ないちゃだめだ。ないちゃだめだ。わたしには涙を流す、その資格すらない。 まばたきをしたらそのまま涙がこぼれそうで。 キュリリはかっと目を見開いたままサルタバルタをかけぬけた。 オリルの小さな肉体は、きっともう女神の契約によって再生されてクリスタルに帰還しただろう。 どうして、こんなことに。わたしは、ただ無力だ。 「オリル、ごめんね、ごめんね。」耳にはめた紫色のパールに向かってただ、そうくりかえした。 「いいんだ。事故だ。なれてる。」あいかわらずの素っ気無い声。 オリルはいつだってそう。冷静沈着な鉄仮面。 だけど、だけど。痛いだろうに、怖いだろうに。慣れるはずなんてない。 わたしたちは生きているのだもの。地にふせるその瞬間の、生命を脅かす根源の恐怖に慣れることなんてないのだ。 肉体が再生しても痛みは消えない。恐怖の記憶は消えない。 自分より遥かに大きな影が頭上で棍を振り上げた、あの瞬間の恐怖。 だめ!よけられない!ああ、死ぬな。そう思った。ぎゅと目を閉じたその瞬間。 「にげろ!」その鋭い声とともにオリルがキュリリの前に飛び出すと、魔力を解放した。 キュリリを見つめていた赤い瞳が怒りを帯びてオリルへと向けられる。 オリルの体力がものすごい早さで削られていく。オリルのあたたかい血が、キュリリの頬にまでとぶ。 それなのに彼は倒れようともせずに。小さなその足で大地をふみしめ続ける。 血が目にはいるのにもかまわず、精霊のスペルを紡ぎつづける。 やめて、やめて、やめて!足がすくむ。舌が震えてうまく癒しのスペルを紡ぐことができない。 回復、回復しなきゃ。死んじゃう。オリルが。はやく、はやく! 「いいからはやくにげろ!グズ!」詠唱の合間にオリルが鋭く叫ぶ。 身体のあちこちが赤く染まっている。目の前のオリルの赤い髪の間から筋をなして血が流れてる。 両手棍をささげる、その手首が変な方向にまがってる。 キュリリの鼓動が早くなる。濃い血の、臭い。目が、まわる。 「だけど・・・」「はやく!」オリルがあんな大きな声をだすのを初めてきいた。 キュリリはその声に弾かれるように後ろを向くと出口に向かって走り出した。 直後、「・・・う・・・」うめき声とともにオリルの小さなからだが倒れる音がした。 キュリリは後ろを振り向けなかった。 キュリリが初めて味わった死の光景。あまりにも無力な自分。助けられなかった人。代わりに死んだ人。 きっと忘れることはできない。 この先何度も、あの光景を見るのだろうか。その事実がキュリリの足をすくませる。 それでも、それでもわたしは彼といくしかないんだ。 キュリリは涙を振り払ってまっすぐ草原をかけてゆく。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------- キュリリの母が死んだ。 それがすべての始まりだったのだ。 キュリリの母はウインダスの調理ギルドおかかえの料理人だった。 父を先の大戦でなくしてから、キュリリの母は女手ひとつでキュリリを育てた。 幸いにもその類い稀な料理の腕前はギルド内でも早々に認められ、親子はすぐに不自由なく暮らせるようになったのだ。 月に一度、神子様が5院の院長を集めて懸案事項を話し合う、 その席にだす料理さえまかされる程の優秀な料理人だった。 キュリリはだから、ほとんど苦労という苦労をせずに育った。 生まれつき魔力も強くて、耳の院にも推薦で入学した。 このままきっと口の院の白魔道師団にでも入ってウインダスの為に働くのだ。 そう思っていた。 母の病気が発覚するその日までは。 悪性の疫だった。優秀とはいえまだまだ見習いのキュリリの癒しなど慰めにもならない程に。 なんの解決も、なんの現実感もともなわずにあっというまに母は天に召された。 キュリリは息を引き取る母の手をしっかりと握ったまますべてを見ていた。 自分を育んだ暖かい場所が崩れてゆく様をなすすべもなくただ見ていた。 葬儀やらなにやら、世間知らずのキュリリが呆然としている間にさっさととりおこなわれ、母は土に帰った。 そう、ほんとうにあっけないほど事務的に。 母をなくした夜、キュリリはひとり耳の院の寮の屋上にいた。 心の底から、ひとりになりたかった。慰めの言葉も弔いの言葉もほしくなかった。 急激な喪失感が身体の正常な感覚を失わせているのが分かる。 バランスがとれない。足が土についている気がしない。 どうしたらいい?これから。わたしは、ひとりぼっちだ。 「おかあさん・・・」そっと口の中で呟いてみる。 言葉がまるで咽に引っ掛かった異物のようで、キュリリの瞳が涙に濡れた。 背中を丸めて嗚咽を堪えるその背中をそっと物陰からオリルが見守っていたことを、キュリリは知らない。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------- 「・・・・おい、あんた」 荷物をまとめているキュリリの背中から声がした。 耳の院を退学するのだ。とてもではないがもう学校にのんびりと通える身分じゃない。 先生や仲の良い友だちはそれでもずいぶん引き止めてくれたけど、 ほんとうはなによりもキュリリ自身がのんびりと勉強などしている気分ではなかったのだ。 予期しなかった急な死に、母が残してくれたお金はそんなにないし、とにかくはやく自分で稼げるようにならないとダメだ。 幸い、母の同僚だった人が調理ギルドにこないかと誘ってくれていた。 声に振り返ると赤いぼさぼさの髪の男の子がこっちをみている。 えと、たしか彼の名前は・・・オリル=クロル。 ああ、彼も推薦だっけ。すごい魔力が強いんだって、噂だ。 話したこと、ないけど。いつも一人でいるし、話し掛けづらい。 ぼんやりと振り向いたキュリリに向かって彼は唐突にこう言ったのだ。 「冒険者にならないか?」 「へ?」 なにをいってるんだろう、このひと?変わり者だとはきいていたけど。 ボウケンシャ?そんなナラズモノみたいなものに? 「いくとこ、ないんだろ?」 彼の言葉になんだか急に自分がみじめに思えて。目の前のタルタルが急に憎らしくなった。 「そっ、そんなこと、ないもの!ばかにしないでっ! わたし、わたしだって、ちゃんとできるもの!り、料理人に、なるんだからっ!」 そういった自分の声、予想外に大きかったんだろう。 ざわざわとしていたクラスが静まりかえる。みながはれものを触るように視線をそらしているのに、 耳だけが確実に二人のほうにむいているのがわかる。 キュリリはいたたまれなくなって荷物を引っ付かむと、クラスを飛び出した。 振り返らないように。魔法を覚えるのは楽しかった。友だちもいたし、尊敬する先生もいた。 楽しかった。毎日が輝いて無邪気に日々を楽しんでいた。その場所はもう、ない。 水の区の橋の上まで一息に走ってキュリリは息を整えながらそっと腰をおろした。 料理人になるのは楽しいだろうか?いや、楽しいとかそんなことはどうだっていいんだ。 すぐに日銭をかせげるように、ならないとヤバイ。そう自分に言い聞かせるように確認する。 耳がしょんぼりと垂れ下がっていることに本人は気付かない。 遠くからスペルが聞こえた。と思ったら身体が動かなくなった。 え?な・・に? 首も動かせないからそっと視線だけでまわりを確認する。 りっくりっくとあのタルタルが歩いてきてぽてっと隣に腰をおろした。 「まだ話、すんでない」ぼそっとそういう。 な・・んなの、こいつ。バインドと、サイレス。ふつうかける?仮にもクラスメイトだった人間にだ。 キュリリは猛烈に怒っていた。母がいなくなってからどうも感情の起伏が激しい。 自分でもそのことに気付いてはいたけれど、どうにもできなかった。 腰にさした片手棍でこの失礼なやつをめった打ちにしてやりたいのに 声も出せなきゃ身体も動かない。横目できっとにらみつけるとわざとらしくため息をつかれた。 「どうせ、にげるつもりだろ?」そう言って。 悔しいけどこのひと、強い。魔法耐性がそうとうあるはずのわたしがここまで見事にかかるなんて。 「・・・・・おれ、もううんざりなんだ。この国は大事なことから目をそむけてる。 愚鈍なやつらと一緒に知らないふりをするのにはもううんざりなんだよ。」 彼がまっすぐ前を見たまま突然続ける。 大事なこと?愚鈍?だれが?なにいってんだろう、このひと。 「世界を知りたいんだ。おれにはそれができるから。」 ふーん、ずいぶんな自信ですこと。ていうかどうでもいいから早く魔法解けないかな? キュリリにとって彼の紡ぐ言葉はちんぷんかんぷん。どうでも良くなった彼女は 変なのに絡まれたと思って適当にこの場を切り抜ける方法を考えることにした。その瞬間。 「あんたもできる。」ぽつりと告げる声。 へ?なにいっちゃってんの?この人。 全く話をきく気がなかったキュリリは急に話題が自分のほうに向けられたのでただ、面喰らう。 「あんた、強くなりたくないか?」 そういってオリルは前を見たまま硬直しているキュリリをのぞきこんだ。 タルタル族特有の少年のような愛くるしい顔。 だけどそれ以外に初めてマトモに見る彼の顔からはなんの感情も読み取れなかった。 その時のキュリリにはまだ。キュリリがやがてそうなるように、彼に最大の関心をかたむけていたら、 彼の黒い瞳の奥がきらきらといたずらっぽく煌めいていたのがわかったのだが。 「考えておけ。」 そういってオリルは立ち上がると来た時と同じようにとてとてと橋を引き返していった。 つよくなる? バインドがとけてもキュリリはまだ橋の上から動かなかった。 大きな太陽が傾きはじめて空がだんだんとあかくそまる。 ぷらぷらと揺れる足の下にはさらさらと水が流れる。ねぐらに帰る、鳥の声。 天の塔に守られた豊かで穏やかな国ウインダス。この国の、・・だいじなこと? つよくなる? そうたとえば先生達のように、実習でときどきいったサルタバルタにいる、ヤグードを一人で倒せるような? ううん、そうじゃない。オリルの言った強さはそういうことじゃないような気がした。 つよくなる・・・そう、たとえば星のない夜、見知らぬ土地で一人で眠ること? ・・・・ううん、それもちょっとちがう。 つよくなるって、なに?なにが、できるの? たとえばこの喪失を、不安を、諦めを、癒すことができる、なにかが手に入るの? キュリリは考える。まっすぐにぶつかったオリルの黒い瞳がなぜが彼女の頭から離れなかった。 優等生だった。わたしはずっと。そのわたしが知らないなにか。それをあの男の子が知っている気がして。 調理ギルドにその日彼女が顔をだすことはついになかった。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------- 眠ったのか眠っていないのかも定かでない、浅い眠りのあと、キュリリはハウスから外へ出た。 調理ギルドへ挨拶にいくのだ。昨日はすっかり約束をすっぽかしてしまった。 あんなへんなやつの言葉に惑わされて。 失礼だったよね・・・。おこられるかな・・・。 そう思って重い足取りでドアをあけるとハウスの前の階段にあいつがいた。 ドアがあく気配に彼が振り向く。 キュリリが反射的にドアを閉じようとした瞬間、目にもとまらぬはやさで両手棍をさしこまれた。 「なっ、なによ!」逆上して彼を睨み付ける。 オリルは平然としたまま淡々という。 あいかわらず表情がよめない。 「いくぞ。」 「は?どこに?わたしこれから出かけるんだから!」 オリルが軽く鼻で笑う。 「ギルドか。」 「そうよ!邪魔しないで!」 ハウスの入り口で口論をする二人のタルタルを(声を張り上げているのはキュリリだけなのだが)道行く人がいぶかしげに見ていく。 睨み付けたままのキュリリの瞳をまっすぐと見返す黒い瞳。静かで、澄んだ、深い湖のような。吸い込まれそうになる。 「あんた、どうしたいんだ?料理人?正気か?あんたは母親とは違うんだぞ?」 オリルの瞳。まっすぐ見つめる、黒い瞳。確認するようにゆったりと紡がれる言葉。 言葉につまる。どうしたい?そんなこと考えられるものか。どうすればいい?それしか考えられないんだから。 「なあ。どうしたいんだよ?」 オリルの言葉が追いかける。やめて、やめて。追い詰めないで。 キュリリは怖くなる。なにかわからない不安で。さっと目をそらすとオリルの横をすり抜けようとする。 「にげるな!」 鋭い声。鞭のようにキュリリを撃つ。 「甘えるな。くだらない甘えで可能性を潰すな。おまえは、強くなるぞ。」 なんで?なんで、こんなこといわれなきゃいけないの?涙が滲む。 とてとてとオリルが再びキュリリの前に回りこむ。 「・・・なによぅ。何様のつもりよ?なにも・・わからないくせに。」うつむいたままそう言い返す。 「わからんさ。」あっさりオリルがきりすてる。 「なにもしないで、わかってもらえるつもりでいるのか。ほとほとお嬢さんだな。」 そう、それは挑発。オリルの計算。 その言葉にキュリリの胸に炎がともった。 それはたしかにこの目の前で偉そうな口をきく彼を見返してやりたい。そんな単純な負けん気だったのだけれど。 その瞬間。顔を挙げて。たじろがずにオリルの瞳を見つめ返す。 してやったり。そう、それでいい。その思いを押し殺してオリルは無表情のまま。 きみは、僕のものになるのだから。その、予感と共に。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------- オリルもほとんどその日から院にかようことがなくなった。 うさぎ、いもむし、とり。 小さな二人は草原を駆け回る。いつか世界を見るために。 生きていく方法はすべてオリルに教わった。 狩りの結果として戦利品を奪うこと。冒険者同士のもののやりとり。 町で細かな仕事を受けること。フィールドで眠ること。敵の属性。癒しのタイミング。 キュリリは不思議に思う。同じ歳のはずのこの男の子が何ものなのか。 母に守られていたころとまるで違う世界。厳しくて、辛い、でもいつもどこかに光が見える、そんな世界。 自分の相棒となった彼がなぜ、この世界を知っているのか。どこで知ったのか。 そしてなぜ、自分を選んだのか。 その答えは簡単だけど。キュリリにはまだわからない。 オリルは見ていたのだ。自分にないものを全て、もっている彼女を。 彼のほうが先に光を見つけたのだ。それだけのことなのだけれど。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------- ゲートを潜りクリスタルのもとへもどると、オリルがちょこんと座っているのが見えた。 胸がつまった。見たくない。この人が倒れるところを見たくなんてなかった。 かける言葉も見つからなくてそっとオリルの前にたつ。 「・・ちょっと無理したな。あそこは、まだはやい。」 淡々とそういうから。 「なんで?」「なんで助けたの?死ぬに、きまってるじゃない!バカ!」 そういって彼の頭をかき抱く。乾いた草のようなオリルのぼさぼさの髪。 傷はふさがっている。乾いた血が首筋にこびり着いていた。 「やめろよ。まだちょっとだるいんだ。」 「あ・・ごめん・・。」そういって身体を離す。答えはきけないまま。 気まずい沈黙。 「わたし・・・なんなの?」言葉がこぼれ落ちた。 「助けられもしない。・・ひとりで逃げてさ。なんなのよ?」だめだ、泣きそう。 「それでいいんだ。今はまだ無理だけど、君はいつか人をちゃんと救えるようになる。 そのためにも白魔導師は自分の命を大事にしなきゃダメだ。君が死んだら誰も救えない。」 いつのまにか君に格上げされた呼びかけ。 「だからって・・・オリルが死ぬことないじゃない!」 「俺が、死ぬのを見るのが嫌か。」 「いやよ!いやにきまってるじゃない!」 ほとんどそれは叫び。その声にオリルが珍しくにやりと笑ったように見えた。 ぴょこんと立ち上がった。立ちすくむキュリリのもとにオリルの顔がすっとちかづいた。 「それは脈アリだな。」 そうささやかれた。え?と思う間もなく、唇に柔らかい感触。オリルは太陽の匂いがした。 キュリリの頭が真っ白になった。バインドをかけられたあの日のように指先一本うごかせなかった。 そっと唇が名残惜しげに離れて。 「さあ、いくぞ。」オリルが何ごともなかったように背を向けて歩いていく。 ふたりが結ばれるのはそう遠くない未来。