『 王太后の追憶 』 傷の熱に浮かされてミノアの王太后の精神は灰色の記憶の森を浮遊する・・・。 あれはミケーネの艦隊がミノアの岸辺を乱したとき。予想外に強敵のミケーネ軍。 若い王女にして最高の巫女であった彼女は神の洞窟に籠もって祈りを捧げた。 神よ、ミノアを守るミノタウロスよ。どうか御身の守られるミノアを救いたまえ。 我が願いなさしめよ。どうかどうかどうか・・・。 狂おしいほどの時間。不意に闇が揺れ、恐ろしい影が現れた。 牡牛の頭、真っ赤に燃える目、荒い息づかい、恐るべき巨躯・・・闇よりもなお濃い肌の色をした異形のモノ・・・。 ─我を呼びしはそなたか・・・。 彼女の頭の中に大きな声が響く。牛の角を備えた異形の巨人の半獣神・・・ミノアのミノタウロス・・・! 「お・・・!御身は・・・?!そうです。私がお呼びしました。今!ミノアは未曾有の国難の時。どうかミノアをお救いください。ミケーネ人どもを蹴散らしてくださいませ!」 ─我が国土を汚すものがあるのか・・・。 ミノタウロスは呟いた。 ─不埒な者どもに死を与えん。だが巫女よ。我は老いたる者。おそらく我が命はそなたの願いを叶えることで消え失せよう。 「何と!偉大なる獣よ。ミノタウロスよ!御身は我が国を末永く守る神なのでは? 御身が滅べば我が国はどうなります?」 ─ふふふ。巫女よ。老いたるは我が魂の器たる肉体。この世での新しい器が我には必要だ・・・。 ─取引をしようではないか。巫女よ。私はそなたの願いを容れよう。だがそなたも私の願いを叶えてくれい・・・。 「分かりました。私も王家に生まれた王女。何に変えても御身の願いを叶えましょう・・・!」 ─よく申した!では・・・新しい器を、我の魂の宿る新しき器を我に・・・。 「おお・・・!神よ、ミノアの異形の護り手よ。その願いはかなえられましょう・・・!」 牡牛の神は闇に溶け、彼女は夢の中を歩くような心地で王宮に戻った。ミノタウロスの言葉は不吉に反響したがその真の意味は分からず。 そして。あの獣は約束を違わなかった。不思議な嵐が起こり、敵の艦隊は海の藻屑と消えた。 勝利を感謝する祭が盛大に行われ、今回の勝利を導いた将軍にミノアの世継ぎにして最高の巫女たる王女が与えられた。 将軍は王女を熱愛した。だが、王女は素直に幸せにひたれない。 (ミノタウロス・・・。新しき器を私に求めた。それは・・・私の体に宿る・・・ということか?いつの日か私はあの醜い異形の姿に変わる・・・?) 新婚の喜びが不吉に陰る。しかし王女の予感は杞憂に終わり、いつしか彼女もミノタウロスを忘れかけ・・・。 やがて王女は月満ちて初子を産み落とした。 そしてミノアの王女はミノタウロスの言葉の意味を知った。 それは異形の子。母親の命を奪わんばかりに巨大な体。青黒く染まった体。爛々と燃える瞳。そして・・・額の両側に生えた角・・・。 (器!ミノタウロスの魂は我が子に宿ったのだ!) 取り乱す人々に王女は命じた。 「騒ぐでない!この子は・・・この世では生きられぬ異形の神の尊い生まれ変わりぞ。我が君にお知らせする必要はない。クーレースを呼びや。火の島の大神官を・・・」 初子は産声を上げることなく逝った・・・と公表された。王女がアトラス、と名付けた異形の子はミノアの守り神、尊いミノタウロスとして火の島で育てられることになった・・・。 「母上、お加減はいかがですか」 王太后はミノス王の声で目覚めた。目の前に立つ若木のようなほっそりした若者は彼女が王妃となってから産んだ愛し子。夫君はミノスを見ることなく戦に散った。 「あの化け物、許せませぬ!母上、きゃつの首級をきっとあげてみせまする!」 王太后はうつろな顔で少年を見上げた。 (何故に・・・我らは幸せに生きられぬ?哀れなアトラス。哀れなミノス。我が身の業の深さよ。私はただミノアを救いたいと思っただけ。護りたいと思っただけ。 異形の神よ、御身の強き力を保つためには一体いかほどの犠牲が必要なのです・・・!) (アトラスは・・・あなたの魂の器として産まれたあの子は紛れもなく、あの子自身の、人間の心を持っている。今となってはあの不憫な子がどう生きるのか分からぬ・・・) (アトラス・・・あの子の人間の心はもう亡いやもしれぬ。あれは荒ぶる神。我がミノアを護るために我のすべきことは・・・?) 「母上?」 「・・・ミノス。・・・許しておくれ。そなたにそんなことを言わせた母を。我が無力ゆえに・・・そなたにあの怪物を討つべしとしか言えぬ母を。咎は全て我が身に・・・」 ミノス王は気遣わしげに母親を見やった。何のことか分からないのだ。 夜明け・・・。ミノス王は艦隊を率いてアトラスをー兄をー殺しに行った。 王太后は黙って艦隊を見送った。その頬に涙が一筋流れる・・・。 (許して・・・許して。そなたら兄弟にこんなことをさせるくらいなら、あの日、 ミノアが滅べば良かったのじゃ・・・!) |