『 眠りの森 』



覇者としての夢は果てなく、その先にある栄華を王子としての私は渇望している。
我が民には繁栄を、我が神イシュタルには永久の光を。
しかし、この身には・・・

夢の中で私はひたすらに駆ける。
森の中の道なき道。倒れた巨木を越え、橋なき川を渾身の力で渡る。
森の木々の隙間にはメディタレイニアンの紺碧を映した空が目に沁み、風を切るように羽ばたく大鷲の姿が我が憧れを誘う。
そしてまた何かに追われるごとく駆ける、駆ける、駆ける。
何処へを目指すのでもなく・・・

「おお、王子!お気づきそばしたか!」
「しっかりなさってくださいませ!」
「ご気分は?」「王子が目を覚まされたぞーっ」

その声はルカか。共にムーラもいるのか・・・
すまぬ。
いましばし私に休息をくれぬか。
心の痛みも悲しみも、己のすべてを眠りの中で解き放ちたいのだ。
この私が弱気なことをというか?
おお、そうだ。私はこの世の覇者としての夢を追い求め、猛き剣と言葉の剣を用いて一歩一歩道を進んできた。
英邁なる王子よと称えられ、その姿にふさわしくあるべく私は進み続けてきたのだ。
しかし、この身にからまった重い鎖。
目に見えぬ鎖に気付く者が一体どこにいよう。
我が神、イシュタルよ。あの姫、一人をのぞいて・・・



「王子!いけませぬ、目を開けてくださいませ!」
そのように悲しげな声で言うな。
眠りこそ今の私には必要な薬。甘美な薬とも、毒薬とも知れぬがな・・・たとえ毒であっても良いではないか。
いずれ朽ちていくこの身、毒も鎖もふさわしい。

ああ、また夢へ堕ちる。
腕も足も沼の底へからめとられるように夢へと沈んでいく。
やがて我が体も嵌りこんでいく。
すべてが堕ちる前の一瞬、いつも瞼に映る閃光は何であろう。
黄金に燃え立つ炎のような輝き。巨大なうねりのようにねじれ、様々に形を変えて瞳を焦がす。
いつか、この炎に焼かれてみたいものだ。
ふふっ、我ながら戯けたことを考えるものだな。
しかし良いではないか。 時には我が身を二つに分かつ心と向き合ってみるのも。
今まで眠らせていたこの片割れの心こそ私の真の姿やもしれぬのだから。

今度はあの空だ。
遮るものもなく、おお、なんと気持ちが晴れ晴れとすることか。
我が意のままに動く翼・・・ここでは、鎖を感じぬな。
羽ばたく我が身を青が包む。やわらかな、慈しみさえ感じさせる青。
ふと、懐かしくなるのはなにゆえなのか。
青い光に包まれて、やはり何処を目指すでもなく翔び続ける。
幼き者のように、私は鳥になりたいとふと思うことがあった。
ルカへと文を運ぶ小さき鳩を羨望の目で見送っていた私がいた。
なにゆえ羨ましいか?そんな問いが浮かんでこようとも、自身が答えを探すわけがあろうか。
答えてはならぬ問い、知ってはならぬ考えだったからだ。
王子であるには盲目でなければならぬこともあるから。
だが、今、私は眠りの中で目を開こう。
自由・・・縛られた翼を思いのたけひろげてて羽ばたく自由。
そうすれば見えてくるだろう?私が目指す何処か。
栄華でも繁栄でもなく、たった一つの微笑みの安らぎの地が。



私は戦を恐れぬ。
だが、そこが安住の地でありえるようか。
兵士達はよく言っていたものだ。「戦の中の王子は鬼神のように見えます」と。
剣をふりかざし、昂ぶる馬を操って他国の者達の息の根を止めてゆく姿はいつも怜悧で表情一つ変えない。
その落ち着きがかえって鬼神を想わせるのだと。
ふふっ、王子としては喜んでも良いのだろうな。
我が身にある闇の心・・・それは戦を欲している。
敵兵を倒すたびに刻一刻と征服へと近づいている高揚。
周りをとりかこむ兵の動きを一瞬で察知し、次の動きを読みきる快感。
そして打ち下ろす剣、手に腕に伝わる命の消えていく感覚。
どこかで楽しむ私がいるのだ。
いつも闇に満たされていた我が心。それが闇だとさえ気付かなかった。
あの言葉を聞くまでは。



「だめーっ。殺してはいけない!人の命は尊いのよ!」
「尊い?」
「そうよ、命はみんなみんな尊いの。兵士だって奴隷だって神様から与えられたたった一つの命なの。」
「おもしろいことを言う。ではこの男を殺さねばそなたが逆に殺されるとしたら如何にする?それでも同じことを申すというのか?」
青い瞳にすぐさま強い光に満ちる。
「私が誰かの命を奪うくらいなら・・・誰かが死ぬぐらいなら、自分が死んだほうがましだわ。その人を殺すことも私を殺すことも同じなのよ!」
私の目をしっかりと見返してそう言い切った・・・気高き姫よ。
頼りなげな体の何処にそのような強さを秘めているのか。
あの言葉が今も私の耳から離れぬ・・・そなたの言うことは正しいのだ。
見知らぬ男とそなたの命の秤を目の前に突きつけられ、私はそれを知った。

知ってしまった、というべきかもしれぬ。
闇の心もて敵に振り下ろしていた剣は、同時に我が身も降りかかる。
一つの命を奪うたびに、そなたの言葉が胸に響く。
この兵士の明日。この兵士の夢。この兵士の愛する女・・・
私に剣を捨てよと申すのか?姫よ。
そなたの言葉もまた剣なのだ。



剣は捨てられぬ。
それは出来ぬ・・・出来ぬのだ。
奪わなければ奪われる。そうして生きてきた。
父王は常に領土の拡大を画策し戦を仕掛ける。
自ら戦場に出陣し、殺戮と略奪の限りを尽くすことが無常の喜びであり誇りなのだ。
幼き頃の私は何かが違うと感じていた。
城には母上やミタムンがいて、いつも父上の無事を願っている。
母上は父上が城にいる時には美々しく着飾り、贅を尽くした食物を用意させて父上が心地良く過ごせるよう心を配っている。
寂しがりやでいつも私の後ろにくっついているミタムンも、この時ばかりは父上のそばから離れようとしない。
なのに、なぜここを離れて戦を繰り返すのだろう。
出陣の後の母上の涙と祈りを知らないの?
父上を想う家族と一緒にいて、この国の内政に力を入れることも大切なのに。
ならば私はそのための力を身につけよう。
無駄な殺生はこれ以上必要ないのだもの・・・

そして事件が起こった。
次代のヒッタイトを担う王子の位、私の命を奪おうとした叔母と従兄弟。
奪わなければ奪われる。
暗く冷たい水の中で、恐怖と引き換えに得た真実。
この身を守るには剣をとらねばならないのだ。
私が剣をとらなければ、私を倒した者が血塗られた手で王位を得るだろう。
そのような者に我がヒッタイトを渡すわけにはいかない。
父上、私も戦います。



やがて父の命を受けて各国への旅がはじまる。
道中には私から仕掛けなくともいくらでも争いはある。
倒しても倒しても切りかかる敵。いかに私の命を狙う者が多いことか。
幼き頃の理想を封じ、心閉ざして戦い続ける・・・
いや、正直に告白しよう。
封じ込めた思いは、いつしか闇に消えていたのだ。
私の中にも流れていた父王の血。
傷ついた魂は王国の名のもとに征服を肯定し、戦の殺生に身震いのする快楽さえ感じていた。

そして確かな手応えで私へ突き刺さった姫の言葉。
幼き私からいかに遠くへ来てしまったことか。
姫のような瑕なき瞳を、私も持っていたはずなのに。
おお、痛む。魂が痛んでならぬ。
剣を持ち続ける私は、あの日以来そなたの声に責め続けられている。
だがそれで良いのだ。
痛みを感じるたび、責め続けられるたびに私は姫に繋がっていられる。
正しき王者への道を探していける。
もっともっと私を責めよ。導いてくれ、姫よ。
この闇より抜け出す道標こそ、そなたの瑕なき魂。
今はこの手を離れぬ剣を、その白い手で鞘におさめてくれ。
父上の誇りが戦ならば、私の誇りはそなたへの愛だ。



―その頃、エジプト、テーベの都の王宮

「おお、ゼネク来たか。早くキャロルを見てくれ!」
苛立ったメンフィスの言葉に侍医ゼネクは慌ててキャロルの診察にとりかかる。
寝台に横たわったキャロルの透きとおるような白い肌には仄かな薔薇色を浮かび、渦巻く黄金の髪に縁どられて見とれるほどに美しい。
脈をとっても正常、熱もなく、穏やかな呼吸を繰り返して眠っているようにしか見えない。
「ファラオ、ナイルの姫様はまったく眠っておられるようにしか見えませぬが・・・」
「そうなのだ。だがいくら私が名を呼んでも目覚めぬ。これはどうしたことか」
メンフィスは心配気にキャロルの顔を覗きこみながら、目覚めぬものかとその髪を撫でる。
「ゼネクどの、申し上げまする。」
やはり不安でたまらない顔で控えていたナフテラが続ける。
「昨日メンフィス様は銅山に査察へお出かけであられましたゆえ、キャロル様は私が寝支度を整えてさしあげた後すぐにお休みになられたのでございます。そして今朝、メンフィス様が戻られますゆえお支度にまいったのですが、何度声をおかけしてもいっこうに目覚められず・・・」
すでに時は真夜中。ナイルの水音のみが静かに夜を満たしている。
「ではナイルの姫様は丸一日以上もひたすらに眠られていると?」
突然、メンフィスは寝台の横に飾られていた美しい彩色の壺を床に投げつけた。
その大きな音にゼネクとナフテラは驚いて息を飲む。
「い、いかがなされました、ファラオ」
ますますメンフィスは苛立ち、黒い瞳に怒りを込めてゼネクを睨みつけた。
「見よ、ゼネク!これだけの音を耳元でたてても目覚めぬ。おかしいとは思わぬのかっ。」
見ればキャロルは変わらず静かな呼吸を繰り返し、穏やかに眠り続けている。
「ええい、目覚めよキャロル!私が戻ったのに何故起きぬ!」
細いキャロルの肩をがくがくと揺すぶり続ける。
「そのような手荒なことをなされては・・・」
「うるさい!キャロル、キャロル!目覚めよーっ、」
メンフィスの叫びにも力強い手にも目覚めず、昏々とキャロルは眠り続ける・・・



ここはどこ?
なんて美しい空が見えるのかしら。
これはエジプトの空ではないわ。
エジプトでは灼熱の太陽に空が白んで見えるほどだもの。
この空は深い深い青。なんだか吸い込まれてしまいそう。
それに、どうしてこんなに清々しい気持ちなのかしら。
いつもエジプトから離れると不安で仕方なかったのに・・・

―姫よ
えっ、誰?誰なの?
どこで私を呼んでいるの?
―姫よ・・・
あなたの声、聞いたことがあるわ・・・
誰だったかしら。
静かだけど、でも何かの思いを隠しているような深い声色・・・
感情を抑えていて、それがかえって声の中に溢れていて・・・
―姫よ・・・
どうして私を呼ぶの?
なぜそんな切ない声で呼ぶの?
そんな声色を聞くと胸が痛くなってしまう。
―姫よ、そなたに会いたい・・・
私もよ、私もあなたに会いたい。会ってみたい。
でも、ここには私一人だわ。
見えるのは空と森だけ。
どうすればいいの・・・?



ああ、また私を呼んでるわ。一体どこで呼んでいるのかしら。
行かなければ、どうしても会わなくてはいけない気がするもの。
仕方がないわね、自分で探しましょ。

きゃあ!体が、体が浮くわ!私、飛んでるの?
まあっ、うふふ。気持ちいいわね。これなら何処にでも自由に行けるわ。
―ここでは、鎖を感じぬな
あなたなの?私、今あなたを探してるのよ。
ええ、そうね・・・、いままで知らなかったわ。
私も鎖につながれていたみたい。だって今はこんなに心も体も軽いもの。
王宮での暮らしは慣れないことばかりで、誰もが私を神の娘と崇めている。
メンフィスだってそうよ。いくら話しても私がナイルの女神の娘と信じて、もう説明さえ聞いてくれなくなってしまった。
せめてメンフィスだけにはわかってもらいたいのに・・・
20世紀に生まれて、ずっと古代エジプトを愛してきたわ。
その全てを、古代の人々の暮らしや小さな息吹を知りたいと思って一生懸命学んできた。
だけど・・・学ぶことと生きていくことは・・・違うわ。
私がエジプトに生きているのはメンフィスへの愛があるからこそ。
でも・・・メンフィス・・・メンフィス・・・
―目に見えぬ鎖に気付く者が一体どこにいよう
・・・いつか、そんな話をしたことがあった気がするわ。
「だって、…は鎖に繋がれているように見えるもの」
ほんの少し目を見開いて、驚いたような表情を見せた人・・・
「そなたには見えるというか」
「…はいつも冷静で静かに見えるけど、なんだか苦しそうに見えるわ」
「ふふっ、それはそなたへの恋心ゆえであろう」
「な、何を言うのよっ」
そこで話は終ってしまったけれど、私にはあなたがとても辛そうに見えたの。
メンフィスにはない、きっとメンフィスは気付かない心の痛み。
それがあなたを鎖で縛っているよう感じられていたのだわ。
ああ、あなたは誰だったかしら・・・

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