『 温泉旅行 』



キャロルがヒッタイトにさらわれるようにして連れられてきてから半年。
エジプトも故郷20世紀も、あまりに遠くキャロルは自分の過去は全て夢だったのではないかと思うことすらある。
王子はキャロルを妃となる姫、と公言し、周囲の人々の好色な好奇の目をよそにキャロルには触れもせず、大切に、しかし強引に愛した。
キャロルは戸惑いつつ、王子の優しさと強引さの混じった振る舞いに心乱されまいとでもいうように、頑なに心を閉ざすのだった。
王子はキャロルを伴って旅に出た。妃となる姫に国を見せ、民の生活を見せるために。
いつもの危険を伴う調査行であればこんなことはしなかっただろうが、今回は安全な視察旅行。自分に靡かないキャロルに業を煮やした王子は無理矢理のようにキャロルを連れだしたのだ。

旅程も終わり近いある日。
王子の一行は季節はずれの激しい嵐に見舞われた。気温はあっという間に下がり、強い風は間もなく痛いほどに冷たい霰を含むようになった。
「王子!近くに温泉が湧き出している場所があり申す!そこでこの嵐をやり過ごしましょう!」
「おお!兵をまとめよ。はぐれる者が出ぬように!焦るでないぞ。命が大切だ。足手まといの荷や馬は最悪、捨て置いてよし!」
王子は懐にしっかりとキャロルを抱きかかえて温泉のある場所を目指した。



灌木に囲まれた空き地に温泉のわき出る場所はあった。
地面に穿たれた大小の穴から暖かな湯気が立ちのぼっている。
兵士達は素早く温泉の周りに布を張り、即席の浴場を作った。
「王子、こちらへ。お支度が整いました」
兵士が声をかけると王子は当然のようにキャロルを伴って布の内側に入った。布で風が遮られているせいかそこは少しは暖かく、疲労とあまりの寒さに吐き気を覚えるほど消耗していたキャロルもわずかに目を開いた。
「姫、寒かったであろう。真っ青ではないか。こんなに冷えて。寒ければ何故、そのように言わぬ?何か手だてもあったろうに!・・・このような時ぞ。騒ぐでない」
王子は有無を言わさず、キャロルの濡れて重くなった衣装を取り去った。寒さのあまり全身が蒼白になったキャロルは印ばかりの抵抗をしただけで暖かな湯に全身を浸された。
暖かな湯がキャロルの全身を心地よく包む。キャロルは大きく息をついた。
「私は外にいる。ゆっくりと暖まるのだぞ」
王子はそう言うと布の外側に出ていってしまった。キャロルは声をかけようとしたが、できなかった。
(王子・・・)
キャロルは初めて王子にすまない、と思った。自分だって凍えているはずなのにキャロルに気遣って外に出ていってくれる。王子を嫌って心ない言葉を投げることもある自分を何故、ここまで大事にしてくれるのだろう?それに引き替え自分は・・・。
(あんなに気遣って大事にしてくれるのに・・・私はあの人を憎まなくてはいけない。あの人を嫌いでいなければいけない。あの人にお礼も言えない。
あの人は私をエジプトから引き離した人。家族の許から引き離した人。私を手駒のように弄ぶ人。私が金髪でもなくて、20世紀の知識もなくて、メンフィスの気に入られているということがなければ見向きもしないでしょうよ。
私はエジプト征服のための手駒なんですものね。いいえ、ただの弄び者かしら?
外見が珍しいから・・・。他の女性とは違っているから・・・。だから・・・)
暖かな湯に小さな小さな波紋が次々と広がり消えていった。キャロルは声もなく涙した。
(あの人とこんなふうに出会わなければ・・・あの人と最初に出会っていたらもっと違う風に過ごせたのかしら?
私もあの人に素直にお礼が言えたりしたかしら?メンフィスから私を救ってくれたあの人に)



ひらり。
湯に小さな白い切片が舞い降りた。霰はいつの間にか雪に変わり、暗い灰色の空を妙な明るさで彩った。同時に気温はさらに下がったようだ。
(寒い・・・)
キャロルは肩まで湯に浸かった。でも身体の芯に残った冷たさはまだ消えない。
(王子は・・・まだ外にいるのね。他の兵達だって湯に浸かっているのに。)
自分や、先に湯に浸かっている他の将兵に気遣って目立たぬように物陰に立っている王子の姿がキャロルの瞼に浮かんだ。
(私・・・そこまでしてもらう価値のある人間じゃないのに)
キャロルは立ち上がって湯から出た。白い肌に寒風が突き刺さる。そしてそっと布の外に声をかけた。
「王子・・・?」
「!・・・姫?どうした?」
「あの・・・寒いでしょう?どうか王子も中に・・・。あの!いえ、温泉の中に岩があって・・・それでお互いの姿は見えないっていうか、お互いに気詰まりなことはないと思うから・・・私も邪魔をしないようにするから・・・どうか王子・・・中に・・・」
それだけ言うとキャロルは大急ぎで湯に戻って本当に岩陰に縮こまるように身を寄せて座った。

やがて。
布のめくれる音。衣擦れの音。湯の揺れる音。大きな波紋。王子が入ってきたのだ。
しばらく二人は沈黙していたが、やがて王子が先に口を開いた。
「暖かいな。生き返った。あのままでは辛いなと困っていたところだ。・・・よく声をかける気になったな、姫」
沈黙。
王子はそっとそっと岩陰をのぞいてみた。キャロルの白い肩が見えた。存外細いその肩は本当に頼りなげで、王子の心は不思議な感動に満たされた。
好きな女の一糸まとわぬ姿を隙き見しているというのに、いわゆる欲望、という感情は少しも覚えなかった。ただ愛しくて、切ないほどだった。
(不思議だな。私はどうかしている。ただの女なのに。私が幾度となく抱いた他の女と同じ生き物なのに・・・こんなにも愛しくて・・・心騒ぐ)

キャロルは舞い落ちる雪を眺めていた。暗い灰色の空から落ちてくる白い雪を見ていると、空の高みに昇っていくような錯覚を覚える。心は驚くほど穏やかだった。
(雪・・・。いつかもこんなふうに雪を見ていたわ。ママがいて、兄さんがいたっけ。守られて・・・何も考えなくてよくて幸せだった。
今は・・・全部、自分で考えて・・・でも思うとおりにはならなくて。強くなくては、侮られてはだめってそれだけ・・・。何だか疲れた・・・。
王子をはねつけて、嫌いって言って。王子は、メンフィスとは違うって初めて会ったときから思っていたくせに、ね)
涙がこぼれた。僅かな押し殺した嗚咽は肩を震わせ、小さな波紋を作った。



唐突に沈黙が破れた。王子が派手な咳をした。幾度も幾度も、苦しそうに。
「王子?大丈夫?」
キャロルは思わず立ち上がり、岩の向こうの王子を見た。たくましい王子のオリーブ色の背中が揺れている。
(苦しそう!あ・・・寒いのに、長いこと外に立っていたから。・・・私のせい・・・私の・・・)
キャロルは殆ど何も考えないままに王子の側にいき、背中をさすった。王子は驚いたようにキャロルの顔を見つめた。無防備な妙に少年じみたその顔に,キャロルは親しみを覚えた。
そしてやがて王子の咳は止まり・・・王子は中腰でいたキャロルの肩を抱くと、しっかりと湯の中に浸した。キャロルは黙って王子の側に座った。

二人は黙って空を眺めていた。白い雪。吸い込まれそうな空の高み。
「空に昇って行くような気がするな。こうしていると・・・」
「ええ・・・静かで・・・心が凪いでいくような気がする」
「うむ・・・無心というのかな。こんな風な心持ちになるのは久しぶりだ。ただ静かで・・・穏やかで。子供の頃、難しいことも、醜いことも知らずにいられた頃に戻ったようだな」
「私も・・・同じ。こうしていると心がほぐれる。いつもこんなふうに澄んだ気持ちでいられたら・・・楽でしょうね」
そしてまた沈黙。だが王子も、キャロルもお互いの心がかつてないほど近くに寄り添っているのを感じていた。
「姫」
穏やかに優しい王子の顔が驚くほど近くにあった。そして・・・撫でるような、そよ風のような軽い接吻。
「王子・・・」
キャロルは少しも驚きや戸惑い、恐ろしさを感じなかった。それどころか当然のように王子の頬に唇をつけたのだった。
二人はしばらく見つめ合った。やがて王子は先ほどのようにキャロルの肩を抱いた。キャロルは黙って王子の肩に頭を預けた。
「嵐がおさまったら・・・また、そなたは私と来てくれるか?私とまた・・・先ほどのような話をしてくれるか?・・・無理強いはせぬ。いや、できぬ。私はそなたの心が欲しいと、そなた一人だけが欲しいのだと・・・やっと悟ったのだ。
ふ、雪を・・・見ていたせいかな」
「私は神の娘でもないし、私とエジプトとは王子が期待するような関係もないわ。私はメンフィスのお気に入りでもないし、髪の色が変わっているからってそれだけなのよ。私は、私は・・・」
王子の顔は相変わらず穏やかに優しい。
(ああ・・・私、こんなたくさん言葉を費やすことないんだわ)
不意にキャロルは悟った。
「もし・・・王子の言葉が本当なら嬉しい。私・・・も王子をもっと知りたいわ」
王子は柔らかく笑った。キャロルも久しぶりに心からの微笑を漏らした。

やがて嵐も去り、一行は出発した。キャロルは20世紀に決別し・・・王子のもとで新しい未来を探す決意をした。そのキャロルの白い手に王子の大きな手が優しく添えられている・・・。

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