『 無題・7 』 遠くで遠雷のように鯨波の声がこだまする。塩の海の神殿にエジプト兵が押し寄せる。 「くっそう!何たることぞっ!ナイルの王妃を人質に取りながら、このような醜態・・・!我がバビロニア軍が・・・!アイシスッ!口惜しいが今はこれまで。我らだけでも脱出いたす!脱出口まで案内いたせい!」 バビロニアの王ラガシュの見苦しき姿。この期に及んで私を呪わしいバビロニアに連れ戻そうとするか。エジプトの女王たるこの私を。我がエジプトに仇なす敵国の王。 「ではこちらにおいでなさいませ」 私はかりそめとはいえ、一度は夫と呼ばねばならなかった厭わしい男に手を差し伸べた。無警戒に我が懐に寄ってくる男。愚かな男。 私は何の迷いもなく、微笑みすら浮かべて男の体に深々と短剣を突き立てた。 「アイシス・・・?これは・・・?」 私は輝くような微笑を浮かべていたに違いない。何が起こったか永遠に分からぬままにバビロニアの王は絶命した。短剣はかの男の汚らわしき血が神殿を汚さぬよう固い栓となり、バビロニア王の衣装は道化ラガシュの屍衣となった。 ・・・私はやっと呪わしい悪夢から解放されたのだ!エジプトの女王として誰憚ることなく愛しいメンフィスを求めることができる! 「アイシス様。キャロルを連れて参りました」 忠実なアリが憎いキャロルの手を引いて我が許に戻って来た。 私の運命を狂わせた憎い女は長い地下牢幽閉にもかかわらず、相変わらず美しい。憎い女。厭わしい女。 「ア、アイシス!これは・・・!」 キャロルはラガシュの死体を見て恐怖に凍り付いた。 何と醜いのだろう。感情をむき出しにした人間の姿というのは。この女はいつもそうだ。心を素直に表し、望むがままに笑い、泣き、見苦しい限りだ。 「黙りやっ!」 私はキャロルの頬を打った。 「あなたは・・・自分の夫を・・・。殺したの・・・?なぜ、そんな恐ろしいことを・・・?」 黙れ。誰が我が夫なものか。我が夫はメンフィス以外におらぬものを。 黙れ。そなたさえいなければ私はメンフィスの妻であったのだ。 黙れ。そなたはいつも罪のない清らかな様子を装って、私を苛立たせる。 「アイシス・・・やはり・・・メンフィスを愛しているから、なの?あなたはだから私を憎むの?」 少女のような顔。恐怖の涙に濡れた邪気のない顔。私の嫌いな女の顔。 お前はいつでもそうだ。罪から我が身を遠ざけ、慈悲深いふりをして、罪深い他人を哀れみ、恐れ、見おろし。・・・そう、全てから安全に守られたはるか高みから。 お前の清らかさは意識的に無知であることからもたらされたモノ。 お前には分かるまい。人を愛し、幸せを求めながら、罪に溺れてゆく我が身の弱さなど。 お前にとって人生は甘い夢。幸せを求めて啼き、愛する人の心求めて悶える苦しみなど知ろうともしないだろう。 「アリ・・・下がりや。これからは私と・・・この者の二人で・・・」 静かにアリが下がった。忠実な侍女との永久の別れ。それでも私は極上の微笑を浮かべている。感情を押し殺す優美を知っているから。 キャロルは恐怖に戦慄いている。メンフィスの子を二人まで産みながら、この年若い女は未だ子供のよう・・・。 エジプト軍は塩の神殿内に突入した。怒号の声がどんどん大きくなる。 その混乱の中で私は、恐怖で身動きもできないキャロルの腕をしっかり掴み、耳を澄ます。 愛しいメンフィスの足音を待ち望んで。誰が聞き間違えたりするものか。私のメンフィスの気配を。 だんだん近づいてくるその気配。愛しい、愛しい、愛しい・・・。 「キャロルっ!」 まるで翼ある戦神のようにメンフィスは部屋に現れた。 その瞬間、私の目からは汚らわしいラガシュ王の死体も、憎いキャロルの姿も消え失せ、ただメンフィスの凛々しい姿だけが浮かび上がった。 最後に見た時よりもなお立派に、若々しさの中に老成した雰囲気と威厳を漂わせ・・・。 でも。 メンフィスはキャロルしか見ていなかった。キャロル呼びかけ、私にキャロルを離せとぞんざいな口調で命じた。そして・・・ラガシュ王の死体を見て、私を・・・この私を恐ろしい魔女と呼びさえした! 「メンフィス・・・」 私の声は驚くほど穏やかだった。私の心は清(さや)かに澄み、静かな喜びすら感じた。 メンフィスは今、私だけを見ている。 「メンフィス・・・」 私は優雅にキャロルを掴んでいるのとは反対側の手をあげた。私の白い手には優雅な細い短剣が握られている。エジプトの意匠のそれは嫁ぐ日にメンフィスから贈られたもの。いつも肌から離さなかった・・・。 「メンフィス・・・」 姉上、何をする!メンフィスの怒号が部屋を震わせる。 私は何の迷いもなく短剣をキャロルの首筋に振り下ろした。・・・いや、振り下ろそうとした、のだ。 しかし、短剣が憎い女の白い首に届く前に・・・メンフィスの剣がまっすぐ私の胸に突き立てられた。 剣は私の胸とメンフィスの手をつなぎ合わせる。幾度、私はこの白い胸をメンフィスに触れさせたいと願っただろう。 「姉上・・・わざと、か・・・?」 メンフィスの狼狽えた顔。決まっている。キャロルのごとき女の血で、大切な短剣を・・・我が手を汚すことができようか。私はただ・・・。 「メンフィス・・・」 あなたと共に生きることが叶わぬなら、あなたに愛されることが叶わぬなら、せめて、あなたの手にかかって死にたいと願うようになったのはいつからだったのか。 「姉上っ!なぜ・・・っ!」 泣かないで、私の弟、最愛の夫よ。私はあなたに愛されたかった。あなたへの想いによって生かされた私は、あなたへの想いによって逝きたかった。ずっと、ずっと、ずっと。 愛しています。キャロルのように思いの丈、全てをあなたにぶつければよかったのか?あなたが応えてくれなくても、あなたを全身全霊で愛すことだけで私は幸せだったのに。どこで何が狂ったというの? 愛しています。今なら分かる。キャロルがいたからあなたの運命は変わり、長い寿命が与えられた。私はあなたに生きていて欲しかった。それだけでよかったのに、やはりあなたの愛を求めたのは私の弱さ。 命が流れてゆく。冥(くら)い深淵が、無限の空虚が私を待ちかまえている。 命が流れてゆく。私には西の国の安らぎは与えられない。 でもかまわない。私はあなたを愛している。 冥(くら)い深淵は、あなたを想う私の愛の花で埋まるでしょう。 無限の空虚は、あなたを愛す私の歌で満たされるでしょう。 「メンフィス・・・愛しているわ・・・」 |