『 ヒッタイトの夕暮れ 』

「ですから、ちゃんと聞いているのですか?イズミルよ。」
「母上の教え、深く胸に。しかし、私は、」
「ほらほら、それがいけないのです。」

ここはヒッタイト宮殿、王妃の間。ヒッタイト王妃の話は延々と続く。
国王の女癖の悪さに、どれほど自分が泣かされてきたか。
その最初のきっかけは、王子を身籠っている最中であったこと。
ナイルの姫一途に思い続けた長年の願いが叶って妃とし、目出度くも初めての御子を身籠った今が肝心な時。
これまでの経緯もあって、そのようなことを口に出来ない王子の妃に代わって、言い聞かせておるのに。

(しかし、私は父上とは違います。)
そう続けようとしたイズミルの言葉は行き場を失った。

「国王がそなたに何か言うかもしれませんが、今度ばかりは私も黙っていられませんよ。
生まれてくる御子の母を苦しめる国王には、一切御子を触らせません、私がそう申していると伝えても結構です。」

「わかりました、、、して、その品々は?」
「そうそう、今日はそのためにそなたを呼んだのです。端から説明しましょうか。これは御子のための寝台と寝具。どうです?見事な出来栄えでしょう。」
王妃の部屋の一角には、生まれてくる御子のための身の回りの道具が山のように積まれていた。
「これは確かに・・・しかし、出産はまだ三月ほど先だと侍医が申して・・・」
「やはりそなたは何もわかっていない!」
王妃はまたもやイズミルの言葉を遮る。
いいですか?妃の里はエジプト、今は敵対国ですよ。初子で心細い思いもしているでしょうに、それをわかってやるのがそなたの役目です!それなのに・・・ああ、やはり妃の気持ちをわかってやれるのは私しか・・・ん?何用です?」


入り口には王妃の剣幕に恐れをなして、声を掛けそびれた侍女が首を竦めながら立っていた。
「あ、あの、国王様がイズミル王子様をお呼びでございます。」
「わかった。すぐに行く。では母上、失礼いたします。」
イズミルは永遠に続くかと思われた王妃の繰言から解放された。(しかし、何か嫌な予感がする・・・)

「おお!イズミルよ!待っておった。まさか王妃のところに居たとはな。」
「お待たせいたしました。して、私に何か?」
「うむ、まぁそこに座れ。うん、その、あれじゃ。ナイルの姫が身籠ってから、そなたもいろいろと大変だと思ってな。」

国王の部屋にやってきたイズミルの予感は的中した。(またあの話か・・・)

「先ほど、母上からまるで同じ事柄について、まったく逆のお小言を。そうそう、あくまでも妾を勧めるのであれば、生まれてくる御子には一切触れさせぬと、母上は申しておりましたが。」
「なにぃ?それは困る。」
「いずれにせよ、私は妃以外の女人を侍らせるなど、考えたこともございません。」
「あれものぉ・・・そなたが腹の中に居る時から”もしも王子であったら決して将来女人を泣かせたりはしてくれるな”などと呪文のように唱えながら腹をさすっていたのだ。それゆえ、そなたがそのように堅物になってしまったのだろうなあ・・・」

「お話はそれだけでございますか?」
「あ、いやいや、ちょっと見てもらいたいものがあってな。おい!例のものをここへ!」
運び込まれたものは、数々の子供用の玩具、たとえば小さな物は精巧に作られた木製の兵隊であったり、大きな物は幼児が乗れるほどの木馬であったり。
「父上・・・これは。」
その数の多さにイズミル王子も唖然とする。
「そなたの幼少の時には、政務に忙殺され十分なことをしてやれなかったことが、今も悔やまれてのう。男御子であれば、自ら馬術や剣の手ほどきをしようと今から楽しみにしておるのだ。」


「しかし、生まれてくるまでは男か女かは神のみぞ知ること。私は妃と御子が無事であればどちらでもかまいません。」
「それは当然のことよ!姫であれば、ほれ、このように準備しておるぞ。」
その言葉と同時に運ばれてきたのは、木製のお人形に、屋敷や家具を模った小さな木製のおままごと道具。
「姫であれば、そなたの妃、ナイルの姫に似て美しくなるであろう・・・だが、今から申しておくぞ。ワシの目の黒いうちはどこにも嫁がせてはならん!そなたが、ナイルの姫をかっさらって来たように他国の者などが狙うかもしれんが、求婚者などこのワシが切って捨ててくれるわ!」
国王は、まだ性別もわからぬ胎児の父親その人が、まるで将来の求婚者であるかのように、憤怒の表情を浮かべている。

「ち、父上、落ち着いてください。まだ生まれてもいないというのに・・・」
「何を申すか!ナイルの姫の祖国エジプトは敵対国、もはやあっても無いと同じ祖国の両親に代わって、様々なる品を用意するのがワシの役目でないか!ナイルの姫は泣きながら感謝してくれたというのに、そなたはこの親心がわからぬのかー!」

「妃が喜べば、それが我が喜び、父上母上のお心遣いに深く感謝いたします・・・」
イズミル王子はやっとのことで国王の部屋から逃げ出した。

エジプトからナイルの姫を連れて来た当初、王妃は相思相愛でない王子を不幸な・・・と嘆き、国王はどうにか自分の妾にできないかと虎視眈々と狙っていた。
それから考えれば、自分の妃として重々しく扱ってくれるのはありがたい変化。
しかし・・・

「何事にも限度というものがある。父上、母上にとっては初めての孫かもしれないが、私にとっても初めての子。そのようにすべて先回りされては、私の面目丸つぶれではないか・・・」

ぶつぶつと呟きながらイズミル王子が愛する妃の部屋に入ろうとすると、中からムーラの声が聞こえてきた。


「ええ、それはもういろいろな縁故を辿って乳母候補が毎日やって来ますけど。ご安心くださいませ。お妃様のお気に染まぬような乳母をこのムーラが許すものですか。系譜も確かで、見栄えの良い、しかも賢く、かといって出過ぎず控えめで、身体の丈夫な乳母、そういった者でなければなりません。」
「でも、私は出来れば自分のお乳で育てて、私の行届かないところをムーラに助けてもらえたら、と思っているの・・・ムーラ。」
「何を申されますか!お妃様の産後のご回復が遅れるようなことがあっては大変です。いえ、私が今少し若ければ、もちろん御子様の乳母としてお仕えさせていただくよう真っ先にお願いするのですが・・・」
「それでいいんじゃないかしら?もしもお乳の出が悪かったら・・・その時また考えましょ。」
「お妃様、ではこのムーラに御子様の乳母を・・・?」
「イズミル王子を育てたあなた以外に乳母の適任者はいないでしょう?お願い・・・ムーラ。」
「おお!ありがたき幸せ。このムーラ、我が命にかえましても御子様を立派にお育て申し上げますっ!ああ、こうしてはおれませんわ。とにかく乳の出だけは良さそうな系譜の者などを選んでおきませんと。・・・おや、イズミル王子様!お戻りとは知らずに失礼申し上げました。急ぎますので御前失礼いたします。」


ムーラはばたばたと部屋をでていった。
「王子!お帰りなさいませ。聞いていたでしょう?昨日話していた乳母のこと、ムーラにお願いしたわ。」
「私から言うより姫から頼んだ方が、ムーラも喜ぶであろうからな。しかし、本当に良いのか?自分の乳で育てるなど。」
「だって・・・母親ですもの。なんでも人任せにはしたくないの。」
「元はといえばムーラが乳母選びに難癖をつけていたことが始まり。やはりあれも父上や母上と同じ気持ちなのであろうか・・・」
「なんのこと?」
「いや、独り言だ。そんなことより、ここに戻る前にまた父上、母上より生まれてくる御子への贈り物をいただいた。そろそろこの宮殿に収まりきらなくなるぞ。」
「え?また?先ほど、お二人ともご一緒にこちらに足を運ばれたばかりなのに?」
「ここに?父上、母上が共に?」

「ええ、新しく整えてくださった産屋の調度品が揃ったので一緒に拝見しましょうと。国王様はその時に、良い馬の産地に御子のための馬をご注文なさったとおっしゃっていたわ。また、王妃様はこれからもっとお腹が大きくなるからと、ゆったりした衣装をたくさん下さって・・・王子、こんなに大切にしてもらって、私も御子も本当に幸せだわ。」

(一番大切にしているのは、姫の夫であり御子の父親である自分だ・・・)
イズミル王子は声を大にして言いたかった。
(それにしても、父上、母上ご一緒でありながら、何ゆえ先ほどのように険悪な雰囲気に?)
「その時の父上、母上のご様子は?」


「あのね・・・それが。どちらが先に御子をお抱きするか、で口論なさったの。国王様はご自分が一番だと。でも王妃様が・・・」
言い辛そうな妃に、早く申せ、と促す。
「イズミル王子が生まれた時に、他の女人のところに、その・・・そのような国王様では御子誕生に間に合わず、かといって他の者が抱いてやる訳にもいかず、御子が可哀相ではありませんか、と。」

(20年以上前の夫婦喧嘩の続きに私は振り回されていたのか・・・だいたい、御子の父である私が一番に抱くべきではないか?)
イズミルはぶつぶつと口の中で繰り返した。

「どうしたの?王子・・・」
気が付くと碧い瞳が自分をじっと見つめている。
お腹を気遣いながらそっと妃を抱きしめながらイズミルは言った。
「そなたと御子を一番大切にしているのは・・・誰だ?」
「なぜそんなことを聞くの?もちろんあなたよ・・・王子。」
「で、生まれてくる子を一番先に抱くのは・・・」
「もちろん、あなたよ・・・王子。」
その言葉で日課のように繰り返される一日の疲れが癒されるイズミル。

窓の外の茂みの影にいるルカは・・・
「ああ、イズミル王子とナイルの姫の御子様がお生まれになったら、今度こそ堂々と胸張って護衛の兵のお役を頂きたい・・・。イズミル王子の命を受けて、誰にも遠慮することなくナイルの姫と御子様だけをお守りすることこそ、我が喜び・・・」

本編では考えられないような平和なヒッタイトの夕暮れ。
−おしまい−

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