「勝手に終わってんじゃねー!!」 飛び出した一人のナイトの盾が、鈍い音と共に老オークの拳をがっしりと受け止めた。 ガルカですら膝を屈させた力を、全身で受け流している。鍛え上げられたゼノンの技が、それを成し得たのだ。 一瞬止まった味方の間を縫うようにして、絶妙に放たれた何本もの矢が獣人の腕に、咽に、突き立つ。 聞き知った声に、アリアはぺたんと尻餅を付いた。疲れ切った体が支えを失っていて、力が入らない。 オークからアリアを隠すようにして、すらりとした人影が彼女に背中を向けた。きりりと弦を引き絞り、近距離 から矢を放つ。何度、見た光景だろう。何度、その姿に助けられただろう。 「うおおおおおおおっ」 ヒュームの騎士が、盾越しに獣人を押し出し、前線へと戻した。エルヴァーンの狩人の放つ矢が、オークの 注意力を殺ぎ、反撃できなくしていたからだ。息のあった連携に、周囲から感嘆の声が漏れる。 ゼノンがざっと飛び退いて、距離を開けた。後方に控えていた魔道士達が一斉に強力な呪文を叩き込む。 ようやく、オークが弱り始めた。元々年老いていたのだ。怒りだけで動かしていた体が、限界を迎えているのだろう。 浮き足立っていた戦士達が、ようやく動き出した。魔法の発動を肌で感じては飛び退き、他の戦士達の技に 併せて自分も使いなじんだ武器を振るっている。 アリアの眼から、涙があとからあとから湧いてきた。どうしてこの人は、いつも鮮やかに現れるのだろう。 いつも自分を救ってくれるのだろう。 この人が居なければ自分は……とっくにこの世から消えてなくなっていたかもしれない。 「遅くなった」 安易に自分の命を投げ出すなと、いつも彼は怒っていた。だが今は違う。責める心も怒りも、無い。 エルヴァーンがようやく振り返った。戦況が押していると判断したのだろう。弓をしまうと、アリアの前に跪く。 「俺は間に合ったか」 指で、アリアの頬の汚れと、涙を拭いながら、ルーヴェルはそう問いかけた。すこしばつの悪そうな顔をしている。 胸が詰まって、アリアは声が出なかった。ただ、こくこくと頷くことしかできない。 「そうか」 アリアの眼に、ルーヴェルが微笑んだように見えた。それが尚更、彼女の胸を打つ。涙が止まらない。 青年が娘の腕を取り、立たせた。そのまま、きゅうと力を込めてアリアの体を抱く。彼の腕の中は、いつも温かい。 地響きを立てて、オークが地面に倒れ伏した。何本も剣を突き立てられ、鏃を体に残したまま、ようやく全身の 血を流しきったのだ。瞳から生気が急速に失われた。 本来なら集落の奥でひっそりと寿命を迎えていたはずの年老いた獣人は、かつての悪名の報いを受けたのだろうか。 息付く暇もなく、撤収の準備が始まった。刀身の汚れを軽く拭って鞘に治めると、ゼノンは若い男女に目を向ける。 「場所をわきまえんやつらだ…ん?」 ゼノンの立っている場所からルーヴェルとアリアを挟んだ、その遙か向こう側。 崖上の立木の間から、何かがきらりと瞬いた。オークの弓兵か?いや、それにしては体格が小柄すぎる。それに、 あ い つ は 何 を 狙 っ て い る ん だ ? 「ルーヴ、上だ!!」 叫びと、何かが風を切る音が同時に響いた。青年がはっと視線を上げ、腕の中の娘を引き寄せる。 庇った腕に、深々と矢が突きたった。それを引き抜くと、ルーヴェルは神速の早さで弓を構えて弦を引き絞る。 しかし、その手から矢がぽろりとこぼれ落ちた。 「ルーヴ?……あっ」 片手で腕を押さえ、うずくまるルーヴェル。その指の間から、どす黒い血が滲んでいた。 とっさにアリアは解毒の呪文を唱える。その間に、怪しい影はすぐに消えてしまった。 「毒だと…」 それに気づき、ゼノンが険しい顔をした。アリアの呪文が完成し、ルーヴェルの汚れた血を浄化する。 だが、それでも青年の体が小刻みに震え始めた。受け止めようとした娘の腕をすり抜け、どさりと横たわる。 「…え、どうして。待って、ルーヴ」 信じられない光景に、アリアは動揺した。もう一度、解毒の呪文を試みる。続けて、傷を癒す魔法を唱えてみる。 小さな傷が瞬時にふさがった。なのに、ルーヴェルは動かない。その顔に脂汗が浮かんで、みるみる全身が 痙攣し始める。 「そんな、どうして、どうして…」 周囲の者が異変に気付き、駆け寄った。何人もの癒し手達が、入れ替わり立ち替わり魔法を施す。 なのに、青年の意識は戻らない。 ルーヴェルの腕に刺さっていた矢を、ゼノンが拾い上げた。鏃にべっとりと、どす黒い液体が塗られている。 くん、と鼻を動かして、匂いを確かめた彼の顔から血の気が引いた。振り返ると、ヒュームの娘が泣きながら エルヴァーンの青年に取りすがっている。極度の疲労ですでに気力も尽きているはずなのに、周りが止めるのも 聞かずに呪文を唱え続けている。 「やめろ、嬢ちゃん。こいつは大サソリの爪から作られた猛毒だ、魔法だけで癒しきれるものじゃない」 その言葉は、アリアの耳を素通りしていた。体力も尽き果て、蒼白になったままぶつぶつと魔法を使い続ける。 「嬢ちゃん、やめるんだ。お前まで…!」 彼女を止めようと、ゼノンが肩を掴もうとした時。アリアの全身からふっと力が抜けて、ルーヴェルの上に 倒れ伏した。とうとう、体も心も限界を迎えたのだ。 「くそ、誰か来てくれ!…そう、黒魔道士はいないのか。いるならすぐ来てくれ、頼む!」 血と泥に汚れたまま横たわる男女を、胸かきむしられる想いで見つめながら、ゼノンが絶叫した。 動揺する人々を冷酷な眼差しで見つめる者がいた。彼は弓をしまうと、注意深く様子をうかがう。 1度目も2度目も、あのいまいましいエルヴァーンの男のために失敗してしまった。ちっと舌打ちする。 致死量を塗りつけてはいたものの、すぐに解毒されてしまったから、あの男が死ぬかどうかは疑問だった。 だが、助かったにせよ奴はしばらくは動けまい。小娘の口から自分の事が誰かに漏れる前に、始末しなくては。 日が傾き始め、伸びる木々の影が、ヒュームの若者の姿を濃い闇の中に隠していた。 「なぁ、ひとつ教訓をたれてやろうか」 頭上から声が響いた。彼はとっさに上を向くが、衝撃は別の方向からやってきた。小さな人影が、気づく暇すら 与えずに、若者の鳩尾を強打したのだ。呼気が苦痛の呻きとなって漏れる。彼はたまらず膝をついた。 「人の恋路を邪魔するヤツは、チョコボに蹴られて死んじまえ。ってね」 また、別の方向から声がした。しかし、人影は彼の目の前に立っている。タルタルの、男だ。 音の反射を利用して、自分の立ち位置とはまったく違う方向から対象に声を届ける。それが出来る吟遊詩人は そうざらではない。 「まー、心配するな。お前さんから聞きたいことは山っっほどあるんでな、殺しはしないよ。今は」 愛らしい姿からは想像もつかない、凍てつくような殺気を放ちながら、パウ・チャはそう告げた。 「もっとも、死んだ方がマシな目にはあって貰うかもしれんがね」 ヒュームの青年が、自分より遙かに小さな相手に気後れしていた。明らかに、格が違う。じりじりと後ろに下がり、 いつでも逃げられる体勢を取る。サフィニアですら、今のパウ・チャを見たならば恐怖を抱いていただろう。 普段おどけた彼が怒りを見せるとき、そこには一片の情けも容赦も残らない。 ひゅうっと風を切って、黒い羽をあしらったダーツが青年の手から投じられた。だが、パウ・チャは半歩身を引いた だけでそれをかわしてみせる。 眠れ眠れ、小鬼の砂をその目にかけろ… 呪力を持った不思議な詩が、ヒュームの耳を突き抜けた。不自然な睡魔に襲われ、彼はがっくりと膝をつく。 ふわりと宙を舞う一筋の縄が、あっという間に青年から自由を奪った。両腕と足とを縛られ、身動きがとれなくなる。 先ほど、自分に向けて投げられたダーツを拾うと、パウ・チャはそれをヒュームの喉元に突きつけた。先端が、 どす黒い液体に濡れている。 「これの効力は、お前さんが一番良く判っているな?」 冷静な声だった。そも、パウ・チャは最初から交渉する気なぞ持ち合わせてはいない。 「二度は聞かない。…誰に頼まれた?」 冷たい先端が、青年の肌に触れる。彼はひっと息をのんだ。誤魔化せる相手でないことが、本能で分かる。 「そ、それは…」 言葉が途中で途切れ、二度と紡がれることはなかった。ぎりぎりで気づいたパウ・チャが、音の発生源から 身をよじって逃れる。首から上を失った体が、どさりと地に倒れ伏した。一拍遅れて、鮮血がほとばしる。 「結構、えげつないんだな。ええ?【鈍色の短剣】(グレイ・ダガー)、いやバンデオムさんよ…」 かわさなければ、パウ・チャも深手を負っていただろう。いや、それとも故意に気づかせたのか。 木々の影の中から、長剣を携えた黒灰色の鎧のガルカが音もなく現れた。 特殊な加工がなされているのか、金属同士が触れあう音がしない。ルーヴェルが彼を最初に見た時、 訳もなくいぶかしんだのは、バンデオムの鎧が夜戦むけのそれである事に、無意識のうちに気づいていたからだろう。 「あんたの事はそれなりに調べさせて貰った。勝手にうちの仲間を連れ帰られては困るのでね」 ガルカが無言で間合いを詰め、剣を突き出した。刃がパウ・チャの頬を、皮一枚裂く。 だが、彼の真後ろに忍び寄っていたゴブリンが一体、どうと倒れた。血の匂いに引き寄せられてきたのだ。 「どうも」 後ろ手に迎撃しようとしていたパウ・チャだったが、余計な世話を焼かれた事でも一応は礼を言う。 「久しく聞かなかった呼び名だ。他人に勝手につけられたものでも、懐かしさは感じるものなのか…」 パウ・チャが、ふんと鼻を鳴らしてガルカの感傷を笑った。 「いずれにせよ、『あんたの追っている密偵』とやらはとりあえず死んだ。これで手を引いてはくれないか?」 「…呼び名の事と言い、その様子だと色々と嗅ぎ付けたようだな」 タルタルが自分より遙かに大きな相手に、にやりと唇をつりあげて見せた。だが、その瞳は笑っていない。 「それなりに、ね。あとひとつ、確証さえ来れば俺はお前を訴えることもできる。公式にな」 バンデオムの瞳がすっと細められた。その視線に殺気が混じり始める。 「おっと、荒事は無しにしてもらおう。あんたの状況も、分からないわけではない」 「あの子に、何を吹き込んだ」 剣の切っ先が、パウ・チャに向けられる。彼の身長よりも遙かに長大な剣だ。一閃されれば、タルタルなぞ ひとたまりもないだろう。 「誤解するなよ。あの子を追いつめたのは他ならぬ貴様だ。見ただろう?そのせいで、俺の弟分まで怪我をしたんだ。 責任転嫁はやめてもらおう」 怖れる風でもなく、タルタルはバンデオムを冷たい目で見上げた。 「あいつに文句があるのなら、話せる場を設けてやる。これ以上、貴様の都合であの子を翻弄するな」 ガルカがようやく剣を鞘に納めた。思い当たることでもあるのか、その目はパウ・チャを通してどこか遠くを 見つめている。過去に囚われ、そこから抜け出せずにもがく老人のような目だと、彼は思った。 自分は、どこかで同じような目を見たことがある。 崖下の向こうが、騒がしくなった。襲撃を受けて倒れたエルヴァーンの男と、彼に取りすがったまま意識を失った ヒュームの娘を、搬送する準備が始まっている。犯人を捜そうとして、数名がパウ・チャとバンデオムの方へと 向かっていた。 「離れるぞ。あとの話はそれからだ」 二人の男の姿が木陰に消え、後には静寂だけが訪れた。 すぐに高位の黒魔道士が現れ、ゼノンと二人とを特殊な魔法でジュノの街に転送してくれた。 そのまま、医者の元にかつぎ込まれたアリアは、しばらくして意識を取り戻したが、ルーヴェルの方は依然として 高熱に冒されたままだった。ハウスに戻って休めと言うゼノンの言葉を、アリアはがんとして受け入れず、 ルーヴェルの側につきっきりで看病に当たっていた。だがそれもつかの間、すぐに体力を消耗し、またしても 意識を失って倒れてしまう。同室の、もうひとつの寝台にアリアが横たえてられてからしばらくして。 とっぷりと日が暮れる頃に、ようやくルーヴェルは目を覚ました。とっさに状況を把握しきれず、視線を彷徨わせる。 部屋の反対側にある寝台で、アリアが眠っていた。その顔はひどくやつれていて、弱々しい。 (助かった…のか) 自分の体が、自分のものではないのかと思われるほど、ひどく重かった。どうにか手を付いて体を起こす。 頭がくらくらした。微熱があるせいか、空気が肌寒い。寝台を抜け出し、ふらつく足取りでアリアの傍らに膝を ついた。目の下が落ちくぼんでいて、彼女が極度の疲労で心身を損なっていることが伺いしれる。 「ルーヴ…大丈夫なのか」 開け放した扉をくぐって、ゼノンが部屋に入ってきた。すでに鎧は脱いでいて、軽装の普段着に替わっている。 「ああ、安心しろ。ここはジュノ上層の治療施設だ。見ての通り嬢ちゃんも無事だよ」 そう言って、ヒュームの男はルーヴェルに白湯を差し出した。女癖の悪い彼ではあるが、仲間に対しては別人の ように世話を焼いてくる。そんなゼノンに、ルーヴェルは礼を言い、素直にそれを口に含んだ。 熱で水分の失われていた体に、温もりが染みわたる。 「…動けるようなら、聞いてくれ、ルーヴ」 やがて、苦々しい顔でゼノンがそう切り出した。青年はいぶかしげに顔を上げる。 「パウ・チャから…伝言だ。 "今夜、月が天頂に昇る頃までに、バタリア南の海岸線まで独りで来い。ヤツが待っている" だと」 「…わかった」 ルーヴェルは窓から外を見上げた。ちょうど、月が町並みの上にかかり始めた頃だった。今からすぐ出れば 充分間に合うだろう。彼はそう判断すると、そばに揃えてあった防具を着込み、出立の準備を整える。 「おい、待て。一体なにがあった、説明し…」 焦れたゼノンが、ルーヴェルの肩を掴んで振り向かせようとしてぎょっとした。触れた手がすぐに引かれる。 革鎧を通して、青年の体温が伝わってきたからだ。尋常ではない発熱だ。 「ルーヴ、行くんじゃない。一時的とはいえ、致死量の猛毒に触れていたんだぞ。その体では…」 冷や汗の滲む横顔に、ゼノンが警告を発した。癒えきらぬ体で動き回るのは、明らかに自殺行為だ。 「心配するな。…それより、アリアを頼む」 愛おしい娘にちらと視線を送ると、ルーヴェルは息を整えた。 「どのみち行かなければ、俺はこいつを失ってしまう」 それだけは、許されない。自分の存在意義にかけても。ルーヴェルは態度でゼノンにそう伝える。 「…おい、待てよ」 その背中に、ゼノンは声をかけた。手の中の小箱を、ルーヴェルの手に押しつける。それは、ゼノンが青年の 看病をしている時に見つけたものだった。 「ちゃんと、戻ってやれよ。それを嬢ちゃんに渡しに、帰ってこい」 息子を見つめる父親のように、ヒュームの男はそう言った。 「ああ、かならず…必ず帰る。俺はまだ、言ってない事がたくさん…あるから」 月の光が、ルーヴェルを急かすように強くなり始める。まだ冷たい風の中に、エルヴァーンの青年は進み始めた。