翌朝、一行はウィンダスに向けて再び出発した。 ディルムッドは、腫れた頬をなでながらしんがりを歩いている。くっきりと残った赤痣が痛々しい。 途中、不慣れな冒険者達を何度か救い、そのお陰で多少時間はかかったものの、昼過ぎには石造りの大門を くぐることが出来た。からりとした空気と、土草の匂い。そして溢れる清らかな小川。 水と緑、そして星の恵みで栄える都ウィンダスは、物心付いてからのミューリルの故郷でもある。 無条件で懐かしいと思ってしまうのは、やはり過ごした年月のせいもあるだろう。 懐かしい匂いに、ふんふんと鼻を動かす。どこからか、かすかに甘い香りがただよった。 なぜか心がざわつくような、それでいてうっとりとするような、不思議な芳香。だがそれはすぐに消える。 門を抜け、しばらく歩き、今後の方針を決めようとし始めた頃、ミューリルの膝がふいにかくんと力を失った。 「れ?」 頭の芯がふわふわする。全身がゆっくりと脱力するのが分かった。 気が緩んだのかな?ぼんやりした頭で、彼女はそんな事を考えた。だが、気が付くと視界が斜めになっている。 ディルムッドの顔が、一杯に広がった。 (ああやだやだ、なんであんたなのよぉ……) 心配げに何か言っているが、聞こえない。だが、その表情は真剣だ。普段の軽い雰囲気など微塵もない。 ミューリルの思考が急速に鈍る。考える暇もなく、彼女はそのままぼんやりとした意識のまま、耳だけをそばだてた。 「ミューリルっ!?」 真っ先に異変に気づいたのはディルムッドだった。慌てて支えるが、彼女はへなへなとくずおれ、意識を失う。 「どうした!」 パウ・チャ達もそれに気づき、みなでミューリルを囲む。熱に浮かされているのか、ミスラの娘は浅く苦しげに 呼吸をしている。尻尾の先がひくひくと痙攣していた。名を呼ぶと僅かに反応はするものの、声までは出せずにいる。 「わ、わからない。いきなり倒れたんだ」 アリアが癒しの魔法を唱える。だが、それはまったく効果を及ぼさない。 「怪我のせいではないようです。病気とも少し違うような…。とにかく、休ませてあげないと」 ふわりと、煙草の香りがミューリルを包んだ。 アリアの台詞が終わる前に、割って入ったゼノンがディルムッドの腕からミューリルの体を取り上げたのだ。 (ゼノンが…あたしの事抱っこして……くれてる?……昔、みたいに) それだけで、彼女の心は温かくなる。張りつめた気持ちが緩みきって、涙が出そうになる。 「ハウスに運んでおく。嬢ちゃんは手当を手伝ってくれ。パウ、依頼の品は任せた。皆と先に行っててくれ」 だが、ヒュームの男の言葉にはいつものゆとりは無かった。端から見てもわかるほど顔色が真っ青だ。 「なんだよゼノン!ミューは俺が運ぶから、アンタこそ先に行けばいいだろうっ!」 しかし、ディルムッドだけは違った。明らかに逆上した声音で、ゼノンにつめよる。とっさの事に、全員が固まった。 「アンタ一体何様だよ、昨日にしたってさ。こんな時だけミューを自分の物みたいに扱うんじゃないよ!」 赤魔道士の青年が、モンクの娘に恋心を抱いているのは、ギルド仲間全員が知っていた。もちろんゼノンも。 だがそれと同様に、ミスラの娘がその瞳に映している相手が誰なのかも、皆知っていた。もちろんディルムッドも。 ナイトの男は激昂する青年を一瞥すると、ふいと視線を逸らして苦々しげに呟いた。 「すまん、だがこれは俺の…贖罪なんでね」 あっけに取られる仲間を前に、ゼノンは悠然と足を進めた。ディルムッドとすれ違う、その瞬間に唇が動く。 「心配するな…俺がこいつを愛する事はありえない。永遠に」 朦朧とした意識の中で、その言葉がミューリルの鼓膜に突き刺さる。それに、気づく者は居なかった。 しばらくして、ミューリルは目を覚ました。全身が熱い。喉がからからで、こほこほと力無く咳き込む。 「ミューリル?」 落ちついた声が、響いた。視線をそちらに向けると、ゼノンが心配そうに自分を覗き込んでいる。 「のど…かわいた……」 今朝までの強気が嘘のように引いて、弱々しくミューリルはそう呟いた。ヒュームの男は頷くと、木製のジョッキに 冷たい水を満たして、差し出してくれる。 (ゼノンが…優しい。さっきの言葉は、夢?) はっきりしない意識の中で聞いた、冷たい言葉。でも、ここまで運んでくれたのはゼノンの筈だ。 彼の真意がわからず、ミスラの娘は黙って差し出されたジョッキを受け取ろうとした。しかし。 「に゙ゃうぅっ!」 手渡そうとしたゼノンの指先が、自分に触れた瞬間、ミューリルの全身にびりびりと電流のような感覚が走った。 ジョッキがこぼれて、水が床にぶちまけられる。 「が、ふっ。あう…ぐ……」 とっさに、自分で自分の体を抱く。しかし、その行動すら、ミューリルの体に耐え難い感覚を与える。 「ミューリル!?」 ゼノンがミスラの娘の背をさする。その手を、ミューリルは乱暴にはね除けた。他人に触れられる感覚が、痛い。 「さわんないでっ!」 だが、次にはもう、漏れる声を止めることができなくなる。 「ぐ…あう…助けて、こわい、こわいよ…あたし、どうなって…」 心とは相反して、体が勝手に動いた。両の腕が、すぐ隣にいる温かな生き物を求めて抱きしめる。 「たすけて、たすけてよおおっ!」 はあはあと息が乱れている。とっさのことに、ゼノンは狼狽して動けない。ミスラの娘は、ヒュームの男の胸に 額をつけると、ぐりぐりと押し当てた。他人の熱が、心地よい……そう、気持ちよかった。 「ミュー、一体どうしたんだ。しっかりしろ!」 ミューリルの腕力に押されて、二人は床の上に転がった。下敷きになったゼノンは床に背中を打ち付け、息が詰まる。 ヒュームの男の上に跨りながら、ミューリルは一人で激しくもがいていた。 「あううっ………ああああああっ!ゼノン、ゼノン、助けてっ!」 正気の沙汰とは思えなかった。全身をわななかせ、両腕で自身を抱きながら、ミューリルは絶叫する。 「ミューリルっ!?」 娘が、野獣の獰猛さでゼノンの肩に噛み付いた。彼女の下腹部が触れている部分が、じっとりと湿り気を帯びる。 男の顔から血の気が引いた。ふわっと、『女』の体臭が彼の鼻腔をくすぐった。 「ま、まさか…」 事情を知らぬ異性なら、これ幸いとばかりにミューリルを押し倒していただろう。だが、ゼノンは違う。 彼女の行動は彼の性欲を刺激するどころか、その心を奈落の底に突き落とした。 ばさばさと、物の落ちる音がした。視線を上げるとそこには、食料を買ってやってきた、赤魔道士の青年が 蒼白になって突っ立ってる。 「ぜ、ゼノ…ン。アンタ、何やって……」 ぱくぱくと、ディルムッドは口を動かした。言葉が上手く出てこない。 「手伝え、ディル!」 恫喝されて、青年ははっと我に帰った。薄着のまま、髪を振り乱して大の男に跨っている娘。どうみても、 ミューリルの方がよほど異常だ。後ろから羽交い締めにして、どうにか押さえつける。 体勢を立て直したゼノンの拳が、ミューリルの鳩尾に沈んだ。彼女はくたりと脱力し、ようやく意識を失う。 「説明…してくれるよね。ゼノン…」 憔悴しきった顔で、ヒュームの男達は顔を見合わせた。 「俺さ、ミューが本当にアンタのことを男として見てるなら、すっぱり諦めるつもりだよ。 でも、なんか違うんだよね。アンタに至っちゃ、ミューのことこれっぽっちも異性として見てないし」 普段はおどけた二枚目半を装うディルムッドの瞳が、鋭くゼノンを射抜いていた。 「さっきの台詞で、確信した。アンタ、何隠してんの?ミュー本人にも言えない事なの、それ?」 男は内心舌を巻いた。ディルムッドは確か、アリアと同じ位の年だったはずだ。なのに、その観察力・洞察力は ルーヴェルにひけを取らない。ギルドリーダーであるパウ・チャの卓越した指揮能力で、普段は目立たない彼の 才能が、ゼノンの誤魔化しを許そうとしない。 「いらん事にはよく気づくな…お前は」 「まぁね。俺、目利きだけは確かだから。魔道の師匠にも、それだけは誉められたよ」 強張った表情のまま、それでも軽口を叩き返す青年に、ゼノンは苦笑した。 パーティーの補佐に徹する為に、多芸を求められる赤魔道士。それは、確かにディルムッドの天職なのだろう。 ヒュームの男はふと、そんな事を考えた。しかし、すぐに表情を引き締める。所在なげに、顎髭をなぜる。 「…話すのは、簡単だ。だが、お前がそれをどう受け取るかによるな」 視線を彷徨わせるゼノンを、ディルムッドはじっと見つめた。言葉の一句一句を、瞬時に脳に叩き込み、 分析でもしているかのように黙り込んでいる。獣人や、モンスターと戦っている時と同じ仕草だ。 状況判断の出来ない赤魔道士ほど、無意味なモノはない。それは、ディルムッドの持論でもある。 「場合によっては、俺はお前を殺すかもしれん」 男の視線に、本物の殺意が確かに閃いた。寝台で眠る、ミスラの娘。小さなその手を、彼は己の手で包み込む。 「ふーん、そこまで言わなきゃならないほど、大層な話って事なんだ」 だが、ディルムッドは怖じ気づくどころか不敵な笑みを浮かべて、ゼノンの視線を弾き返した。言葉の軽さとは 裏腹に、ゼノンとミューリルの間に見え隠れする絆の存在を感じ、それを断ち切ろうと身構える。 「いいよ、聞かせて。俺ホントにミューの事好きだし、いい加減アンタとも決着付けたかったから」 繋がれた手と手に、鋭い視線を投げかける青年。彼は無意識に、胸ポケットの上から手を当てた。 そこにしまわれた物に込めた、己の想いを確認するかのように。 「後悔するなよ」 そう広くない部屋に、緊張とわずかな殺気が満ちる。ベッドの上の娘は、そんな空気など知りもしないで眠っていた。 先ほどまでの狂乱が嘘のように、穏やかな表情で眠り続けていた。