遠ざかる足音に耳をそばだて、リビングへ繋がる扉が閉まるのを確認した後
月は急いでズボンを下ろす。
案内されてここへ移動した際、歩くたびに後に違和感を感じていた。
一瞬切れたのかと思ったが、そうならばもっと痛むはずだ。

そっと手を当てる。
ぬるりと粘る何かが月の指にまとわりついた。
首をまわして指先を見るが、思ったとおり血ではない。
指の腹同士を軽くすりあわせるとはじめはぬるぬるしていたが
じきにキシキシとつっかえるような手触りに変わった。
「……入れる前に出してたのか…」
潤滑油も使わず解しもせず力任せに押し込まれたのに
傷つくことなく無事だったことを喜ぶべきだろうと気を取り直し、
そこはかとなく情けなさを感じながら月は照の精液をティッシュで丁寧に拭った。
「下着もアウトだな…」
用意されたスウェットを直接履く。腰周りがひどく落ち着かないがやむをえない。

仰向けに寝転がり、溜息をついた。
横たわるとベッドから照の匂いがふわっと舞い上がり月を包む。
うつ伏せになり、枕に顔を押し付け、胸いっぱいに照を含んだ空気を吸う。
中途半端に刺激を受けて敏感になったままの体がきゅっと反応する。

照のことだから、自分に対して欲情したのは今日初めてではないはずだ。
耐えて耐えて、こらえてこらえて、やっと今日までしのいで来たのだろう。

自分は周りの人間の劣情を必要以上に刺激する存在であるらしいと
月はほんのちいさな子供の頃から自覚していた。

月の体に興味を示し近寄るものの魂胆をいち早く見抜き
波風を立てないよう気を配りながら巧みにあしらうテクニックは
成長する過程で最初に身につけた処世術だ。
意識せずとも自動で動く常駐プログラムのようなものである。

そうした気遣いを照に対してだけは一切してこなかった。
むしろ照の前では積極的に警戒を解き、スイッチをオフにして
完全無防備モードに切り替えていたとさえいえる。

自らの行動に激しいショックを受けていた照を思い出し、
ふいに罪悪感にかられ月は唇を噛みしめた。
して当然の配慮を怠った。言い換えれば挑発したも同然だ。責任は自分にある。

利己的に欲望を満たそうとする行為は照にとってまさに排除すべき悪だ。
ましてや神と崇める月に対し性的衝動を覚えるなど、受け入れがたい事実に違いない。

そう考えると先ほどの「変な気を起こさないように」は不用意だった。
照は勝手に誤解して、今後一切手を出してこないだろう。
月を抱こうとした事自体を一言も責めてはいないのだが。

またひとつ、長い溜息をついた。

殴っても突き飛ばしてもののしっても、けろりとして月を抱いたあの男の
図太さしたたかさが今は妙に懐かしい。

いったん火のついた月の体は
許可が下りればまたすぐに燃え上がろうと続きを待ち焦がれたまま、燻っている。
鎮めようとして下腹に手を伸ばしたが、馬鹿馬鹿しくなってやめた。
抱かれたい者と抱きたい者、同じ屋根の下20歩ほどの距離にいるのに
一体自分は何をしているのだ、と。

月は勢いをつけて起き上がると、照によってハンガーに掛けられた
スーツの上着から携帯を取り出しコールした。
「今からシャワーを浴びる。タオルと下着の用意を頼む。
 僕が出たら、お前も浴びろ。それから」
繋がった瞬間、照に何も言わせずにそこまで一息に喋り、深呼吸してから続ける。
「寝室で待ってる」
返事する間をあたえず通話を切る。さあ、これで自分も照も後には引けない。

リビングを通らずにバスルームに辿り着けるこの室の構造に感謝しつつ、
月はHOTとかかれたコックを捻った。
シャワーヘッドから降り注ぐ湯が体の上で飛び跳ね、肌をくすぐりながら流れ落ちていく。
ボディーソープを塗りつける手の動きですら、今の月には十分すぎる刺激になってしまう。
熱い湯をあびているはずなのに、全身が泡だったように震え出す。
突然胸苦しくなって、月は泣きそうに顔をゆがめた。

男に抱かれると思うだけで、これほどの反応を示すあさましい自分の体。
過剰に月を神聖視している照にはどう映るだろう。

浴室を出ると、タオル掛けに真新しいバスタオル、バスローブ、
買い置きと思われるパックされた新品の下着がきちんと揃えて置いてあった。
寝室に戻ると、サイドテーブルにミネラルウォーターまで用意してある。
いかにも照らしい心遣いに月の胸はちくちくと痛んだ。


キラとして神として崇拝されるのはいい。
この先も主従の関係は維持するつもりだ。
ただ、人間・夜.神月に照に抱かれる資格はあるのか。
誘い、期待させ、その気にさせるだけさせておいて、
結局失望させてしまうのではないか。

いてもたってもいられず、月は寝室を出てリビングへ向かった。
あらかじめ伝えよう。伝えたうえで照自身に判断させるべきだ。
男とのセックス経験があり、この体が隅々まで開発されていることを。
照が望むような相手ではないかもしれないことを。

リビングの照明はすでに落とされており、照の姿はない。
奥の書斎には資料が散らかったままになっている。
声を掛けて覗き込むが、いない。
照のパソコンのモニターがぼんやりと部屋を照らしている。

気を取り直してバスルームに行こうと踵を返したところで
月の目がモニターに吸い寄せられた。
タスクバーいっぱいに最小化されたウィンドウが落としこまれている。
すべてブラウザだ。
いけないとは思いつつも好奇心が勝ち、マウスポインタを合わせクリックした。

現れたページに月は目を丸くした。
次々とタスクバーのウィンドウを開いていく。
不安に強張っていた月の頬がふわっと綻び、それはすぐに微笑みに変わった。

「How to アナルセックス」
「男同士のセックス 初心者講座」
「パートナーを満足させるためには」
「最適!高粘度ローション通販」…
微笑みはくすくす笑いに変わり、肩がひくひくと揺れはじめる。
月からの電話を受けたあと、あわててパソコンを起動して
思いつくまま検索し続けたのだろう。

開いたページはどこも、相手に痛い、辛い思いをさせない方法についての
部分がスクロールされている。

前のめりの姿勢で真剣にモニターを見つめる照の姿が目に浮かぶ。
それはとても滑稽でありながら、同時に何故か胸を打つ光景に思えた。
いじらしいほど生真面目に、まっすぐに、誠実に自分と向き合ってくれる照。
声を殺して笑いながら、月は次第に全身が温かく解れていくのを感じた。

自分はそんな照るが好きだ。
照に抱かれるために資格が必要だとすれば、それで充分だろう。

月の知らない情報もそれなりにあって、つい読みふけってしまったが
照がバスルームから出てくる前には寝室に戻りたいと思い、
全てのページを元通りに最小化しておいた。

洗面所の方からかすかにドライヤーの音が聞こえる。
月は足音を忍ばせるようにして寝室へ向かった。

ノックの後、許可を得て入ってきたTシャツ・トレパン姿の照が
何かボトルのようなものを握り締めているのに気付き、
月は小さな足元灯の光を頼りに目を凝らした。
「オリーブ…オイル?」
「すみません…その、替わりになるようなものが他に何もなくて…
 あの、先ほどの…は大丈夫でしたか?」

申し訳なさそうに、恥ずかしそうに口から出てくる
主語の一切ない言い回しを耳にした月は
照が見ていたページの記述を思い出した。
―潤滑済無しで事に及ぼうとするのは愚の骨頂です。
  相手の体を傷つけるだけでなく、
  2人の関係にも修復しがたい傷を作る事になりかねません―

「大丈夫じゃなかったら呼んだりしない」
月はベッドに片肘をついて横になったまま、つとめてなんでもない風に応えたが、
あきらかにお互い意識しすぎて、微妙な距離が出来てしまっている。
自分が照を呼びつけたことと、かしこまっている照の様子から考えて
ここはリードしなければ始まらない。

月は思い切って手を差し出した。とにかくこういう間が持たない雰囲気は苦手だ。
とりあえずベッドの上に誘ってしまえば後はなんとかなるだろう。

予想に反して、その差し出された月の手に照はオリーブオイルを手渡した。
(馬鹿野郎)
しかたなく月はそれを受け取り、黙ってサイドテーブルに置いた。

気を取り直して再度手を差し伸べると、
さすがに今度は何も渡すものがないせいか素直に手を添えてくる。
(正解)
突然おかしさがこみ上げてきて、月はぷっと吹き出した。

不思議そうに見つめる照に我慢できず、月は声を上げて笑った。
笑いながら、照の手を握り締め力いっぱい引き寄せる。
ふいをつかれてつんのめり、覆いかぶさるように倒れこんできた照は
月を潰さないようあわてて両手をベッドに踏ん張った。

「照、お前面白い」
腕立て状態で静止している照に下からしがみつき、左右に体を揺すって崩しにかかる。
「あ、あ、ちょっと、待って、くださ…」
シャワーを浴びたばかりの照の体から、じんわりと温みが伝わってくる。
「なんでそんなに面白いんだ」
細身の体型ではあるがそれなりに上背のある月の全体重を掛けた攻撃に
ついに力尽きた照は、上手に体を翻し月とぴったり並ぶ体勢で着地した。
月は機を逃さずひらりとマウントポジションを取ると
そのまま前かがみになり、照の襟元に頬を寄せる。

背中に両腕が回され、優しい重さがかかり、
月はそれに応えるように力を抜いて全身を照に預けた。

手探りでバスローブの腰紐を辿り、その先端を照に握らせ、囁く。
「今度はボケなくていいからな」

紐が解かれて緩んだ胸元の打ち合わせに照の指先がかかり、
そのまま月の体のラインに沿ってバスローブが脱がされていく。
「神…」
頭に触れるのは憚られるのか、照は月の襟足のあたりにそっと片手を置いている。
照にとってはあくまでも月はキラであり、神であるらしい。

月から唇を寄せると、照は感極まったように瞼を震わせながら目を閉じる。
しかしその口は閉じられたままで、月が伸ばした舌先を
やさしく嗜めるように、しかしきっぱりと押し返した。

照の表情には戸惑ったり拒んだりというような様子は見られず、
むしろうっとりと幸福そうで、月を不安にさせるような要素は何もない。

再び唇をあわせ、肌を重ね、髪に指を通して滑らせるが
照の反応はすべて遠慮がちでどこかよそよそしく、
焦燥感に駆られた月はわずかに顔を曇らせる。

照から伝わってくるのは、神と体を結ぶ許しを得たことに対する
感謝、あるいは神への敬愛や畏敬の念といった、
月の照への思いとはかけはなれた感情のように思われた。

せっかく肌をあわせているのにかえって互いの距離を突きつけられたような気がして
いたたまれず、月は動きを止めて照を見つめた。

「お前、ここへ何しに来たんだ」
咎めるような口ぶりに、照は驚いて月を見返す。
「神…どうされましたか…何かお気に触るような」
「黙れ」
月の口調が一瞬にして変わる。続けて寄り添っていた体を遠ざけ、身を起こした。

「お前は今、神と儀式みたいなことをしているつもりなのか」
照がもの言いたげに口を開こうとするのにかまわず、一気に畳み掛ける。

「僕がお前をお情けでここに呼んだとでも思ってるのか。
  僕はお前がキラ信者だからとか、裁きの力を分け与えた者だからとか、
  そんな理由で抱かれようとしているんじゃない」

言いながら、激しい自己嫌悪が月を締め付ける。

「お前が見ている僕はお前が作り上げたお前の中の神だ」

元々は死をちらつかせた上で月が一方的に宣言した主従関係。
照には選択の余地すらなかった。
それでも、私を捨てて、いや私も何もかも丸ごと神である自分に捧げ尽くしてくれる照に、
自分は今あまりにも身勝手な要求を通そうとしている。

「だけどそれは僕じゃない」

世界中で月がキラ=神と知る唯一の人間の前で、
神のために働き生きたいと願う唯一の人間の前で、
横暴にも、自分の都合のいい時だけ夜.神月として扱えと命令しているのだ。

月はベッドに仰向けに体を投げ出し。腕で顔を覆う。
「さあ抱けよ。お前の神だ。好きにしろ」

重苦しい静寂を破ったのは照の穏やかな声だった。

「寝室で待っている、というお言葉を頂いた時、
  あんなふうに無礼を働いた私にさえ慈悲を授けてくださる神に心から感謝いたしました。
  せめて今回は、しもべとして粗相のないよう、
  神の体に出来るだけご負担をかけないようにと
  ここへ来る前に自分自身に100回言い聞かせてきました」

月は微動だにせず、顔を覆ったまま聞いている。

「私はまた、我を忘れて神を傷つけてしまうことが恐ろしかったのです」
照の穏やかな声がかすかに震えはじめる。
「自制心を持たず欲望のまま行動する人間を私は誰よりも憎んできました。
  しかし、私もそんな人間の一人だった。神を力尽くで思い通りにしようとした…
  それだけではないんです。私は…」

黙り込んでしまった照に、月はそっと腕を下ろして顔を向けた。
正座して、膝頭を握り締めた拳に力を込め、ぐっと歯を食いしばっている。
「初めてお会いした日の夜から…神の体を想って…
  毎晩…穢しているのです…罪深さに…絶望しながら…」

自分以上に照が苦しんでいる事に気づき、月は絶句した。
照は、照の中で次第に乖離していく神と月とを必死で同一視しようとしている。

照がもし、神は神月は月と簡単に割り切れるような性格だったら
好きになったりしない。

すべてをさらけ出した照に、月からも言わなければいけない事がある。
プライドが邪魔をして言えなかった言葉を今すぐ、わかりやすく伝えなければならない。

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