ご主人を見失ってしまった今、我輩はその黒髪の男の後をついて行くことにした。 男は森の中をフラフラと彷徨う。 時折、ぬぼーっとした顔の大男が立っているのが見えた。 灰色の皮膚の上が苔に覆われている、グゥーブーと呼ばれる生物だ。 彼らの生態は極めて深い謎に包まれており、少し前までは名前の発音でさえ「ゴッブー」、 「グービュー」、「どーも君」などと諸説入り乱れる有様だった。 だが鈍重そうな形をしているだけあって、どうやら森を歩く我々には気付かなかったらしい。 どれ程歩いた後だろうか、男は森の奥にそびえる立派な大樹の前で立ち止まった。 「神木……これのことだろうな。」 男は鞄からマサカリを取り出し、聖地の木の枝を切り落とした。 だがそのとき、我輩は木々の間から凄まじい殺気を感じた。 横を向くと、生えていた樹の一本が突然動き出している。 気のせい? いや、樹の精である。 そいつは、後ろを向いたままの男に向かって太い根を叩きつけた! 男は急なことに対応が出来ず、横殴りに吹き飛ばされる。 「くっ……敵がいたのか……。」 男は腰に挿した短剣を抜き放ち、左右の手に構える。 続いてきた樹の番人の攻撃をかわすと、二本の刃を同時に敵へと突き刺した。 が…… 「効いてない……のか……。」 短剣は樹皮の表面を浅く削り取っただけで終わった。 番人は相変わらず平気な顔をしている。 我輩は助けに入るべきか躊躇した。 戦いを見ていると、我輩が行った所で役に立つのか疑問だ。 義を見てせざるは勇無きなりとはいうが、自分が死んでしまっては万事休す。 そもそも我輩はこの男とは縁もゆかりも義理も無い。 名前が同じというだけの誼である。 そうこう考えていると、守護者は今度は葉っぱを撒き散らし始めた。 小さな葉の縁がナイフのようになり、男の全身を切り刻む。 男の体がたちまちの内に、赤い色に染まっていく。 もう助からないだろう……と、そのとき我輩は思った。 ガキィッ!! 番人の太い幹の真ん中に、小振りな斧が鋭く叩き込まれた。 守護者は驚いて、思わず後ろを振り向く。 そこに現れたのは皮鎧に身を固めた一人のミスラ……それはまさしく我輩のご主人だった。 「私が相手になってあげるわ。かかってらっしゃい!」 ご主人の参戦で形勢は変わった。斧が一振りされる度に着実に幹が抉られていく。 だが、樹の側も勢いは全く衰えない。 直撃こそ避けているものの、華奢なご主人の体に当たれば大怪我にも繋がりかねない。 我輩は慌ててご主人の側に駆け寄ろうとした。 その時、ご主人が男に目配せをした。そして、回すように斧を大きく振り回す。 タイミングを合わせ、男は短剣を素早く走らせる。つむじ風が巻き起こり、番人の枝を削ぎ落とした。 激しい風と葉の摩擦のためか、樹の怪物が巨大な爆炎に包まれる。 身を焼かれた番人は熱さのためか暫くのたうち回ったが、その内に炎の中へと崩れ落ちていった。 こうして、戦いは終わった……。 「キャル……どうしてオマエがここに……。」 「ユキトラ、その前に言うことがあるでしょう。」 ご主人は男を睨みつけた。男は一瞬口を噤んだ後、ボソリと答えた。 「助けてくれて……ありがとう。突然居なくなって悪かった。」 「はい、よく出来ました。」 それを聞くとご主人は自分の服の裾を破き、包帯代わりに男の右腕に巻きつけた。 「大丈夫だ、こんな怪我は放っておけば……。」 「化膿でもしたらどうするの。  大丈夫と言うなら、せめて傷の手当てぐらい自分でやったらどうなの?」 わかったよ、と言って男は包帯を奪い取った。 そして端の方を結ぼうとするのだが……逆腕で利き腕を縛るのは中々困難らしい。 男がもたもたしてると、サッとご主人が手を伸ばして結び目を作った。 「ほら、自分じゃ何も出来ないくせに、何偉そうにしているの。」 「うるさい、仕方ないだろ。怪我してるんだから……。」 「私が来なかったら、怪我どころじゃ済まなかったかもしれないけどね。」 ウッ……、と男が返答に窮す。それを見てご主人はニヤリと笑う。 「ね。やっぱりアナタには私が必要なのよ。」 二人は神木の根に腰を下ろした。疲れたのか暫くは沈黙が続く。 聖なる森の深奥で男と女が肩を並べる。薄暗い森にさす木漏れ日が、二人の姿を土に映し出す。 幾許かの時間が経った後、男はご主人の近くへとにじり寄った。 男はご主人の肩の周りに腕を回そうとする。だが、ご主人の手がそれを押し留めた。 「何をしようとしてるの?」 「ごめん……。」 「謝れなんて言ってない。アナタが何をしようと思ったのか、それを答えて。」 「……。抱き締めたい、って思った。」 ご主人の目が細められる。しかしそれは直ぐに表情を殺したような冷たい顔に変わった。 「アナタ、私と別れるって手紙に書いてたわよね。  ってことは、私が助ける義理も無いはずだから、アナタは今ここで死んでたってことになるわね。  逆に言えば……私が今からアナタを殺しても、結果は同じだと思わない?」 「何を……。」 「ふふっ、冗談よ。でも、もし私が居なかったら、アナタは何を抱き締めるつもりだったの?  樹の股とでも付き合うつもりかしら?」 そこまで聞いてから、男は深く溜息をついた。頭を何度か左右に振る。 「オレには誰とも付き合う資格なんて無いんだったな……。」 男は自嘲気味にそう言った。 「オレは、闇の世界で生まれた人間だ。向こうの奴らには、この世の法律も道徳も通用しない。  必要と有らば親兄弟でも殺しあうような連中だ。目的のためには手段を選ばない。  キャル、オマエのことは好きだった。いや、今でも好きだ。  でも……オマエをそんな世界に巻き込ませたくは無い。」 ご主人は暫く黙って聞いていた。それから考えを決めたのか、男の方を向いて口を開いた。 「要するに……アナタはサッサと死にたいという訳ね。  そうなる位なら……本当に今ここで殺してやるわ。」 ご主人は腰に差していた斧を構え直した。そしてその切先を男へと向ける。 「おい、何でそう……。」 「さっきの戦いだって、アナタ一人だと何も出来なかったでしょう。  あの程度のことも乗り越えられないくせに、自分だけで何をしようっての……?」 「……。それは……。」 ご主人は斧を男の頭上に振り上げた!  男は足が竦んだのか、覚悟を決めたのか、その場から全く動こうとはしない。 風圧と共に斧が勢いよく振り下ろされる! ……斧は男の脇を掠め、地面に深々と突き刺さった。 だが安堵したのも束の間、ご主人の体が男にぶつかり土の上に引き摺り倒す。 「いいかげんにしてよ! バカっ!」 ご主人は男の上に馬乗りになった。突然、堰が切れたかのように叫び始める。 「私はアナタが好きなの! 一緒に居て欲しいの! 他の事はどうだっていいの!  私だって……アナタが居ないと、何も出来ないんだから!」 ご主人は顔をうずめて、男の胸板を拳で叩く。その肩が小刻みに震えてるのが判った。 「いきなり居なくなって、悲しかったんだから。寂しかったんだから。探したんだから。  アナタ無しの暮らしなんて、考えられなかったんだから。」 途中から声が擦れてくる。ご主人の瞳から何かが零れ落ちるのが見えた。 「嫌いなら、そう言ってよ。そしたら、辛くても諦めるしかないから。  でも……好きだと言っておいて、どうしてウダウダ言い逃れようとするのよ……?」 「キャル……。」 西日はゆっくりと沈もうとしていた。 ご主人の泣きじゃくる声だけが、深い森の奥に響き渡る。 「オレが……間違ってた。」 男はようやく重い口を開いた。 「キャルは立派だよな……自分のやりたいことを真っ直ぐに信じることができて。  オレは今まで、やらなきゃいけない事の方が、やりたい事よりも優先されると思ってた。  だけどそのせいで……一番大切なものを、見失っていた。」 男の目つきが変わった。先程までは何処か虚ろな瞳をしてたが、今はそのような浮つきは無い。 「オレの一番大切なもの……それはキャル、オマエだ!」 それを聞いてご主人の顔が微笑みに変わる。そのまま男の上にしなだれかかった。 「約束してくれる? もう、いなくなったりはしないって。私を独りぼっちにはしないって。」 「ああ、約束する。」 そしてご主人は、はにかんだ声でこう言った。 「ユキトラ……抱いて、いいよ。」 いつしか太陽は地平線に沈み、辺りは闇に閉ざされていた。 男がご主人の服を一枚づつ剥いでいく。片腕は背中に回されたまま、固く抱き締められている。 ご主人の『っゃっゃ』の肌が露わになる。男の唇がその上に吸い付き、全身を嘗め回した。 「ユキトラ……お願い。私と、一緒に……。」 男も服を脱ぎ捨てた。それを見てご主人が両脚を大きく広げる。 そこに生えた毛は、遠目から見てもビショビショに濡れていることがわかった。 男の体がご主人の上に覆いかぶさる。 「あっ、んっ……。」 男の腰が蠢動を始める。それを受けてご主人の体が激しくのたうつ。 「っぅ……! ぁぁっ……!」 ご主人が苦しそうに悲鳴を上げる。 にもかかわらずその眼差しだけは、艶を帯びて男のほうに注がれていた。 「愛してる……ユキトラ……!」 聞き覚えのある台詞……そうだ、メリファトでご主人に咥えこまれた時の言葉だにゃ。 ただ、あのときのご主人は、どこか心ここに有らずといった感じだったにゃ。 今は意識の全てを、あのユキトラという名前の男に奪われている。 そういえば、交尾という生理行動があるということを今更ながら思い出した。 これで鈍感な我輩にも、ようやくあの不可解な行動の合点がいった。 あの時ご主人は発情期だった。あそこでご主人が呼んでいたのはこの男にゃ。 でも誰も来なかったから……我輩で代わりにしたんだにゃ。 我輩を拾ったのも、単に一人でいるのが寂しかっただけかもしれぬ。 そう言えばあの男の居所を掴んで以後、我輩の姿は殆ど眼中に無かったようだった。 同じ猫に見えても結局は別の存在……所詮我輩は気まぐれの代用品でしかなかったということにゃ。 二人は既に自分達の世界に入ってしまっている。その世界に割り込むことなど誰にも出来ない。 ご主人は求めていた者を探し当てた。我輩を必要とすることは無いであろう。 それに折角ご主人が想い人に出会えたのだ、それを邪魔するような野暮な真似はしたくない。 幸いこの森には同族がいた。我輩は連中と棲むことにすれば良いであろう。 流石にあの人間の街に戻る気はしない。 我輩は足早に立ち去った。 背後では雌ミスラの嬌声が響き渡る。 我輩は猫である。名前はもう無い。