『 時のナイルを越えて 』



この世界にあり得べからざる硬質な大音声が、風に舞い上がる砂塵を引き裂いて、響き渡る。
灼熱の炎が生み出した陽炎の向こうに、輪郭を不安定に滲ませながら揺らぐのは、忘れようもない、懐かしい兄の影。
「兄さん!ライアン兄さん…っ!」
出し抜けに、熱を含んだ砂の上にその身を放り出されながらも、逢いたかった面影を離すまいと、兄の名を呼びながら、キャロルは瞳で兄の姿を追い、その手に握られている、禍々しく光る小さな黒い「それ」に気づいた。
激しい衝撃と恐怖、そして絶望が、キャロルの心を闇の色に染めてゆく。
恐る恐る振り返った先には、予想に違わぬ、苦痛にうめくヒッタイトの世嗣の姿があった。
見る間に彼の肩口を濡らしてゆく、夥しい鮮血。
「姫!」
飛び交う怒号を縫って、イズミル王子が、キャロルを呼ぶ。
焼け付くような痛みに、怜悧な顔を歪めながら、強い視線をひたとキャロルへ当てる。
そこに浮かぶ光は、キャロルを得損ねた僅かな落胆と、不屈の意志と、何よりキャロル自身へ向けられた、一途な愛。
まだ幼さを否めぬキャロルのこころが、それでもそのイズミル王子の想いを、本能で感じ取った刹那。
キャロルは、王子の明るいヘイゼル色の瞳に絡めとられたような感覚を、軽い眩暈と共に覚えた。
絡みあう二人の視線の糸を断ち切るように、エジプト・ヒッタイトの兵士達が、それぞれの敬愛する貴人を守るべく取り囲み、引き離していった。
いつの間にか、ライアンとキャロルを一つの次元に結びつけた、不思議な炎は、跡形もなく消え去っていた。


イズミル王子の手から助け出され、住み慣れた王宮へ戻ったキャロルは、メンフィスはじめ、自分を心配してくれていた人間に、どうにか穏やかに接してから、少し疲れたから、と、侍女達さえも遠ざけ、ひとり自室へ引きこもった。
自分がイズミル王子に攫われかけた、今度の一件の事後の対応に追われ、恐らくメンフィスはまだ暫くは自分の元へはこれないだろう、そう冷静に考える。
細く長い溜息が、キャロルの薔薇色の唇から洩れる。
キャロルの心は、ただ、一つの考えで満たされていた。
こんな事が、あってはいけない。
いかに、敵国の王子であろうと、20世紀の凶器で、この時代の人間が傷つけられるなど、あってはいけない事なのだ。
確かに、かつて自分が原因で、この時代に戦が起こり、沢山の血が流された。
既に自分は、拭いきる事のできぬ罪を、背負っている。
けれど。
原因は、確かに自分だが、戦を起こしたのは、彼ら自身なのだ。だから、きっと歴史は歪まない。
この考えへ逃げ込む自分を、卑怯だと十分自覚しながら、それでもキャロルは、せめて、古代エジプトでメンフィスと共に生き、今後起こるかも知れぬ戦を、身を挺しても防ごうと決心をしていた。
それもまた、罪を償う一つの手段となりうる、そう自分を納得させていた。
だが、今度の一件は、言い訳の仕様がない。
この時代の人間が、弾傷など、負う筈がないのだ。
この時代の医術がいかに優れているとはいえ、弾傷を手当てする技術など、ある筈がない。傷は塞がらぬまま、化膿するかも知れない。それに、万が一あの肩に弾が残っていたとしたら。
矢傷や刀の傷とは訳が違う。一国の王子が、20世紀の悪魔の技術で、命を落とすかもしれない。
自分を助ける為、ライアンが放った銃弾は、古代史の中に歪んだ爪痕を残す。
歴史は、歪む。


キャロルの青い瞳から、透明な雫が零れた。
堰を切ったように、血の気の失せた頬を、絶望の涙が流れ落ちる。
キャロルは、声を殺して泣き続けた。
そうして、どれほどの時間がたっただろうか。
ようやく涙を止め、顔を上げたキャロルは、ある決心をしていた。
自分の所為で、歴史が歪んでしまうことなど、あってはならない。なんとしても、自分の人生、命を掛けても、それだけは避けなければ。
これは、愛してはいけない人を愛してしまった自分の罪に対する罰。償う為には、どんな事でもする。
決然とした瞳を、豊かな水を湛えるナイルへと据えた。
ナイルから吹く、涼やかな風が、濡れた頬を優しく拭う。
それは、まるで自分を誘っている様に、キャロルには思えた。
確かな足取りで、自室のバルコニーへ出る。
すぐ下には、午後の光を煌びやかに反射させている、底の見えぬ川面。
風が吹く。
キャロルをいざなう。
万感の想いを込めて、キャロルは振り返った。
「メンフィス、ごめんなさい。お別れ、です」
短い、別離の言葉。
改めて、ナイルへと向き合うと、キャロルは硬く目を閉じて、滔々とした流れへ身を躍らせた。
水柱が高く上がる。水面に打ち付けられた体が、軋むように痛む。
間もなく、水が意志を持った様に、キャロルの体を包み込んだ。
覚えのある感覚。激しい渦に揉まれ、意識と共に古代での記憶まで奪おうとする、大きなその力に抗うように、キャロルは心で強く唱え続けた。
(記憶は忘れても、自分のすべき事だけは忘れてはならない。20世紀で、あのひとを助ける術を身につける。そして、必ず古代へ、もう一度戻る…!)


行方不明だったアメリカ大富豪の末娘、キャロル=リードがナイル川で発見され、家族の元へ戻ってから、彼女はエジプト留学を打ち切って、アメリカへと急遽帰国した。恐らく、よほど恐ろしい目にあったのだろう、そう、考えるものが殆どだった。
そんな憶測をよそに、彼女は暫くゆっくりさせようと思っていた周囲の反対を押し切って、自分の進路を180度転換させた。
医学部、外科医への道へと。
何かにとり憑かれたように知識を貪る彼女を、家族は心配して、止めた。
それでも、キャロルは古代での記憶を失ったまま、理由のわからぬ何かに突き動かされ、医師への道をひたすら進んだ。
そうして、月日は、流れた。

「ミズ・リード!」
大学病院内にある木陰のベンチで寛いでいたキャロルは、研修生の呼び声に、振り向いた。
豊かに波打つ金髪を無造作に後ろで一つに束ね、白衣を纏った彼女は、飾り気などまるで無いのに、目を瞠るばかりに美しい。
少女だった頃、真昼の空の色をしていた明るい色合いの瞳は、現在はその濃さを増し、深い海の藍を湛えている。
そしてその光には、穏やかだが凛然とした意志が宿り、出自の良さを表す上品で優雅な物腰は、大学在学中に驚異的な速さで医師免許を取得した、将来を嘱望されている女性外科医という堅苦しい肩書きを、見事に裏切っていた。


「どうしたの?」
自分で呼んでおいて、キャロルの姿に見蕩れ、ぼう、となっていた研修生は、キャロルから柔かな声で問いかけられ、頬を染めながら、慌てて用件を伝えた。
「あ、あのっ、スミス教授がお呼びです。ミズが休暇を取られる前に、見せておきたい手術があるから、と」
「そう・・・。解りました、どうもありがとう」
アメリカへ帰って以来、わき目も振らずに学んできた彼女は、自分の何気ない笑顔でさえ、周囲を魅了するのに十分だという自覚が、いまひとつ薄い。
その美しい、罪な微笑を研修生の青年へむけると、流れるような仕草で立ち上がる。
キャロルは、その青年と連れ立って、スミス教授の元へ向かった。
病院中の注目の的となっている、若く美しい女性医師と二人で歩く事のできる幸運に感謝しながら、青年がうきうきと問いかける。
「ミズ・リード?この休暇でエジプトへ行かれるそうですね?」
「そうなの。よく、ご存知ね?」
「どうして、エジプトなんですか?」
「以前、考古学を志して、エジプトに留学していた事があったの。なんだかその頃が妙に懐かしくなって」
そう答えたキャロルに対して、青年はおどけて言った。
「ミズ・リードが、考古学!?そんなことにならなくて、よかった!もう少しで、我々は貴重な医師を一人、失うところだったのですね?」
その仕草の可笑しさに、キャロルが小さく吹き出す。
「大げさな人ね、新米のひよっこ医師に対して」
そう言うと、ふ、とキャロルは遠い目をして、言った。
「でも、本当に、休暇もエジプトも久し振り。今から、楽しみだわ」
風が、吹く。
遠く、エジプトの空の下、ナイルの川面が、ざわり、と、ざわめいた。


数日後、キャロルは懐かしいエジプトへと、降り立った。
ピラミッドよりも、王家の墓よりも、他のどんな遺跡よりも、無性にナイルが見たかった。あの、水を湛え、豊かに流れる深い青が。
いてもたってもいられず、何かに呼び寄せられるように、キャロルの足は、ナイルへと向かった。かつて、留学していた頃、仲間とよく行った、人気の無い川岸を、懐かしい想いと共に暫し歩いた。
「ここは、何もかも変わらないのね。まるで、時の流れがここだけゆったりとしているかの様」
吹き抜ける川風が心地よい。肌に馴染んだ風に、まるで、故郷へ帰ってきたような安らぎさえ覚える。
こうしていると、何故考古学を捨て、医師になったのか、我ながら不思議でならない。
と、感傷に浸るキャロルの視界を、ふわり、と白い影がよぎった。
驚いて、その影を目で追うと、それは小さな白い帽子だった。
少し離れたところから、少女が必死で駆けてくる。
(いたずらな風に、飛ばされたのね。ナイルの風は、強いから)
かるく微笑んで、川面近くまで飛んだところで、葦にかかって濡れるのを免れているその帽子をとってやろうと、キャロルは足を踏み出した。
ちゃぷん、と、サンダルを履いたままの足が水に入った刹那。
あっ、と思う間もなく、キャロルは強い力で、ナイルへと引き込まれた。
あまりに突然の事で、一瞬、足を滑らせたのかと、思った。
だが、慌てて体を支えようとして伸ばされた手が触れる筈の、浅瀬の川底は、そこには存在していなかった。
ごぽり、と、バランスを失った体が、水の中へ沈む。
(そんな、馬鹿な事…!?)
いきなり、ありえぬ深さに捉えられ、ありえぬ流れの速さに攫われ、うろたえるキャロルを、不思議な渦が包み込んだ。


それと同時に、封じられていた過去の記憶が、怒涛の様にキャロルへ流れ込んだ。
激しい水流に翻弄されながら、キャロルは必死で思考を纏める。
古代で起こった、「起きてはいけない悲劇」。
20世紀へもどり、医師を志した理由。
そして、間違いなく自分は呼ばれたのだ。この大河に。
ナイルの流れを通して、幾度か20世紀と古代を行き来するうちに、キャロルは気づいた事があった。
ナイルが生む、時の流れは、自分の望みを叶えてくれる。
自分が望めば、そしてそれが本当に必要な事ならば、ナイルは答えてくれる。
キャロルは願った。
どうか、自分を、決意を秘めて20世紀へ戻った、あの時へと戻してくれ、と。
その願いを受けるかのように、流れが、激しさを増した。

ようやく足が付く程度の浅瀬にたどり着いたキャロルは、痺れる体を引きずるようにして、川岸へ上がった。
あたりを見回すと、風化など微塵も感じさせぬ荘厳な神殿と、豊かな葦の茂み。
これは、20世紀の風景ではない。
どうやら自分は無事にたどり着いたのだ。懐かしい、古代へ。
短く溜息を吐くと、キャロルはひとりごちた。
「正直、体に優しい時間旅行とは、言えないわね…」
周囲の風景からして、やはりここは下エジプトだ、と判断する。今はバビロニアへ嫁した、女王アイシスが治めていた地。
慎重に行動しなければ、と、気を引き締めた時、興奮した、覚えのある声が掛けられた。
「ナイルの姫!?」
慌てて振り返ると、そこには懐かしいルカの姿があった。
だが、ルカは驚きと失望をその表情に浮かべ、こう言った。
「し、失礼を…。私が探しております、あるお方とあまりにも似ていらしたので」


「ルカ?」
思わず、キャロルは自分の従者であった若者の名を呼んだ。
ルカの明るい瞳が驚愕に見開かれる。
「何故、私の名を!?それに、貴方はあまりにも、ナイルの姫に似過ぎている。貴方は一体、誰なのです?」
僅かな警戒と共にそうルカに問われ、キャロルはようやく思い当たった。
望んだとどおりの「時」へ、ナイルは自分を運んでくれたのだ、と。
ルカの姿は別れた時と変わらない。それに比べ、10代だった自分は、もう二十歳を過ぎ、年齢と共に顔立ちも、瞳の色も、変わっている。時の流れが大きく、キャロルとルカを隔てていたのだ。
咄嗟に、キャロルは自分を偽る事を選んだ。なすべき事をなしたら、また現代へ戻るつもりでいたから。
もう、ほんの少しでも、古代に介入して歴史を歪めてはいけない。
「貴方はルカ、でしょう?あなたの事は、妹から聞きました。私はダイアナ。キャロルの姉です」
親友の名を借りて、名乗る。自分を自分の姉だと偽る、その滑稽さに内心苦笑しながら。
咳き込むようにして、ルカがキャロルへ問いかけた。
「姫の、姉君様!それでは、ナイルの姫はご無事なのですね!?それで、姫は今何処に!?」
自分を心配してくれていた事を嬉しく思いながら、キャロルは、以前ナイルの姫、と呼ばれていた頃の口調を敢えて変えて訊いた。
「その前に教えてください、ルカ。私が、いえ、妹が行方不明になってから、どれ位たっていますか?」
「2日、になりますが?」
何故、そんな事を訊くのだろう、と戸惑いながらも返された答えに、キャロルはほっと息を吐いた。
(よかった、あれからそんなにたっていないのね。でも、ヒッタイトへの道のりを考えると、急がなければ…)
「そう。旅慣れている貴方に、お願いがあるのだけれど」
敬愛する姫とよく似た面差しで、そう頼まれ、ルカは頭を垂れた。
「なんなりと、姉君様」
「私と一緒に、ヒッタイトへ…」
言いかけたキャロルを遮るように、必死の声が掛けられた。
「キャロルさまっ!?」


兵士を従え、自分の方へ急いでくるウナスを認め、キャロルは寂しさを隠せなかった。
案の定、彼もルカと同様、自分の姿を見て、喜びの顔を、失望と戸惑いに変えてしまったから。
「貴方は!?」
ルカと同じ事を問うたウナスに、キャロルに代わってルカが答えた。
「こちらのお方は、ナイルの姫の姉君様だ」
忽ち、ウナスと兵士達が、その場へ膝をつく。
興奮に高潮した顔をキャロルへ向け、ウナスが口早に言い募った。
「姉君様は、キャロル様の行方をご存知でありませんか!?あ、いえ、ともかく、王宮へお越しください。キャロル様を探して、メンフィス様がこの下エジプトにおいでです!」
「メ…、ファラオが?」
途端に、キャロルの鼓動が跳ね上がる。
「はい、そうです!ですから一刻も早く、メンフィス様にお会いいただき、キャロル様の行方を!」
「わかりました。ファラオに逢いましょう」
逸る心を押さえ、キャロルは静かに答えると、ウナスの案内で王宮へと向かった。
メンフィス。
大好きな、メンフィス。その気持ちは少しも変わらない。
その名を聞くだけで、鼓動が高鳴る。
自分が何の為にこの古代へ戻ったかも忘れ、キャロルは、一刻も早くメンフィスに逢いたい、それだけを考え、道を急いだ。

10
濡れた服をエジプトの衣装に着替え、キャロルは胸をときめかせて、久し振りに再会するメンフィスの前に立った。
だが。
「義姉上、よう参られた。して、キャロルは無事であろうか?今、何処にいる?母なるナイルの女神の元か!?なぜ、私の元へ帰ってこぬ!」
挨拶もそこそこに、自分のほうへ身を乗り出して、矢継ぎ早に訊いて来るメンフィスに、キャロルは目の前が真っ暗になるような絶望を覚えた。
他の誰が判らなくてもいい。
年齢を経て姿が変わろうと、瞳の色が違おうと、メンフィスは、メンフィスだけは自分の事を、判ってくれるのではないか。
自分の妻のキャロルだと、気づいてくれるのではないだろうか。
そんな淡い期待を、キャロルは抱いていた。
そして、それは、メンフィス自身によって無残に打ち砕かれたのだ。
メンフィス、わたし、キャロルよ?
あなたもなの?あなたも、私が、解らないの?
あんなに、私の事を愛してくれた、あなただったのに!
そう叫びだしそうになるのを、キャロルはぐっと堪えた。
俯き、唇をかみ締めて、零れ落ちそうな涙を呑み込む。
そう、思っていてくれたほうが、都合がいいではないか。
もう2度と、自分は古代には関わってはならない。兄の銃弾にイズミル王子が倒れた時から、キャロルはそれを痛感していた。
だから、たとえ、メンフィスが気づいてくれたとしても、自分がここへとどまる訳には行かないのだ。気づかれないていた方が、きっと、辛くない。
キャロルは自分にそう言い聞かせた。
ややあって、顔を上げたキャロルの表情は、もとの理性溢れる、穏やかな表情を浮かべていた。
「お心静かに、お聞きください。妹は、キャロルは、貴方の元へは2度と、戻りません。私は妹に請われ、その事を告げに、そして妹のやり残した事をやりに、参ったのです」

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