『 無題・4 』


今日はイシュタル女神の祭日。夕暮れのハットウシャのあちこちで松明がたかれ、にぎやかな音楽や楽しそうな喧噪が聞こえる。
「いいなぁ・・・」
キャロルは宮殿の窓からぼんやりと外を眺めていた。ハットウシャにもだんだん馴染んできたとはいえ、キャロルから見れば立派すぎる大人の貫禄を備えたイズミル王子に守られた生活は少し窮屈でもある。
(メンフィスは熱血漢の坊やだと突き放して見ることもできたけど王子は隙がないんですもの。何だか窮屈で・・・)
「姫、ここにいたのか」
王子が声をかけた。
「祭を見ていたのか。探したぞ。さぁ、外に連れていってやる。支度いたせ」
商人のような衣装の王子は戸惑うキャロルを質素な身なりに着替えさせると宮殿の外に出た。
「王子・・・?一体?」
「今宵は愛の女神イシュタルの祭。そなたにも見せてやりたくて、な。ふふ、今宵は忍びだ。私からはぐれるなよ!」
王子はわざと磊落な口調で言うと、キャロルの肩を抱えて黄昏の街に繰り出した。


「わぁ・・・!」
あちこちに飾られた飾りもの、家々の壁に垂らされた多彩なタペストリー、晴れ着で街を行き交う人々、美味しそうな食べ物の匂い・・・。
キャロルは子供のように瞳を輝かせ、何一つ見逃すまいというように頭をあちこちに向けた。
その子供のようなキャロルを見守る王子の目には優しい暖かな光があった。
(楽しそうに・・・あんなふうに笑うこともあるのだな。何やら少し気鬱のようだとムーラに聞いて連れ出したが・・・。良い気晴らしになったようだな)
「見て!王子、あれ!大きな山車ね。何て綺麗!」
「ああ。あれは女神の眷属を乗せたもの。辻毎に飾られている。」
キャロルは山車に近づき珍しげに見物する。生き生きとしたその姿は、ヒッタイトの世継ぎとして早く立派に成長することだけを求められてきた孤独な青年の心を癒すのだった。

広場では踊りの輪が出来ていた。旋回を繰り返す単純な踊りは浮き立つような旋律に乗り、いつ果てるとも知れず続いてゆく。
「私、踊ってきてもいい?楽しそうですもの」
キャロルの問いに王子は狼狽えた。おとなしい娘なのに急に・・・。
だがキャロルは王子の返事を待たずに踊りの輪の中に入っていった。引き留めようとした王子に誰かが言う。
「野暮は言いっこなしだよ。兄さん!いいじゃないか祭の晩くらい」
キャロルは踊る。嫉妬と恋情に浮かされたような目をした王子の前で。
翻るベール、スカートの裾は浮き上がり、白い踝がほの見える。伏せることを忘れた真っ青の瞳は輝き、頬は薔薇色に染まる。
旋回の繰り返しに疲れたキャロルの肩を誰とも知らぬ若者が掴んだ。
「娘さん。なんてかわいいんだろう!他へ行こうよ。楽しいことを教えてあげよう!名前は何というの?」
戸惑うキャロルはすぐさま王子に助けられた。
「すまぬな。これは私の相手だ。娘は他にもおろうほどに、よそをあたれ!」
力一杯ひねり挙げられた手首を押さえながらその若者は行ってしまった。
王子は無言でキャロルの手を掴むと足早に広場を去った。嫉妬で煮えくり返っていたのだ。


「姫。これを」
宮殿に帰り、王子は神殿近くの屋台で買い求めた小さな指輪をキャロルに差し出した。
赤い銅の指輪には深紅のガラス玉がはめ込まれている。決して高価なものではないけれど恋人同士が祭の夜には幸せな恋の成就を願って買い求める縁起物。
「つけてやろう・・・」
王子は有無を言わさず、自分が妃と思い定めている少女の白い指に指輪をはめてやった。
「あ、あの王子。さっきは・・・助けてくれてありがとう。あの・・・」
「全くそなたは不用心だな。私がいなければどうなっていたか。」
王子は不機嫌に言ったが、王子に叱られてしょぼんとしてしまったキャロルを見てはそう長くも不機嫌ではいられない。
「その指輪・・・気に入ったか?」
「え?ええ・・・きれいね。とっても。嬉しいわ。初めて。王子からこんなふうに贈り物を貰うの・・・」
キャロルは白い指を反らせて指輪に見入る。その幼さと一人前の女性の艶めかしさが混じった仕草を見て王子はときめいた。
王子は今までひたすら見守ってきた少女のうなじにそっと顔を埋め、問うた。
「では・・・その返礼に接吻をひとつ欲しいものだな・・・」
小さな小さな声。初恋に怯える少年の声音。
キャロルは戸惑い・・・やがて王子に初めての接吻を贈った。
指輪のガラス玉がきらり、と光った・・・。

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