04/Cross Pain
ルイ作
いつものように朝を向かえ、いつもと違う服に身を包みいつもよりも早く家を出る。
今日は初めてとなる学校だ。
いや、本当は初めてでは無いかも知れないが、今の俺にとっては初めてだ。
この行動が記憶に影響するのか…不安が無いといえば嘘になる。
彼女が家に居るより外に出て刺激を受けたほうが記憶が戻りやすいのでは…と言っていた事も否定出来ないだろう。
何より理由は分からないが、ここまでする彼女の好意を無駄にはしたくはなかった。
「さて、そろそろ行こうか?」
空にした湯呑みを前に耽っていると、出発の声が聞こえてきた。
…少し緊張している。
認めたくなかったが、軽く握った手にうっすらと汗が滲んでいる。
どうやら自らを誤魔化してまで振る舞えるほど器用な人間では無いようだ。
「…そうだな。」
それでも、隠すように強く手を握り締めてから椅子から立ち上がった。
彼女…いや、今後を考えて破山と呼ぼう。
破山は湯呑みを軽くあらってから棚に入れ、部屋に戻り鞄を取りに行っている。
俺は玄関に行き、靴を履いて玄関の鍵と鎖を外す。
「ん、いいよ。」
破山が荷物を持って来たのを確認して玄関を出る。
それと同時に扉の端を持って開けておく。
「ありがと。」
靴に履きかえ、重みで少し歪んだ肩掛けの黒い鞄を持って玄関を出てくる。
扉が閉まるのを確認すると破山が鍵を掛けた。
出発を促すように一瞥すると、スカートを軽く翻しながらこちらを向いて歩きだした。
秋山高校。ここが通うことになった学校である。
外観は白く塗られた長方形の箱のようで高さは3階建て。その前には広い運動場があり、隣には屋根の青い体育館が立っている。
制服は以前着ていた学ランとは形が大きく違う。ブレザーは見栄えは良いが少し動きづらい。
その点は上着を脱げば解消されるか。
この町で見る制服といえば、これから通う所と中学校の2種類しかなく、それ以外の制服というのは嫌でも目立ってしまう。
確かに、買い物で外に出た時に時々見られていた気がする。
しばらく歩いていると、自分と同じ制服を着た人間が前を歩いているのが見えた。
まだ薄かった実感が少しずつ確かになっていく。
同じ制服を着た人物を何となく見ていると、
「なに?可愛い子でもいた?」
隣から少しからかうような声が聞こえた。
そちらを見ると、こちらも同じ制服を着た破山が俺の向いていた方を見ていた。
「前にいたのは男だ。それに興味などない。」
そう言って視線を外すと、おどけたようにこりゃ失礼。と俺に背を向ける。
「まあ、少しくらい興味は持つものだよ。異性にはね。」
その場に置いていくような、軽い調子で破山がそう言った。
その言葉を聞いて、それはお前にも当てはまるのかと聞いてみたくなったが、本人自身の意識が無さそうなので止めた。
始めから「そういうこと」を意識していないのかもしれない。
もし意識していたら、見ず知らずの男を一人暮らしをしている家に泊めることは無かっただろう。
「…………。」
自分より少し背の低い少女の背中を見ながら歩を進める。
「私の背中に何か付いてる?」
特に意識する事無く破山を見ていたため、視線に気付いたのかこちらに振り向いた。
「…いや、なにも?」
悟られぬように、何事も無かったように答える。
「そう?何か、暗い視線を感じたけど…。」
「……根の暗い奴が、お前の事を見ていたんじゃないか?」
目だけで周りを見ると学校が近いのか、同じ制服を着た人影が増えていた。
「そんな事、あるわけないでしょ?」
笑いながら手を軽く振って、否定した。
「居たとしたら、相当な変り者だね。」
決めの一言を言うと、前を向きなおす。
こちらも前を向くと目の前に、昨日見た白い長方形の建物が近づいてきた。
「…、…。」
学校との距離が縮まるたび、心臓が煩く胸を叩く。
首の後ろや背中から汗が吹き出てくる感覚がさらに不快感を煽り、緊張している事をイヤでも自覚させる。
そんなことが頭を支配していると、あと一歩で校門をくぐるところまで迫っていた。
大げさな覚悟をして、落ち着かせるように深く息をして門をくぐり、目の前に広がる運動場を横切ってまだ薄暗い校舎に入る。
靴から破山が出した来客用スリッパに履き変える。
「じゃあ、職員室にいこうか。」
彼女が靴を履きかえながらそういっていたが、実のところあまり頭に入っていなかった。
自分がどう返事をして、どうやって職員室に向かったのかどうかも覚えていない…。
「……まいったな…。」
気付いたら、そんな言葉を一人呟いていた。
記憶があった頃の自分が今の自分を見たら、何と言うだろうか…。
学校が恐いわけではない。昨日校舎に入って構造や教室を見たし、学校に行くことが決まった後、話を聞いていたから想像は出来る。
記憶が無いということが、これほど不安を煽るものだとは思わなかった。
以前破山が「記憶がなければ不安だ」と呟いていた… 記憶があってこその自分とは思わないが記憶があって今の状況が確認できる。しかし、今の俺には確認が出来ず、不出来な想像しか出来ない…。
「……っ」
そこまで考えて、弱気になっている自分に後悔した。思考の渦に足を取られ、そこから抜け出せなくなってしまった。
「っ……ハア…。」
苦しい…。
高まってくる緊張と不安に吐き気がして、真新しい白い床を歩く度に沈み込むように足を取られる錯覚さえする。
「はあ…はあっ……。」
一歩前に破山がいることを考え、悟られないように息を潜め、俯く。
「……ねえ、迷惑だった?学校に連れてきた事…。」
「っ!……ぃ、今更そんなこと聞いてどうする?」
心の中を見透かしたような質問に思わず顔を上げる。
「いや、昨日からピリピリしてたからさ、あんまり乗り気じゃないかなっと思って…。」
この状態を悟られた訳ではないことに少し安心した。
「それを言いだしたのはお前だろう、その本人がそんな事を言ってどうする。」
「確かにそうだけど、行くか行かないかの選択権はあなたにあるんだよ?ここで行かないって言ったら先生に事情を説明して帰ってもいいけど?」
どうする?と目で問い掛けてくる。
「………………。」
その言葉は救い以外の何ものでもなかった…。
ここで帰れるなら帰ってしまいたい。それが出来たらこんな思いをすることもないだろう…。
そう考えた途端、足が止まった。
それに気付いた破山も足を止め、こちらに体を向ける。
「……志貴?」
仮初めの名前を呼び、再度問い掛けてくる。
そう、俺は記憶が無い…だから、ここへ来る必要など無い…。
だから…帰っても、いいのではないか…。
そんな考えが頭をよぎる。
「…………。」
…体の重心が後ろにずれるていく。
頭の中がだんだんと白んで、目に映る景色は波打つ様に歪んでいく…。
「大丈夫?」
よほどひどい顔をしているのか、心配そうに顔を覗き見てくる。
「あ、あぁ……」
「やっぱり帰ろうか。まだ早かったのかな?」
「……。」
「うーん、まだ慣れてないだろうしね。」
「……。」
「でも、学校にいたら私だけじゃなくて、男子ともいられたからいい刺激になると思ったんだけどな。」
残念そうにそういったあと、様子を伺うようにこちらを見る。
「そしたらほんとの名前だって思い出せるかもしれない。」
俺の名前……。
その言葉を聞いた時、思いきり頭を殴られたような衝撃が走った。
「いつまでも分からない名前を使うなんてイヤじゃない?」
俺の名前は…『とおのしき』?……違う。
思い出そうとすれば名前だけでも出てくるような気がしたが、やはりそんな気がしただけで名字の頭の字も出てこなかった。
破山から発せられる言葉の一つ一つが、頭の奥に波紋を作る。
しかし、それに特別な響きなどない、ただの言葉に過ぎない。
なのに…
俺は何を…
している…。
「ま、今回は止めとこうか。もう少し経ってからでも遅くないと思うしさ。」
それでいいのか……
本当に……
「ほら、先生には私が言っとくから志貴は帰りな。」
帰れと言うように肩を軽く叩くと、俺に背を向けて歩いていく。
「………。」
俺は……………
俺はっ……
「………イヤだ。」
「えっ…」
呆気に取られたような表情を浮かべ、俺を見る。
「何もしないで帰るなんて……俺は、イヤだ。」
全てが止まった気がした。
ここが何処なのか、自分が何者なのかどうでもよくなるような、長い一瞬。
破山も同じなのか俺の顔を見たまま動こうとしない。
「…………そう、わかった。」
それを解いたのは破山の嬉しそうな表情と短い言葉だった。
至極当然のように俺の手を取り歩きだす。
それに驚く事も恥じる事も無く破山についていく。
「行こう、これから大変だよ。」
「望むところだ。」
手を引かれて白い廊下に足音を立てながら、職員室へ向かった。