翌朝、我輩とご主人は北東の方角へと向かっていった。 しばらく進む内に大気は次第に寒くなり、いつしか周囲は針葉樹林へと変わっていた。 立ち並ぶ巨木の間からは朦朧とした光が差し込み、大地に埋まった岩石は紫色の輝きを放つ。 森は神聖で荘厳な空気に包まれていた。 ここは……聖地……。 「ユキトラ……、ここにいるはず……。」 ご主人の足は前へ前へと進みだす。朽ちた葉の堆積した土の上を足早に駆け抜ける。 我輩は神秘的な森の光景に目を奪われながらも、ご主人の後に付き従って行った。 森の道は複雑に入り組んでいた。倒れた古木が行く手を塞ぎ、土中には深い空洞が口を開ける。 大分進んだかと思えば、前に通ったような広場に逆戻り。そもそも何処を目指してるのかも判らぬ。 我輩は次第に疲れを覚えてきた。 だがその時、我輩の髭が何かを感じた。 その何かが居ると思しき場所を見定めると、向こうからもこちらの方を窺っているのが判った。 そこに居たのは、長い髭を持ち、足が長く、豹柄をした猫……まさしく我輩の同族だった。 「おや、アナタは……クァールでしたか。ここの氏族の者ではないようですが。」 そう言うとその猫は爪と牙を収めて近づいてきた。我輩もそれを見て警戒を解く。 「クァール? 我輩のことであるか?」 そんな名前があったとは初耳である。 何故か妙な知識ばかりは多いのだが、自分のことはよく判ってないんだにゃ。 「ええ。我らはこのジ・タに棲むMasterの氏族。聖なる土地の守人として暮らしております。」 ふむふむ、これは参考になるな……と聞いていて、我輩は大変なことに気付いた。 ほんの僅かな時間目を離しただけなのに、ご主人の居所を見失ってしまったのである。 慌てて髭に意識を集中する。北の方に人の気配を感じた。 幸いにも距離はあまり離れてはいない。我輩は直ぐに追いかけることにした。 「すまぬ。今は急ぎじゃ。また後で!」 我輩は北へと駆け出した。途中では大樹の根が邪魔で思ったより手間取ってしまった。 だが、もう少しで追いつきそうだと思ったそのとき…… 突然、森の中に立派な白い神殿が姿を現した……。 「ユキトラ、どうも間違えちゃったみたいじゃないかい?」 我輩は急に名前を呼ばれてビックリした。 その声は甲高くこそあったものの、ご主人のものとは似ても似つかなかった。 声の方を見る、するとそこには二頭身位の小さな人間がいた。 『骸たる星、珠たる子』称して『たるたる』と呼ばれる生命体だ。 「悪ぃ……ゴメン! やっぱ地図買って来るべきだった。ここ無茶苦茶強そうな敵ばっかいるし。」 そこにはもう一人の人間もいた。軽装の鎧を身にまとい、腰には短剣をぶら提げている。 どうやらユキトラと呼ばれたのは、その男らしかった。 「ま、インビジとスニークが掛かってるから襲われはしないけど……ここだと掛け直しはできないよ?」 神殿の入り口の広間には、頭上に剣を浮かべた怪物がうろついていた。 だが二人の方を向いても特に気には留めてない様子。外見に反して温厚な生物なのだろうか。 「ともかくここの外に出よ。で、一度休憩させてね。」 「ああ、分かった。」 二人は神殿から抜けると門の片隅に座り込んだ。我輩も樹の陰からコッソリと覗いてみる。 「それにしてもユキトラ、あんまり遅くなっちゃうと彼女が心配しちゃうんじゃない?」 タルタルが座ったまま言葉をかける。だがそれを聞くと、男は途端に沈黙してしまった。 しばらくしてから、振り絞るようにして声を出す…… 「アイツとは、別れた。」 簡潔な答えだ。 「何で? ケンカでもしたの? 君、随分とベタ惚れだったじゃん。」 「いや、オレにはアイツと付き合う資格なんて無かったんだ……。」 男は寂しそうに呟く。そして、大きなため息を一つついてから語りを始めた。 「オマエだけに言うぞ。ここなら他に誰も聞いてないだろうし。  オレは……皆の前では盗賊のフリをしてたけどな、  本当はオレの親は忍びと呼ばれる業の持ち主だったんだ。  ずっと無視してるつもりだったが、最近オヤジが倒れてね。  オレがその後を継ぐことになった。」 「で? どこにも別れる要因なんて無いと思うけど。」 「それがな、その業は裏の世界で編み出されたものだ。  忍びの術を身に着けるには、裏の連中に認められなきゃならない。  オレはそのために……禁制品の密輸に手を出した。」 「禁制品……?」 「生きた毛皮とか何とか言ってたけど、詳しくは知らん。  だが真っ当なものじゃないのは確かだ。もはやオレは犯罪者だ。  それにあの連中と付き合ってたら、この先何が起こるかも分からん。  だからオレは……アイツと別れる事にした。」 「それ、彼女には教えたの?」 「いや。アイツのとこには、別れるって書いた置手紙だけを残してきた。  本当のこと教えて、心配させても悪い。」 タルタルは立ち上がった。そして男の顔をじっと見据える。 「要するに、都合の悪いことは見せたくないから逃げ出したって訳だね。」 「おい、そんな言い方って……。」 「あの娘のことだ、きっと今も君の事を探してるよ。  嫌いだとでも宣言してきたんならともかく、手紙だけではね……。  いきなり置き去りにするだなんて、あまりにも可哀想だと思わないかい?」 「でもオレは……アイツのためを思って……。」 「君の都合だろ、全部。彼女のこと、何も考えてないじゃん。  まさかこんな情けない奴だったとはね……。僕は失望したよ。」 「だけど……オレはこうしないと……。」 タルタルは男に背を向けた。そして懐から小さな呪符を取り出す。 「ま、君がどう生きようと勝手だけどさ。他人にはなるべく迷惑かけないで貰いたいね。  思ったんだけど、僕をここに連れてきたのも、件の裏社会からの仕事だったりしない?」 「そうだ……けど、今回のは犯罪絡みじゃないし……。」 「困った時の手助けならするけど、逃避の幇助はごめんだね。僕はこれで帰る事にする。」 タルタルは呪符に込められた魔力を開放した。小さな体が空間の裂け目に吸い込まれていく。 「ユキトラ、最後に友達として一つだけ忠告しておく。  さっきの君の話……論理の筋道は通ってたけど、君が何をしたいのかはどこにも出てこなかった。  君にとって一番大事なことは何なのか……  これからどう生きるにしても、それをハッキリさせとかないと後悔するよ。」 光が虚空へと消えていった。林を風の吹き抜ける中、そこには一人の男だけが佇んでいた。