「起きなさい」 聞き慣れぬ声が、ミューリルの耳朶を打った。 「誰っ!?」 とっさに彼女は飛び起きて、寝台の上で身構える。伊達に今まで冒険者をしていた訳ではない。 忍び寄る獣人の、そのわずかな殺気を感じ取って、返り討ちにした事だって何度もある。 全ては、生き延びるため。彼女が積んできた訓練のたまものだ。 薄暗がりの中に、目を凝らす。その人影からは、自分と同じ細く長い尻尾が見え隠れしていた。 ミスラの女だ。しかし、ゼノンの姿は無い。 「あなた、誰?」 薄着のまま、ミューリルは油断無く問いかけた。まだ、頭が少しはっきりしないが、それでも己を奮い立たせる。 「私はユスラン。族長の名代で来ました。…あなたが、ミューリルですね。なるほど、良く似ている」 ミスラの女は、すっと瞳を細めて同族の娘を見下ろした。その表情から感情を読みとる事は出来ない。 「族長さまの…?」 唐突な成り行きに、ミューリルはいぶかしむ。だが、このミスラは他人のハウスに無断で侵入しているのだ。 素直に信じる事が出来ない。 「動けるようなら、私と来なさい。あなたは、これから色々知らねばならない事があります」 「…冗談。どうしてあたしが、見ず知らずの人の言うこと聞かなきゃならない訳?」 拳をぐっと握りしめる。膝を軽く折り、腰を落として重心を安定させる。 どこから飛びかかられても反撃できるように身構えながら、ミューリルは不躾な訪問者を睨み付けた。 「信じる信じないはあなたの勝手です。しかし、酷な言い方ですが、あなたにはあまり時間がない。 全ては、族長のお考えの通りになってしまっている…」 憐れむように、女はそう言った。その全身からは、まったく殺気が感じられない。 腰に短剣、背中に矢筒を短弓を背負ってはいるものの、それを抜く素振りはまるで見受けられなかった。 不意に、ミューリルの耳が何かの物音を捉えた。ほんの微かではあるが、それは金属同士がぶつかり合う、 嫌な音だった。同時に、切れ切れに届く、罵声。よく知った、二つの声。 「始まりましたね」 不気味なほど静かに、女はそう言った。彼女の耳にも、その音は届いていたらしい。 「耳を塞いで、ここで安穏と眠るのも良いでしょう。しかし、その眠りの代償はとても高いものになりますよ」 女の態度に敵意が無いことを認識し、ミューリルは必死で思考を巡らせた。 今は、彼女の言葉に従うべきだと自分に言い聞かせる。しかし、内心では誰かの言いなりになる自分を、 たまらなく嫌悪する。 (こいつ…もし、ホントに族長さまの使いでなかったら、あとで絶対殴ってやる) そう決意すると、ミューリルは大急ぎで服を着替え始めた。 がきん、と鈍い音がして、剣と剣が打ち合わされた。 ディルムッドの振るう細身の片手剣と、ゼノンの持つ広刃の片手剣。 単純に力勝負になれば、前者が不利だ。刀身がぎしぎしと悲鳴を上げている。ぐいぐいと押し合う呼吸を見計らい、 青年は男の刃を押しのけた。下手に避けると、確実に剣が折れていたはずだ。 「だあっ、勘弁してよ。俺ちゃんと責任取るって言ってるだろっ!?」 情けない悲鳴を上げながらも、遠慮のない突きが騎士鎧の隙間を狙った。しかし、ゼノンはすいと体の角度を変え、 鎧の表面で刃を滑らせると、そのまま振りかぶってディルムッドの頸部を薙ぎ払おうとする。 どちらも、本気だ。 もちろん、ディルムッドはゼノンにきちんと答えた。「ミューリルは自分が幸せにする」と。 しかしそれは一蹴され、彼は青年に斬りかかった。原因は、少し違っていたかもしれないが。 「つか、逆ギレすんなよ、オッサン!」 ゼノンは無言だ。答える気すら失せているのか。 ディルムッドは己の軽率さを激しく後悔していた。一言、本当に余計な言葉をぽろりと漏らしてしまったのだ。 『…アンタ、なんでそんなに事情詳しいの。もしかして、ミューのお母さんと寝た?』 それは、ゼノンの逆鱗だったのだ。一番触れて欲しくない過去だったのだ。 男はは冷酷なまでに剣を振るう。かくして、ヒューム二人は壮絶な命のやりとりに突入してしまう事になった。 「ったく、いい歳こいて…アンタ純情すぎなんだよ!」 ゼノンの女遍歴を良く知っている青年は、そう叫ばずにいられなかった。いい女と見ればほいほい誘って ベッドに引っ張り込むくせに、誰とも深い関係を結ばない男。そんな彼の嗜好には、たった一つ特徴があった。 彼は、決してミスラを口説かない。 「…それ以外なら、タルタルだろうが人妻だろうがオールオッケーなくせに…さっ!」 絶妙な軌跡を描いて繰り出された切っ先が、小手の隙間を縫ってゼノンの肘を貫いた。これでもう左腕は使えまい。 飛び退いて、ディルムッドは赤く染まった脇腹に手を当てて癒しの魔法を呟いた。流れる血潮がどうにか止まる。 その間に、ゼノンは不自由になった左腕を後ろ手に回し、ベルトの間に手首を挟んで動かせなくした。 使えない腕をわざと固定して、邪魔にならないようにしているのだ。青年の額に冷や汗がたらりと流れた。 戦士の頑健さが、ゼノンを支えている。自分はあんな風には、出来ない。 「本気を出せ」 半身引いた状態で剣を突きつけ、低い声でゼノンはそう言った。吹き出す殺気は獣人を倒すときと変わらない。 いや、むしろそれ以上だ。守るべきモノを守る、その時の為だけに、彼は己を鍛え上げた。そこにためらいなど無い。 「出してるよ。アンタを殺さないように、ね」 ディルムッドの声から、からかうような響きが消えた。彼も再び身構える。じりじりと距離を詰め、刃先が触れあう ほどに近づいて行く。 「悪いけど、俺ミューに恨まれるのヤだから」 傷は、ディルムッドの方が圧倒的に多かったが、表面的な傷なら赤魔道士の技を持ってどうにか癒せる。 それよりも装甲の厚い騎士を無力化する方が、格段に難しい。しかし、肉を切らせて骨を断つ、 青年に許された戦法はそれしか無かった。ゼノンもそれを分かっているから、四肢の間接を狙わせまいとする。 だが、ディルムッドの技は的確だった。すでに、片膝を傷つけられており、今また左腕を無力化されている。 これは、ゼノンの予想の範疇を越えていた。中庸とは、赤魔道士を揶揄する言葉ではあるが、ディルムッドの 実力はその言葉を遙かに裏切っている。互いに殺す気で在れば、最期に立っているのはどちらか、分からない。 「そうか」 ゼノンの唇の端が歪んだ。笑ったのか、侮蔑したのか、そこまでは分からない。 鋭い踏み込みが、ディルムッドを襲う。剣先が、青年の腹部に繰り出される。内蔵を狙う気だ、 咄嗟にディルムッドはそう思った。己の剣で、軌道を反らそうとするが、しかしそれはフェイント。 刃先はすぐに引かれ、代わりに彼の鳩尾にめり込んだのは、すさまじい威力の体当たりだった。 息が詰まる。後転して体勢を立て直そうと、地面に手を付く。しかし、全体重をかけたその腕が、ゼノンの足払いに よって跳ね上げられた。まずい、と思う間も無く、ディルムッドの体が地面に投げ出される。 「なら、恨まれる前に死んでくれ」 顔を上げる。冷たい男の視線が、青年を刺す。月光を映した、幅広の刃が自分に向かって落ちてくる。 「そこまで!」 乾いた音がして、刃の軌跡が反らされた。脳天を叩き割るはずだった剣は、ディルムッドの肩口に深々と沈む。 「うあっ!」 吹き出す血に顔半分を染めながら、青年はもんどりうってもがいた。激痛で乱れる意識を無理矢理集中させて、 必死で癒しの呪文を唱え続ける。しかし、痛みが激しすぎてそれは成し得なかった。薄れ行く意識の中、 彼は片手で印を結んで、自分の中の気力を生命力へ、生命力を気力へと反転させる秘術を、行使する。 裂けた傷口が巻き戻しをみるかのように塞がった。しかし、その為に、どうにか保っていた気力が限界まで 削られた。ディルムッドの顔がみるみる蒼白になり、くるんと白目をむいて彼は意識を失う。 そして大地に倒れ伏した。 「ディルっ!?」 矢を放ったのはミスラの女。その傍らから人影が飛びだし、青年の元へと駆け寄ってひざまづいた。ミューリルだ。 ゼノンの顔が血の気を失う。彼はとっさに、邪魔をした女に視線を向けた。 「勝負はつきました。その男の命は私が、いえ、族長が預かります。剣を治めなさい」 弓をしまうと、ユスランはつかつかとディルムッドに近づき、その体を担ぎ上げた。見た目に似合わぬ膂力だ。 「俺は約定を果たしているまでだ。何故邪魔をする」 彼女は答えない。ただ、憐れむような視線をゼノンと、そしてミューリルに向ける。 「約定って…ゼノンっ、なんなのこれ、一体なんだって言うのよ!?」 状況を理解できず、ミューリルは半狂乱になって叫んだ。昨日まで、いがみあいながらも信頼していた仲間。 ゼノンとディルムッドは、ヒューム同士であった為かギルド仲間の内でもよく二人でつるんでいて、 歳こそ違えど端からは親友同士に映っていた。ミスラの友人がいないミューリルは、そんな二人を羨ましいとさえ 感じていた。それが、何故。 「あなたの、為ですよ。ミューリル」 ユスランは冷酷ともとれる声でそう言った。ミューリルも、ゼノンも、二人ともその言葉に硬直する。 「あなたの弱さが、今度の事態を引き起こしました。やはりあなたは外に出るべきではなかったようですね。 あなたは…」 「止めろ!それ以上言うな!!」 ヒュームの男が悲痛な叫びを上げた。そんな彼を、ユスランは振り向きもしない。 「もう遅い。族長はミューリルに全て話すおつもりです。これ以上彼女を不幸にしないためにも」 「話す…だと?まさか、まさか…」 ゼノンの顔がみるみる蒼白になる。支えてきた物がふっつりと切れたかのように、呆然とユスランを凝視する。 「察しがよろしいようで。ええ、今回の件は偶然ではありません。やはりミューリルには兆候が出た。 もう時間がありません。今回を逃すと、彼女は母親と同じ道を辿ることになる」 男は絶句した。剣を握る手がぶるぶる震えている。 「族長は、彼女が儀式に参加することを望んでおられます」 がちゃりと、剣が手から離れて地に落ちた。ミスラの娘は、事態を理解できず、ただ、ゼノンを見つめ続け居た。 信じ続けていた、想い続けきた今までの自分を裏切られたような苦痛に、いつしか彼女は涙を流していた。