『 涙の日 』



「メンフィス、だと?この大エジプト帝国のファラオである私の名を、侍女のお前に呼び捨てする自由など許さぬ!メンフィス様、だ。よいなっ!」
キャロルは驚きと、もっと深い失望にふらふらと跪く。
「メ、メンフィス様・・・」
「もうよい、下がれ!ミヌーエはおらぬかーっ」
艶やかな黒髪をひるがえして足早に去るメンフィスの姿が、キャロルの涙で溢れた瞳の中で輪郭がぼやけていく・・・
 ―メンフィス・・・様・・・あなたと私の距離はどんどん開いていってしまう・・・
  金色の髪と青い目が珍しいからと私を侍女にしてくれた時、不安で恐ろしくて泣く私に「一生私のそばに侍れ」って言ってくれたじゃない。私、どんなに嬉しかったか・・・
  ああ、メンフィス、あなたを愛しているの・・・愛しているわ。侍女ではなく、一人の女性としてあなたのそばにいたい・・・
胸が軋むような痛みに、大声で泣くことも出来ない。
顔を覆った手のひらに涙がつたわり、その感触にキャロルはあの日を思い出していた。



「ふうっ・・・冷たくて気持ちいいわ」
ようやく一人になった気の緩みに思わずひとりごちる。
ゴセン村のそばに流れる大いなるナイル。
丈高い葦やパピルスが生い茂るその河岸の目立たない一角で、他の奴隷や監督官達の目をごまかすために塗っていた泥をキャロルはナイルに浸って洗い流していた。
(これからどうしたらいいの・・・現代に帰るすべなんてわからない。
かと言って、ここにいたって誰も私を必要としないわ。このまま奴隷として一生を終えるの?
私、一人でなんて生きていけない。そんなに強くない・・・)
「そんなのイヤよ!ライアン兄さん、ママーっ、帰りたい!」
思わず大声で叫んでしまったキャロルの声を聞きつけた兵士は、噂を聞いてこの辺りまで捜索に来ていたメンフィスの元へ全力で駆けた。
「メンフィスさまーっ!噂の娘がおりました!どうぞこちらへっ。」
「おう、いたか!よし、案内いたせ!」
見事な駿馬を巧みに御し、兵士を抜かんばかりの勢いで「獲物」の元へ向かうメンフィスは
(ふふん、金色の髪に青い目だと?そのような人間など想像がつかぬわ。
どのように奇怪な姿をしておるのか、各国の客人に晒すのも一興。なんとしても捕らえねば)
こんな意地の悪い思いに捕らわれながら馬を駆っていた。
「ファラオ、あの茂み辺りでございます!」
兵士がわずかに先に見える、こんもりと葦が茂った所を指差した。
「よし、ここから先は私ひとりで行く」
「えっ、ですがファラオ、素性のわからぬ娘ゆえ・・・」
「かまわぬわ、ここで待っておれ!」
身のこなしも鮮やかに馬から飛び降り、メンフィスは茂みへと歩いていった。

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