海から吹き上げる風が、体温を容赦なく奪っていった。 離れ小島を望むバタリアの海岸線に、3人の男が立ちすくんでいる。小さなタルタルを挟んで、ガルカと エルヴァーンが対峙していた。冷たい空気が、その間を満たす。 やがて、ルーヴェルが動いた。手の中の物を、バンデオムにつきつけた。 「返しておく。今の俺には関係のない物だ」 「過去を捨て、名を捨て…か。捨てるだけ、隠し通すだけ、お前のような卑怯者ばかりだから、 だからあの国は何も変わらないと何故気づかん」 皮肉たっぷりに言い放つガルカを、エルヴァーンは静かに見つめた。 「俺の罪が、アリアを苦しめるというならいくらでも償おう。だが、貴方は何だ?貴方こそなぜ彼女を苦しめる?」 バンデオムの目がルーヴェルを刺した。問いかけるルーヴェルの瞳もまた、怒りが含まれている。 「俺の過去と、アリアの未来を結びつけるのを止めろ。何故貴方にそんな権利がある」 「…あの子の為だ。あの子達は外に出てはならないのだ」 不遜に言い放つガルカの言葉に、今度は青年が声をあらげる。 「籠に繋ぐことが彼女の幸福だと、本気でそう思っているのか!?」 負けられない。ルーヴェルは重い体に鞭打って、己にそう言い聞かせた。こいつの理屈は矢張りおかしい。 何かが、間違っている。いや………何を、隠している? 「…何故貴方は、アリアにこだわる?」 青年の聡明さが、やがてそこにたどり着かせた。アリアと同期の、ガルカに連れ戻されたという魔道士。 施療院の孤児と、それを教育する訓練士という関係。明らかにそれを越えた、バンデオムの執着と怒り。 「俺が話してやるよ。知らせなければあんたはどうあっても悪人扱いだ。それでは不公平だろう?」 口をつぐんだままのバンデオムをさしおいて、パウ・チャが声をかけた。 「昔、ある所を、国の密命を受けて進軍していた一団があった。 他の二国に知られては不味い遠征だったらしくてな、運悪く彼らと関わりを持ってしまった旅の隊商(キャラバン)を、 漏洩を怖れた一部の者が先走り、その隊商の人々をほとんど殺してしまった」 どこかで聞いたような話だ。ルーヴェルは、全身がざわりと総毛立つのを感じる。 「団長が気づき、犯人はその場で処分された。が、すでに生き残ったのは荷物の隅で震えていた数人の子供だけ だったそうだ。彼はとっさに獣人の襲撃だと嘘をつき、その子を本国の訓練施設に入れてしまった」 「しかし、部下を止められなかった団長は、施設の実状を見てまた肝を潰した。洗脳に近いその教育内容、 そして孤児への虐待なんて朝飯前。あげくの果てには、魔力持たぬ子を人買いに売る訓練士までいたそうだ。 当時、国の是正を叫んで就任したばかり大統領と面識のあった彼は、望んで訓練士となり、改善に力を尽くした… これで、だいたいは合っているか?」 パウ・チャはふいと、バンデオムの方を向いた。 「自分の責任で親を失った子供達が、成人してなお人身売買の危機に晒されている。まぁ、親でなくとも…いや、 親代わりであろうとしているからこそ、連れ戻そうとやっきにもなるのだろうよ」 タルタルがふう、と溜息を付いた。そしてルーヴェルの方を向く。 「こいつから聞かされていると思うが、サンドリアに高位の魔道士を無理矢理移籍させようとしている という動きがあるというのは本当だ。むろん、ごく一部の過激派連中がつっぱしっての愚行だが。 安直だが馬鹿には出来んということ事で、こいつはバストゥークとサンドリアの2国から原因究明の オファーを貰って動いていたという訳さ。その最中、お前という存在にぶちあたって、誤解が生じたようだな」 「…誤解?」 「ああ、どういう訳か、このガルカ殿はお前を件の密偵だと思いこんだらしい。 あとはもう、知っての通りのなし崩しだ。怒り心頭でジュノに駆けつけ、アリアを連れ戻す手続きを始めたって訳さ」 ルーヴェルが思わずバンデオムの方に向き直った。彼は無言だった。それは肯定の返事だと、青年は受け取る。 「…この男は咎人だ。罪を隠したままあの子に近づき、汚した者にかける情けはない」 容赦のない言葉がルーヴェルの胸を抉る。 しかし、パウ・チャの視線が、ぎらりとガルカに刺さった。意地の悪い笑みを、唇に浮かべる。 「さっきから咎だ罪だと叫んでいるが、あんたは『いったい何を言っている』んだ?」 青年がはっとした。ルーヴェルはまだ、自分とアリアを襲った者が死んだことを知らない。だが、今回の事件は ダボイでの、あの襲撃者が元凶であることくらいは想像がつく。そう、魔道士を拉致しようとした者は別にいるのだ。 アリアへの執着は別にして、何故彼はルーヴェルがサンドリアの密偵だと疑うのだ? 言葉の与える衝撃に負けまいと、青年は必死に思考を巡らせた。自分の抱いた、当然と言えば当然の疑問。 公式に、すでに解決済みの事件。それを押して、自分の素性を疑う男。突きつけられた物証。 「貴方はこれをどこで手に入れた?」 かつて一度だけ、ルーヴェルは自分の死を確認するために母国に戻った。 死体のない墓の下には、唯一残された遺品が納められたと、墓守から聞いていた。しかし。 「サンドリアでは、たとえ親族であっても、墓を暴いて埋葬品を持ち出すのは極刑ものの犯罪の筈だ…」 ガルカが、初めて動揺した。視線が彷徨う。パウ・チャはそれを聞くと、ようやく得心がいったのか、 ほう、と嘆息して頷いた。 「…なるほどね、そういう事か。まったくもって良い度胸だなグレイ・ダガー、いやバンデオム。 『ここにあってはならない物』で、他人を恐喝するとはね。…親心にでも動かされたか?」 ルーヴェルがパウ・チャを見る。それを受けて、タルタルの男はさげずむような表情ををようやく止めた。 すこし寂しげな、それでいて苦々しげな、奇妙な微笑みを浮かべている。だが、それはほんの一瞬だけだった。 すぐにパウ・チャはいつもの不敵な顔に戻っている。 「やっと飲み込めたよ、ルーヴ。いきさつは知らんが、共感するところでもあったんだろう『親として』、な」 親…その単語を、ルーヴェルは辛うじて飲み込んだ。捨てた家に、たった一人で暮らしているであろう、一人の男。 妻や息子にはいつも厳しく、日々政争にあけくれてた、典型的なサンドリア貴族だった。自分に感心持たぬ父親に 対し、恩も恨みも抱けなかった。だからルーヴェルは、彼と彼に付随したすべてをあっさりと捨てたのだ。 その男が、今更なんの為に自分を捜すのだ。恨み言のひとつでもぶつけようとでもいうのだろうか? 「そうだ…わたしにはあの子を守る義務がある。こんな臆病者に、託すわけにはいかないのだ…!」 揺れるバンデオムの声。だが、その口調からは生彩が欠けている。まるで最後の抵抗であるかのように。 エルヴァーンの青年は、返す言葉がない。卑怯者、咎人、臆病者…全て己のことだ。 自分の罪と弱さとをひた隠しながら、彼がアリアをつなぎ止めているのは紛れもない事実だ。 現在(いま)の自分だけを見つめてくれる彼女の、あの柔らかなまなざしと温かな躰を、汚したのは自分だ。 「あんた、先の大戦ではずいぶんと戦功をあげたらしいな。自分の地位を棚に上げて、駆け出しの若造を 責めるのは酷ってもんだろ」 胸をえぐるバンデオムの言葉の前で、ただただ沈黙していたルーヴェル。代弁するように声をかけたのはパウ・チャ。 「咎人ねぇ…そんならお前はなんなんだ?あの子の両親を殺した相手を、きちんと告げなかったのは何故だ?」 タルタルの言葉が、ガルカに突き刺さる。殺気に近かったバンデオムの怒りが、急速に萎えていくのが伝わった。 「結局の所、お前ら二人は似たもの同士なんだな。だから、あんたはルーヴを認められない。 自分で自分を許せないから、受け入れられない。そうだろ」 ガルカと、エルヴァーンの視線が交錯する。 過去に負った罪 それを隠そうとする自分 罪知らぬ者から己の弱さを隠そうとする、その行動 誰かを守ることで、何かから赦されたいと願う心 愛しているから、愛していたいから、それを奪うモノが、許せない 「ルーヴェル、自分を許せとは言わん。だが、最後の孝行くらいはしてやれ。ガルカ殿に免じてな」 エルヴァーンの方を向いていたパウ・チャが、ガルカの男に視線を向けた。 「グレイ・ダガー、過去の罪で未来を閉ざすな。巣立つ雛の翼を折るようなことを、するもんじゃない」 月明かりが、濃い影を作っていた。暗くて、パウ・チャの表情がわからない。笑っているのか、呆れているのか、 それとも皮肉っているのか。いつもいつも気ままで奇妙なタルタルの男は、おどけた調子で帽子を被り直す。 「そら、女神の使いがやってきた。あとは任せて俺は消えるとするよ」 後ろ手にひらひらと手を振りながら、パウ・チャはたたっと駆け出した。 いつも思う、彼は何を見て、何を知っているのだろう?それすら、悟らせてはくれない。 「【星見つめる者】?…まさか、な…」 バンデオムの問いかけは、闇に吸い込まれた。もう、彼らの視界からタルタルの姿はとっくに消えてしまっている。 「先生…ルーヴ…どうして、ここに?」 息を切らせて、アリアが走ってやって来た。その顔は、月明かりに照らされて白い。血色が悪いせいも相まって、 まるで白磁の彫像を思わせる。パウ・チャの言葉はいつも的確だ。まさしく彼女はアルタナ女神の使いなのかも しれない。かつて罪に苦しんでいたバンデオムの心に平穏を与え、孤独に生きてきたルーヴェルに温もりをくれた。 なのに、なぜ自分たちは彼女を苦しめてしまうのだろう。 変わらなければ、己の弱さを認めなければ、自分たちは、これからも一番大切な者を傷つけ続けてしまう…! バンデオムとルーヴェルの視線が、再び交錯した。どちらが先に仕掛けたのかは分からない。 怪我で弱っていたルーヴェルの方が、明らかに劣勢だった。にも関わらず、お互いに容赦はない。 拳を繰り出し、膝を蹴り上げ、想いの強さを証明するかのように撃ち合う。 「や、やめて、止めて下さい!ふたりとも、どうして!?」 原因が分からず、アリアはただおろおろするばかりだ。ルーヴェルの拳がガルカの顎を捕らえ、バンデオムの膝が ルーヴェルの腹に食い込む。癒しの魔法を使おうとしても、気が動転してアリアは集中できない。 やがて、十分に勢いの乗った拳がルーヴェルの頬を捕らえた。地面に倒れ伏す青年、バンデオムはこれで終わったと、 一瞬の油断を生じさせた。だが、ルーヴェルは諦めていなかった。倒れざま、足を払ってガルカの巨体を地に 転がす。すぐさま飛び起きると、バンデオムの上に馬乗りになって胸ぐらを掴んだ。 「…アリアは、渡さない!!」 振り下ろされる拳。バンデオムの全身から、ふっと力が抜けた。それを受け入れようとでもするかのように。 だが、衝撃はこなかった。アリアがルーヴェルの腕に、全身でしがみついていたからだ。 激情が急激に冷まされて、エルヴァーンの躰からもゆるゆると力が抜ける。ヒュームの娘をしがみつかせたまま、 ルーヴェルはようやくバンデオムを解放した。 ゆるりと立ち上がると、ガルカはひどく優しい瞳でアリアを見つめる。愛情に溢れた、あたたかな眼差しだった。 「…バン先生?」 泣き出しそうな瞳が、バンデオムを見つめ返していた。己の過ちで不幸にした娘、その傍らに立つのは、 もはや自分ではない。自分の隣には、もう彼女の幸福は存在していない。 「アリア」 「…はい?」 バンデオムが微笑んでいた。ひとつの終わりを迎えた、寂しげな笑みだった。 「わたしは、いつでもお前の…お前達の幸せを願っているよ」 返す言葉を見つけられないアリアを後に、バンデオムはゆっくりとその場を後にした。 バタリア丘陵を吹く風が、彼とアリアの間を急速に埋めていく。とっさの事で訳も分からず、アリアはただ混乱する。 「ルーヴ…一体、先生と何を話したの?」 青年は押し黙ったままだった。無言で彼女の手を取ると、引きずるようにしてジュノの町へと歩き始める。 「答えて、ルーヴ…どうして、あなたがこんな怪我しなくてはならないの…」 やがて、アリアの眼が涙で濡れる。 「…わたしのせい、なのね?」 「違う」 振り返らずに、ルーヴェルは答えた。だが、アリアは素直にそれを信じられない。彼がこちらを見てくれないから。 「…ごめんなさい」 呟くように、かすれた声がそう言った。 「ごめんなさい…ごめんなさい…」 小さな子供のように泣きじゃくりながら、アリアは何度も何度もそう言った。 やがて、バタリアとジュノを続く大橋の、その向こうに街の灯りが見え始めた。夜はまだ、明ける気配を見せない。