その日、ミューリルはいらいらしていた。 原因は一人の女性。ギルド仲間であるエルヴァーンの青年ルーヴェルが連れてきた、ヒュームの娘・アリアだ。 以前、ギルド総出で彼女のクエストを手伝った事があり、そして依頼を終えて戻ってきたアリアは正式に ミューリル達のリンクシェルに所属した。 何度か一緒に討伐隊に参加し、獣人相手に戦ってきた。だが、ともに行動するにつれ、ミューリルの心には 少しずつ少しずつ澱のようなわだかまりが募り始めた。モンクである彼女の目に、アリアの姿はあまりにも わざとらしく映っていた。女であること、魔道士であること等々…まるで「自分はか弱いです」とでも言いたげな その振る舞いが鼻についてならなかった。 更に気に障ったのは、その仕事ぶりだ。敵から危険な攻撃を受けて体に異常を受ける事になっても、それを 申告する寸前にはもう癒されている。癒された直後に「目を治して」「毒もらった」と言う自分が馬鹿みたいで、 それが尚更ミューリルをいらつかせた。 ある日、敵を1体屠った後。珍しく、ミューリルの視界がまだ霞んでいた。 「ちょっと、あたしまだ目治してもらってないんだけど」 ミューリルは勝ち誇ったようにそう言って、後ろを振り返った。しかし、言ってからしまったと気づく。 アリアだけではない。赤魔道士のディルムッドも、吟遊詩人のパウ・チャも、気力を使い果たして座り込んでいる。 「あ…ごめんなさい。少し、休ませて下さい…」 「ごめんよミュー、ちょっと待ってね〜」 魔道士二人から同時に言われて、ミスラの娘は押し黙るしかなかった。ふと気づくと、ルーヴェルが冷たい視線で ミューリルを睨んでいる。その視線は、しばらくするとふいっと外されたが。 「嬢ちゃん、ディル、これでも飲め。ちょっとは元気になるだろ」 ナイトのゼノンが、背負い袋から取り出した飲み物を勧めていた。ディルには投げて寄越すくせに、アリアに対しては にっこり微笑みながら手渡している。 「ゼノン、あたしも欲しい!」 つい、ミューリルは声を荒げた。ヒュームの男が、ヒュームの娘に馴れ馴れしくしている姿に、我慢がならなかった。 ゼノンは首を傾げてミューリルを見ると、それでも同じように勧めてくれる。少し、機嫌が直った。 嬉しげに、尻尾がゆらゆらと揺れてしまう。 「思ったよりキツかったな…。目的の物も手に入れたし、今日はこれでお終いにしておこう」 パウ・チャが立ち上がり、魔力のこもった詩を歌い始めた。穏やかな旋律が魔道士二人を包み込む。 「了解、どこでキャンプしよっか」 ディルムッドが立ち上がり、ミューリルの体の異常を癒してくれた。ありがと、とそっけなく礼を言う。 その一言で、青年が幸せそうに微笑んだ事までは、知らない。 「そうだな…これを届けねばならんし、タロンギに行くぞ。すぐ移動すれば、夜半までにサルタバルタ地方に 入れるだろう」 そう言うと、パウ・チャはアリアの方を見た。ヒュームの娘ははい、と答えると、すぐさま呪文の詠唱に入る。 高位の白魔道士だけに許された、特殊な移動魔法「テレポ」。彼女のお陰で、あちこち行けるようになったのは 事実だ。現実問題として、高い移動費用を浮かせられるだけでも、皆にとってはかなりありがたい事であった。 高まる魔力がミューリル達を包む。彼女はあまりこの感覚が好きではなかった。全身の毛がぞわぞわと疼くような、 奇妙な高揚感に苛まれるからだ。 ふっと視界が白く閉ざされたかと思うと、土埃の匂いが鼻をついた。コルシュシュ地方特有の、塩気のある土の 匂いだ。それはミューリルに、懐かしさと感傷を思い起こさせる。 後ろも見ずに、彼女はたたっと駆け出した。待ってよ、ミュー…と声をかける赤魔道士の青年を無視して、 ずんずん進んでいってしまう。ここの風と匂いが、ミューリルはあまり好きではなかった。立ちのぼる埃が 髪や鎧の隙間に潜り込んで、ざらざらとこすれる。気持ち悪い。 谷間をくぐりぬけ、サルタバルタまであと一歩と言うところで彼女は振り返った。少し遅れてパウ・チャと ディルムッドがやってくる。だが、3人ほど姿が見えない。タルタルの男はまだ喉が痛むのか、ぜいぜいと 息をついている。 少しして、崖に囲まれた道の向こうにようやく仲間の姿が見えた。アリアが、ルーヴェルに 支えられるようにしてよろよろとこちらに向かっている。その側で心配そうに付き従っているのはゼノンだ。 「遅いじゃないの、なにやってんのよ!」 直情な彼女は、思わず声を荒げてしまった。ルーヴェルが反射的にミューリルを睨み付ける。 ぱぁん、と澄んだ音がした。追いついたゼノンが、ミューリルの頬を張ったのだ。 「な…!?」 とっさのことで、ミスラの娘は硬直する。代わりに絶句したのはディルムッドだ。 「待てといっただろう。嬢ちゃん一人に精魂使い果たさせて、どこに行くつもりだ」 「…まったくだ。これ以上声をださせないでくれ」 掠れた声で、パウ・チャがゼノンの加勢をした。疲労した喉に、タロンギの乾いた空気は毒なのだ。 ミューリルの頭にかっと血が上った。しかし、それはすぐにかき消される。 仲間の言葉を無視して先走ったのは確かに自分だ。この辺りの敵に襲われるような事はまず無いとはいえ、 独断がパーティー全体を危険に晒すことになる事だって充分あり得る。 「…ごめん、なさい」 ミューリルはようやくそれだけを言った。だが、その小さな声は谷を吹き抜けるつむじ風にかき消される。 不意に泣き喚きそうになる自分を、ミューリルは押さえきれなくなりそうになった。 「キャンプできそうなとこ、探してくる!」 だから、くるっと背を向けて走り出した。不安定な感情を表すように、尻尾が不規則な軌道で揺れる。 後ろに、誰かが付いてくる気配がした。ほんの一瞬だけ、彼女は期待をしてしまう。 だが、それはすぐに裏切られた。『彼』と違って、この人影からは煙草の匂いがしない。 「なんで付いてくるのよっ!来なくていいってば!」 ふう、とわざとらしい溜息が聞こえた。それが、ミューリルの神経をますます苛立たせる。 「だめだよ、ミュー」 ディルムッドは苦笑いしながら、ミスラの娘に声をかける。 「いま一人になったら、君泣いちゃうだろ?」 ぴたっとミューリルの足が止まった。握りしめられた両の拳がわなわなと震えている。 人なつこそうな緑色の目が、ひょいと彼女の顔を覗き込んだ。明るい金髪が、ミューリルの視界に飛び込む。 次の瞬間、ぱ−−−んという威勢のいい音が、サルタバルタの夜空に響きわたった。 サルタバルタ地方の夜は比較的おだやかだ。 土埃の舞うグスタベルクや、鬱蒼とした暗さをたたえるロンフォールとは全く違った趣を見せる。 巨岩に囲まれた一角で野営の準備を済ませると、パウ・チャとディルムッド、そしてアリアの3人は先に 床を敷いて仮眠を取り始めた。魔力を使い果たした魔道士ほど脆い者はない。 だから、彼らが十分に休息を取り終えるまで、前に立つ者達がそれを守る。それは当然の義務だ。 ルーヴェルはその卓越した索敵能力で周囲の警戒に当たり、ゼノンは焚き火の側に座り込んだまま、目を閉じて 耳だけを澄ます。だが、ミューリルだけは武器の手入れを終えると、することも無くごろりと横になった。 「ゼノン…変わろうか?」 なんとなく、そう問いかける。彼の目だけがふっと開いて、ミューリルを見た。 「構わん、寝ていろ」 そっけない返事に、彼女は失望感を露わにした。耳がしおしおと垂れ下がってしまう。 そんなミューリルの動向を知ってか知らずか、ゼノンは再び目を閉じた。 「…………ゼノン、あのね」 鼓膜に突き刺さる沈黙の痛さに耐えられず、ミューリルは再び声をかけた。 「まだ、怒ってる………?」 上目遣いに見上げる娘を、ゼノンはもう一度見つめる。 「お前が、自分の行動を軽率だったと認めているなら、もういい」 無機的な受け答えだった。いたわりとか、慰めとか、そういった温かさが感じられない。彼は、ミューリルに 対してはいつもそうだ。女性を口説く時のような甘い囁きなど、一度も言ってくれた事がない。 そう、『あの時』からずっとそうだ。 「ミューリル」 横たわるミスラの娘に、ゼノンは厳しい声を投げた。 「お前は、お前の母親のようにはなるな。それだけは、いつも心しておいてくれよ」 「…………はい」 その台詞は、ミューリルをいつも縛る。決して反論を許さない。 うなだれたように動きを止める尻尾を抱え込むようにして、ミューリルは毛布にくるまった。 ******************************************************************************************************* 「いやにゃ------------いっちゃいやなのにゃ---------------------」 幼い自分が、泣き叫んでいる。でも、周りにいる大人のミスラ達にがっちりと腕を掴まれていて、逃れられない。 (ああ、いやだ。また思い出しちゃった……) 夢の中で、ミューリルは哀しくなった。母の事を持ち出された夜は、たいてい同じ夢を見る。 「おいてかにゃいで--------------ひとりはいやにゃ----------------」 ミスラ訛り丸出しで叫ぶ子供の自分、その言葉を受け止める背中は、振り向いてくれない。 母が死んだ。 獣人との戦いで深い傷を負い、それが元で死病にかかったのだ。 気ままな性格の母はよく無茶をし、仲間によく叱責されていた。 その時も、きっとどこかで無謀な戦いでもしたのだろう。戻ってきた数日後にあっけなく逝った。 身寄りを亡くした自分を、母と親しかった男がウィンダスまで連れてきた。 ミスラの族長に、自分を預けるためだ。幸い母の身元ははっきりしていたのと、ミスラは一族全体で 子供を養うという習慣が根付いている為、ミューリルの身柄はその場ですぐに引き渡された。 彼女をここまで連れてきた男は、当然すぐそこを立ち去ろうとした。その豹変ぶりが、幼いミューリルには 理解できず、後を追おう必死に叫ぶ。なのに、男は答えない。距離だけがずんずん開いていく。 彼はいつもミューリルに優しく、顔を合わせる度にお菓子をくれたり、頭を撫でてくれた。 母がいない夜、一人寂しく泣いていた彼女にずっと付き添って、朝まで一緒にいてくれた。 彼が父親ならどんなにいいか…幼いミューリルは何度そう思ったことだろう。それなのに。 「ぜのおじちゃん、ぜのおじちゃん、どーしてミューをおいてくの-----」 今にして思えば、あの頃のゼノンは「おじちゃん」と呼ばれる年代ではなかったように思う。 だが、彼はそれを苦笑いしながらも許してくれていた。甘えるミューリルを、微笑んで迎えてくれていた。 なのに今のゼノンは、そんな優しさをミューリルに向けてくれることは無くなってしまった。 街で生活しているときは多少の我が儘を聞いてくれることもあるが、パーティーを組んで戦うときは、 周囲が助け船を出すほどにミューリルにきつく当たることもあった。 全ては、昔ゼノンとウィンダスで別れてから。あの言葉の後から、二人の間は何もかも変わってしまった。 若かりしゼノンが、ミューリルの泣き声にくるりと振り向いた。その表情は、信じられないほど怖いものだった。 「だまれ。俺に父親を求めるな!」 聞いたことの無いような怒号。あの優しく穏やかな彼があんな声を出すのを、ミューリルは初めて聞いた。 ショックで、泣くことも忘れた。彼女を押さえていたミスラが後でそっと耳打ちしてくれなければ、 ミューリルはいまこの場にいなかったかもしれない。 (強くおなり) ミスラの女性は、そう言った。彼女が族長であると分かったのは、ウィンダスで暮らすようになってからだった。 (お前がもっと強くなれば、彼は迎えに来てくれるから。側にいるだけが、愛情ではないのだよ……) あの日から、ミューリルは強くなろうと決めた。いつかもう一度、ゼノンに微笑んで貰いたくて。でも…… 「強くなんて、なれないよ!あたし、あたしは……」 夢の中で決意する幼い自分。それに向かって、ミューリルは悲痛な叫びを上げていた。