「ごめんなさい、ごめんなさい」 夜明け前のジュノの街。ルーヴェルに手を引かれながら、アリアはぐすぐすと泣き続けていた。 道行く人の何人かが、好奇の眼差しを彼らに向ける。 「お前のせいじゃない…」 青年は振り向こうともしないで、それだけを言った。ただ、彼女と繋いだ手に力を込める。 彼の頬は、ひどい力で殴られた為にすこし腫れていて、浅黒い肌の上からでも変色しているのが見て取れる。 ゆったりとした足取りで歩く二人の前にやがて、穏やかな灯火に照らされた女神聖堂が現れた。 *+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+**+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+* 始まりは、一週間前の事。 二人は獣人討伐隊への参加を終えてようやく穏やかな朝を迎えていた。 それぞれの国の領事館から報酬を受け取り、しばらく骨休みをする為の準備にとりかかる。 休暇とはいえ、冒険者の日常は、次の冒険の為だけにあると言ってもいい。 食料の買い込みや武器防具の修繕、合成の修行や、仕事の依頼人捜しなどなど…やる事は山積みだ。 バストゥークの錬金術ギルドで新たな調合法を教わったアリアは、素材を求めて下層の競売へ、 鍛冶修行を始めたルーヴェルは、上層の馴染みの武器屋へ商談をしに、それぞれ向かっていた。 待ち合わせは吟遊詩人の酒場、リンクシェルのリーダーであるパウ・チャが美声を披露する場所だ。 鉄綱と引き替えに大量の矢弾を仕入れる事ができたルーヴェルは、アリアの待つ下層へと急いでいた。 人混みでごったがえす大通りの端に広げられたバザーを見ていたルーヴェルの目が、ふと止まった。 「ラピスラズリ…」 タルタルの彫金師が並べた品物の中に、ひときわ輝く指輪があった。 銀製のリングにはめ込まれた、瑠璃色の石。他にも同じ石を使ったものは山とあるが、 それは石の色つやといい、指輪部分に彫り込まれた紋様の美しさといい、群を抜いていた。 売り子の目が客の到来に、きらりと輝く。 「おにーさん、お目が高いっ!これ、なかなか出品できない自信作ですよっ!」 ルーヴェルは、アリアの左手にいまだ輝く、バストゥークリングの事をふと思い出した。 「これだけが、わたしの身分を証明してくれるから」 いつか彼女はそう言った。それこそが、彼女自身が国に縛られている事を証明しているに他ならないのに。 バストゥークの施療院で育った孤児は、定められた期間の間に一定以上の自国への貢献を認定されないと 即座に冒険者資格を剥奪される。そうなれば、彼女は施療院専属の癒し手として連れ戻され、一生を その中で過ごすか、あるいは国家規約違反者として三国に指名手配される身となってしまうのだ。 逃れる方法はただひとつ、冒険者としてランクを上げ、ジュノ大使館配属の冒険者として正式に認められる ことだけだった。それも、つい先日、クフィム島にそびえたつ塔を調査するというミッションを終え、 その最中にジュノ大使本人と面識をもてたことから、今までの功績を検討して貰えることになっている。 幸運なことに、大使はアリアの素性を知ると、積極的に働きかけてくれると約束してくれた。 近々、本国から調査員がくるとの通達もすでに届いている。まず大丈夫だろうと大使は言ってくれた… ルーヴェルの足が、別方向に向いた。ジュノ公設の両替屋(ヴァナにおける銀行)に出向いて、 貯金の一部を取り崩すと、ルーヴェルは先ほどのバザーの元へと小走りで向かう。 目に見えない大きな力が、今でもアリアを縛っている。その象徴が、彼女の左手の指輪だった。 自由を求めて、家と国とをあっさりと捨てたルーヴェルは、ずっとそれを外させたいと願っていた。 もっと二人で一緒にいるために、もっと二人でどこへでも行けるために 「おそいな…ルーヴ」 布袋の中の、怪しげな素材を確認しながらアリアは呟いた。 魔法だけでなく、様々な薬で人を癒せるようにと、練金術を学んでいた彼女である。こんな日にはハウスに こもって合成の修行に励むのだ。余った薬品は競売で売り、微少ながらも生活費の足しに出来る。 パウ・チャが歌声を披露している下層の酒場に、今日は彼の姿はない。夜警明けの警邏隊や、休暇を楽しむ 冒険者達が遅い朝食を取りながら、談笑しているだけである。 カウンターで絞ったばかりの冷たい果汁を飲みながら、アリアはルーヴェルを待ち続けていた。 やがてそれを飲み干すと、彼女は表通りに向かった。行き交う人の中に、望む顔は見つからない。 ヒュームの娘は、小さく溜息をついた。 「おい、あんた」 大きな声が響き、アリアは驚いて振り返る。 「ああ、やっぱりこないだの白魔さんか」 無遠慮な呼び方で彼女の後ろに立っていたのは、いつか討伐隊でパーティーを組んだヒュームの青年だった。 短く刈り上げた黒髪に、格子模様の皮鎧。軽装の戦士といった出で立ちの青年は、人なつこそうな笑顔を 浮かべている。 「ちょうど良かった、今、暇?」 「ごめんなさい。いま人を待っているので」 こういう誘われ方には、いい加減彼女も慣れていた。魔道士が少ないと言われるご時勢、「つて」や顔見知り を頼ってこられるのも仕方がない。だが、アリアはこの青年をあまり好きにはなれなかった。 彼は、アリアだけでなくパーティーを組んでいる仲間ですら職業で呼びつけていたのだ。 だから、彼女も青年の名前をすぐ忘れた。 「人待ち?来てないじゃん。暇なのに、そういう断り方ってないんじゃないの」 「は?」 予想外の返答に、今度こそアリアは固まった。 「たく、これだからお偉い白魔道士様は…人がせっかく誘ってやってるっていうのに」 「あの、あなた一体」 どういうつもりですか、と言いかけた彼女は、唐突に手首を捕まれた。 「時間あるなら付き合ってよ、知らない仲じゃないんだし。今、魔道士さん居なくてホント困ってるんだ」 そのまま、ぐいぐいと引っ張られる。 「止めて下さい、離して!わたし本当に人を待っているんです」 周りに、人だかりが出来始めた。 皆、事の成り行きを理解しかねているのか、助け船をだしてくれる者はいない。 すがるように、アリアは酒場の窓を振り返った。しかし、頼もしいタルタルの青年は今日に限って姿を 見せていない。そして、彼女が誰よりも信頼している人も、いない。 「しつこいな、嘘つくならも少しまともな…いでででで!」 「しつこいのはお前だ」 ぬっと現れた影が、その体躯に似合わぬ鋭い動きで青年の腕を掴み、ねじり上げた。 アリアの手がようやく解放される。彼女と青年の間に、割り込んだ者があった。ヒュームの倍はあるかと 思われる身の丈と、逞しい肉体。 鈍色(にびいろ)の鎧に身を包んだガルカだった。青年の視界から、完全にアリアの姿が隠されてしまう。 「彼女に何か用かね、私の知人なのだが」 穏やかな声はしかし、有無を言わせぬ迫力に満ちていた。口調と、眼光が、青年に反論を許さない。 流石に己の軽率さに気づいたのか、ヒュームの青年は不承不承その場を後にした。場が治まったのを受けて、 野次馬達も徐々に去り始める。 「無事か」 ガルカがゆっくりとアリアの方を振り向いた。優しい声だった。 「え…まさか」 「いい顔になったな、アリア。冒険者としての生活は楽しいか」 アリアの手から布袋がばさりと落ちた。驚きながらも微笑みを浮かべて、ガルカに駆け寄る。 「バン先生!」 しがみつくヒュームの娘を、バンデオムは片腕で抱き上げた。 「まだまだ軽いな、ちゃんと食べているのか」 「先生、いつジュノへ。こないだバスに戻ったときにはお会いできなくて…心配しました」 アリアを下ろすと、彼は微笑した。 「やれやれ、君に心配されるようでは私もヤキが回ったか」 「あら、どういう意味ですか」 バンデオムは朗らかにそう言った。アリアもつられてくすくすと笑う。 「あ、ルーヴ!」 ふっと、ガルカの視線が移動した。 娘がするりと彼の腕から抜け出して、一人のエルヴァーンの元へ駆けていく。 バンデオムの瞳がすっと細くなった。 自分に向けられていたのとはまるで別種の微笑みを、アリアが浮かべている。 ヒュームの娘に応えながら、エルヴァーンの視線がちらちらとバンデオムを刺した。 水色の瞳には、とても好意的とは呼べない意思をたたえている。 「君の仲間、かね」 バンデオムの問いに、アリアはこくりと頷いた。 「はい、私の…大事な人です」 そう言ってから、彼女は自分の言葉の意味に気づいて頬を染めた。端から見ても判るほど顔が真っ赤だ。 そんなアリアの肩を、ルーヴェルが抱き寄せる。だが、視線はガルカに突き刺さったままだった。 「…初めまして。貴方は?」 青年の物言いに針が含まれていることに、アリアは気づかなかった。ただ、ルーヴェルとバンデオムを 交互に見やる。 「失礼、私の名はバンデオム。一時期、彼女の訓練に立ち会っていた者だ」 優雅に一礼する。その動作には、サンドリア貴族に勝るとも劣らぬ気品が漂っていた。 「そして、今回は彼女の調査官として赴任した。よろしく頼む」 アリアの体が固くなり、こくんと喉が上下した。 「…まさか、バン先生が調査官だったなんて」 ルーヴェルの部屋で、アリアが浮かない顔をして沈み込んでいた。 「ずいぶん親しげだったな、顔見知りなら大丈夫じゃないのか」 「訓練では厳しかったけど、普段は優しい先生だったわ。でも…」 寝台に腰掛け、彼女は下を向いたまま顔を上げない。 「このまえ国に戻ったとき、同期の子が一人、連れ戻されていたの。 その子が言うには、ガルカの調査員に認めて貰えなくて、強制的に…」 胸の前で組み合わされた両手が、かたかたと震えていた。 「ご挨拶しようと思ったら、先生は居なくて。そのときはまさかと思ったの、まさか、って」 「アリア?」 ルーヴェルが娘の肩に手をおいた。体のふるえが伝わってくる。 「…どうしよう、ルーヴ、わたしどうしたらいい? その子、魔法の素質も、冒険者としての経験もわたしなんかよりずっとずっと上だったわ。 そんな子でも戻されてしまった、わたしも、このままじゃ、きっと…!」 不意に、アリアがルーヴェルにしがみついた。嗚咽の声が部屋に響く。 「嫌、ルーヴと離れるなんて絶対いや。でも、でも…このままじゃ、わたし…」 青年が、娘の体を強く抱いた。ルーヴェルは彼女の髪を、背中を何度も撫でてやる。 「落ち着け、俺達はまだ調査の内容がどういう物かも判っていない。無闇に怖れるな。 本当に何も出来なくなるぞ」 震える手が、エルヴァーンの青年の服をきゅっと掴む。 「心配するな。他人の好き勝手にはさせない」 ルーヴェルは、ゆっくりとアリアの体を寝台に押し倒した。彼の口づけに、彼女も応える。 「忘れろ、今だけは」 優しい言葉とは裏腹に、彼の行動は徐々に性急なものへと変わっていく。アリアは抵抗しなかった。 与えられる悦楽に身をゆだね、不慣れながらも進んで彼を求めようとする。その姿が、逆に痛々しい。 だから、ルーヴェルは何も言わなかった。ただ、容赦なく彼女の体奥に己を沈め、やがて本能のまま 何度も何度も欲情を吐き出し、赤い印と汗とでアリアを染めていく。 先に意識を手放したのはどちらだったのか、それすら判らぬまま。ルーヴェルとアリアは互いを貪りあった。