていた。 「やはり…こうなると思った」 その肩には、人一人が担がれている。ディルムッドだ。ゼノンは青年を下ろすと、ミューリル達に厳しい視線を ぶつけてきた。 「ぜ、ゼノン…ディルは無事なの?」 強張った声で、ミューリルはそう問いかけた。意識のない青年の顔は、青白い。 「心配するな、寝ているだけだ。それより…何処へ行くつもりだ?」 ボスディン氷河の永久凍土よりも冷たい声が、ミスラの娘を縛る。そこに、優しさや恋情などかけらもない。 「どこ…って。あ、あたしは…」 「族長の命に従わないのか。背けばどうなるか、わからない訳ではないだろう」 彼女の反論は、堅固な言葉で遮られる。そうだ、族長に従わない者は、ウィンダスのミスラ達全てから離反するに 等しい。その中で育ってきたミューリルだから、痛いくらいにそれは分かっている。 答えに窮す娘に業を煮やしたのか、ゼノンは腰から短剣を引き抜いて、ディルムッドの首筋に押し当てた。 「ゼノンさんっ!?」 悲鳴を上げたのはアリアだ。理解しがたい男の行動に、ミューリルも硬直する。 「部屋に戻れ。さもないと…」 刃先を立てて、喉元をえぐる仕草を見せる。的確な動きだ。少しでもその気になれば、青年は永遠に眠ることに なるだろう。 「止めてください!何を考えて居るんですか、あなたは!」 ミューリルの心を代弁するかのように、アリアが叫ぶ。 「今回の事だってそうです。結婚…だなんて。ミューさんの気持ちはどうなるんです!」 同一人物とは思えないゼノンの行動に困惑しているのは、アリアも同じなのだ。 「ディルさんの気持ちも、知ってる筈です!それを踏みつけて、どうしようと言うんですか!?」 (………え?) 思わぬ言葉に、ミスラの娘は固まった。この、いつもふざけた調子の赤魔道士が一体なんだというのか。 背後から、複数人の足音がどやどやと響いた。騒ぎを聞きつけて、周囲のミスラ達が集まってきたのだ。 その中にユスランの姿もあった。彼女は目線だけでゼノンの意図をくみ取ると、同族達に指示を与え、 アリアとミューリルを羽交い締めにする。 「ヤダっ、なんなの!痛い痛い痛い!」 「離して!何をするんですか!」 ミューリル達の言葉もおかまいなしに、ミスラたちは二人を引き離す。 ミスラの娘は居住区の奥へ、ヒュームの娘はウィンダス領の方へ、それぞれ引きずられる。 互いに伸ばされた手が、虚しく空を切った。 「わたし…わたし、ミスラの事はよく分からない!でも、でも!」 両腕を掴まれ、引きずられながらアリアは叫んでいた。 「どんな理由があるにせよ、本人の気持ちを無視してこういうことするのは、間違ってます!絶対に!」 「だまれ、ヒューム風情が!」 苛立ちを隠せぬひとりのミスラが、アリアの頬を張った。事情を知らぬが故の、純粋な疑問。しかし、それは 他のミスラの反感を買ってしまった。顔を上げたアリアの唇が、赤い。口の端を切ってしまったらしい。 「こんのぉ−−−−−−−!!」 気合い一閃、ミューリルの怒りが爆発した。三人がかりで彼女を押さえつけていたミスラ達が、怒濤のような 衝撃に吹っ飛ばされる。アリアを殴ったミスラも、背後の殺気に気づく間もなく、強烈な回し蹴りを食らって 倒れ伏した。 返す脚で、アリアの腕を捉えるミスラに上段蹴りを叩き込む。が、その勢いは割り込んだ影によって易々と 受け止められた。ゼノンだ。とっさの事に、ミューリルは躊躇する。その隙を、男は見逃さなかった。 「まだまだ甘いな、お前は…」 哀しげに、彼はそう呟いた。疑問に思う間もなく、ぎりりと足首を掴まれてミューリルは苦痛の声を上げた。 直後、その首筋に手刀がめりこむ。たまらず、彼女は意識を失った。その体を、ゼノンは壊れ物でも扱うかのように そっと抱き上げる。 「アリア。ディルを連れて、ここから去れ」 振り返りもせずに、ゼノンはそう言い放った。アリアを押さえていたミスラが、彼の意を受けたかのように アリアの体を解放する。乱暴に突き飛ばされて、彼女は地面に転がった。 「ゼノンさんっ!」 アリアはすぐに体勢を立て直すと、悲痛な叫びを上げた。すぐ傍らに、赤魔道士の青年の体が横たえられる。 「待って下さい!いいんですか、本当にこれでいいんですか!?」 森の区の方から、エルヴァーンの青年が駆けてきた。ルーヴェルだ。アリアの声を頼りに、ようやくここを 探し当てたのだろう。無断で侵入した彼を追って、後ろから数人のミスラが息を切らせながらやって来る。 俊足を誇る彼に、長時間引きずり回されたのだから無理もない。 「ディルさんの気持ち、知っているはずじゃなかったんですか!」 若い娘は、他人の恋心に敏感だ。アリアはディルムッドの心にすぐに気づいていた。そして、ミューリルも まんざらではないと思っていた。潔癖なミスラの娘は、気に入らない男は決して側に近づけない。 虫の居所が悪いときは、仲間であるルーヴェルですらはね除ける位なのだから。 そんな彼女が、ディルムッドに対してだけは普通だった。自然なくらいに、彼を拒絶していなかった。 癇癪を起こそうが、無茶を言おうが、いつもにこにこ笑ってミューリルの傍らにいたヒュームの青年。 パーティーで戦う時にもアリアの足らない部分を補ってくれる彼が居たから、ゼノンもミューリルも安心して 技を振るえていたはずなのに。なぜ、こんな事になったのだろう。 ルーヴェルが、ディルムッドの体を担ぎ上げた。厳しい視線を、ヒュームの男の背中に向ける。 「すまん」 ゼノンがぽつりとそう言った。だが、振り返らない。彼の目は、腕の中の娘にだけ注がれている。 「…俺は……俺も、どうしたらいいのかもう分からないんだ」 力無い言葉に、二人が耳を疑う。困惑するルーヴェルとアリアを、やがて警備のミスラたちがわらわらと 取り囲んだ。皆殺気立っている。ユスランが目線で彼女らを制しなければ、刃傷沙汰になっていたかもしれない。 押し戻されるようにして、3人とゼノンとの距離が開いていった。アリアの呼びかけに、男はもう答えない。 「ゼノン!…それがお前の望んだことなのか!?」 焦れたように、ルーヴェルが叫んだ。アリアが、思わず恋人の姿を降り仰ぐ。 人前であまり感情の起伏を見せない彼が、痛々しいまなざしでヒュームの男を見つめている。 ゼノンはミューリルを抱いたまま、ゆっくりと歩き出した。木々の鬱蒼と茂る、居住区奥の禁域へと。 ルーヴェルとアリア、そしてディルムッドを置き去りにしたまま、その歩みが止まる事はなかった。