『 伯爵令嬢的王家の紋章 』 その1 「アリよ、わたくしは幾度となくキャロルを亡き者にと謀ったが、いまだメンフィスの傍を離れぬ・・・ああいやな・・・!」 バビロニアに嫁いでどれほどの時間が流れたのか。愛する弟への情念は失せることなく、以前にも増してアイシスの心を燃え上がらせる。 「メンフィスがキャロルを愛する気持ちはどうにもならぬ。いっそ、キャロルがメンフィスを見限ればよいものを・・・!」 「アイシスさま、これを・・・」 「・・・薬草か?」 「これはバビロニアに代々伝わる秘薬でございます。愛する者の記憶を失うという・・・」 「なんと・・・!そのような薬があるとは!これをキャロルに飲ませれば・・・!!」 エジプト王宮。 「キャロルさま〜、起きてください!」 その2「あやしげなる食べ物」 「キャロルさま、朝ですよ!早起きしてメンフィス様に朝食をお作りするってはりきってらしたのに。起きてください。」 侍女のテティが、まだ陽の昇らぬ早朝にキャロルを起こしに来たところだった。 「んん・・・テティ・・・あ・・朝!起きなくちゃ!メンフィスはまだ起きてないわね。おっいしーい朝食をつくるわ!」 平凡な毎日。メンフィスの傍に居ることが一番の幸せだった。この幸せがずっと続けば良いのに・・・。 (もう、エジプトから・・・メンフィスの傍から離れないわ!) キャロルはお嬢さま育ちで、現代にいた頃は料理はからっきしであったが、メンフィスのために心を込めた料理を作ろうと毎日励んでいるのであった。 「今日は和食にチャレンジしようかしら!アレも作ってあるし」 「キャロルさま、私もお手伝いいたしますわ!」 「えーと、じゃあ、これを器に盛ってちょうだい。」 キャロルは今日のために、とっておきのあるモノを用意していた。 「キャロルさま、このネバネバとしたものは、何ですか?」 「テティ、これはね、納豆というの。大豆を発酵させて作るのよ。20世紀の健康食よ!」 「ナットウですか・・・でも、この臭い!強烈ですわ〜」 テティは、納豆のあまりに強烈な臭いに鼻を摘まんだ。 「さてと・・・完成!メンフィスはまだ寝てるわね。わたしがもっていくわ」 その頃、メンフィスはまだ眠りの中にいた。 「メンフィス、おはよ・・・まだ眠ってるわ。疲れてるのね・・・起こさない方がいいわ。ここにおいておきましょ」 途端、メンフィスの敏感な嗅覚が反応した。 「・・・んんん」 「あら、起こしちゃった?」 「・・・何事ぞ!異臭が漂っておる!・・・なんじゃ、この怪しい食物は??」 「メンフィス!それは納豆というものよ。食べてみて」 「うぬう、キャロル!そなたは腐ったものをこの私に食せというのか!許さぬ!」 「違うわ、メンフィス!それは納豆よ!とっても体にいいんだから、食べて!」 「ナットウ・・・このような怪しげなる食物はいらぬ!」 「ひどいわ!ねえ、一口でいいから、食べてみて。はい、あ〜ん」 「ん・・・・・まあ、美味いような・・気もするな・・・」 メンフィスは、納豆が決して美味しいとは思わなかったが、キャロルが一生懸命作ったものなので、ほとんど食べてしまった。 「わたしも食べましょう。・・・ああ、メンフィス!腐ってるわ、これ!納豆じゃない!」 「な、な、なんとーーーーー!キャロル、もう一度申してみよ!」 「腐ってるのよ、食べてはいけない!どうしよう、メンフィス!あなたは全部食べてしまったわ!」 「ああ・・・腹が・・・く、苦しいーーーーー!」 「・・・わ、わたしもなんだか・・・苦しくなったわ・・・テ、テティ・・・助けてえ〜!」 その3「そして、エジプトへ・・・」 食中毒事件から数日後、メンフィスとキャロルは未だ病床に臥せったままであった。 宰相イムホテップは困惑しきりだ。 「困ったことだ。王と王妃がこのように臥せっていては、いつ敵国から攻め入られるとも限らぬ。このことは、あくまで内密にせねば。」 ふたりのことは、エジプトの民にさえも内密にされた。敵国に勘付かれぬよう細心の注意を払わねばならない。そのため、ふたりは、ウナス、ルカ、テティと少数の侍女と共に、とある神殿の奥に隠されていた。 「ああ、メンフィスさま、キャロルさま。どうか目をお覚ましくださいますよう・・・」 (それにしても、ただの食中りにしてはいやに酷い。誰かが毒でも混ぜたのではないかしら・・・?) 「テティ、おまえも見ていたのであろう?食中りでこのようになるのであろうか?」 ウナスが訝しげに問うた。 「いつものように、メンフィスさまの朝餉をお作りしたんですよ。なのに、ナットウを召し上がった途端、おふたりとも気を失ってしまったのです。」一方ヒッタイトでは、ルカによりキャロルが病に倒れたことを知らされた王子は、悶々と悲痛の日々を送っていた。 「おお、女神イシュタルよ・・・!どうか・・・どうか、姫をお救いくださるよう・・・!」 (ああ、一目でいいから、姫を・・・!わたしが姫の看病にあたりたい!) 「ルカによれば、姫はさる神殿の奥に隠されているという。将軍、エジプトへ参ろうぞ!姫をお助けせねば・・・!私が治してみせようぞ!」その頃バビロニアでは、既に侍女のアリが情報を掴んでいた。 「アイシスさま、エジプトの間者によれば、メンフィスさまとキャロルが病に臥せっておるとのことです!」 「なんと、アリよ!・・・して、病状はいかに?」 「食中りとか・・・しかし、ふたりとも枕も上がらぬ重症と聞きます」 「ああ、メンフィス。あなたを助けたい!・・・・アリよ、そなたは薬の調合に長けておる。メンフィスに薬を用意せよ。わたくしがメンフィスを助ける!キャロルは・・・殺すか・・・」 (いや・・・殺したとて、メンフィスはキャロルを想い続けるだろう。わたくしに靡くことはあるまい。) 「アリよ、過日そなたが申しておった秘薬、キャロルに飲ませようぞ。わたくし自らエジプトへ参りましょう!」 「・・・しかし、アイシスさま。ラガシュ王に知られては・・・!」 「あの方は・・・わたくしを愛しておらぬ。そして、わたくしも・・・。バビロニアを捨てる覚悟で・・・参ろうぞ!」 その4 「鉢合わせ」 エジプトへの道のりは遥か遠く、アイシスの体力を著しく消耗させたが、メンフィスに会いたい一心からか、アイシスの一行は休むことなく進み続けた。ラガシュに気付かれているとは知らずに・・・。 「アイシスよ、何を企んでおる・・・」 「ラガシュ王、このままでよいのですか?あの方角は・・・もしやエジプトへ向かっているのでは・・・?」 「オムリよ、案ずるな。アイシスは帰ってくる。否が応でも、帰らせる・・・。今は、様子を見ようぞ」 (アイシス・・・・!まだ、メンフィスを忘れられぬのか・・・!) ラガシュは平静を装っているものの、心中は穏やかでない。いや、それどころか嫉妬の炎に身を焦がし、苛立ちを抑えるのに必死であった。今すぐにでも、アイシスを捕らえて傍に置きたい。しかし、もしもアイシスがそれを拒んだら・・・?ラガシュのプライドが許さない。いや、怖いのだ・・・。 (わたしの気持ちがわからぬのか、アイシス・・・) 時を同じくして、イズミル王子もエジプトへ向かっていた。 イズミル王子のもとへ、例の鳥の知らせが来た。 「おお、ルカの知らせが・・・」 キャロルさまは相変わらずのご病状。 同じくメンフィス王も臥せったままです。 こちらの神殿には、わたしを含め少数の者しかおりませぬ。 警備も思いのほか少なく、好機かと。 王子のおいで、お待ちしております。 「姫よ、今すぐ参るに!」 アイシスと、イズミル王子・・・それぞれの思いを秘め、今、エジプトへ到着・・・・ 今宵は月もなく、神殿は深い闇に飲み込まれている。 「おお、姫はここにいるのだな!」 王子は昂ぶる気持ちを抑え、息を殺して神殿への侵入を試みた。 しかし、神殿を警護しているはずの兵士が全くなく、辺りは静寂に包まれている。 「・・・将軍、警備が全く見当たらぬ。ルカが根回ししたのであろうか?」 「明かりもすべて消えています。おかしいですなあ・・・」 「・・・!」 王子の足に、やわらかい感触が伝わる。人間のそれだった。 「な・・・!エジプト兵ではないか!これは一体・・・」 闇の中を凝視すると、あちらこちらに兵士が倒れている。 「わたしより先に、何者かが姫を・・・?急がねば!」 王子は神殿の奥に進んだ。すると、何かが動いた。人影がひとつ・・・ふたつ・・・ 「何者!」 「おお・・・誰かと思えば、そなたはイズミル」 「お、おまえはアイシス!どうしてここに・・・!」 その5「再会」 「ふっ・・・そなたはキャロルが目当てであろう」 「ならば、そなたはメンフィス目当てというわけか・・・」 女心は、まこと不可思議なものよ・・・ かつて見たアイシスは、ラガシュ王に執心かのようであったものを。やはりメンフィスを忘れられずにいたのか・・・ 「アイシスよ。まさか、ここで一戦交えようというわけではあるまい。姫はわたしが頂く。今は一刻の猶予も許さぬ事態。これで失礼するぞ」 「待ちや、イズミル。そなた・・・キャロルが欲しいのであろう。ならば、手を貸そうぞ。」 「手を貸す?これはまた・・・」 「この薬草はバビロニアに伝わる秘薬・・・。煎じて飲ませれば、愛する者の記憶を消し去るという。これをキャロルが飲めば、どうなるであろうかのう・・・?」 「おお、これを・・・!これを飲めば、メンフィスのことを忘れると・・・!」 「感謝するぞ、アイシス。急ぎにて失礼する。」 (姫よ、そなたを愛しているがゆえに・・・そなたを得るためには、わたしは手段を選ばぬ・・・!) 逸る気持ちを抑えつつ、王子はキャロルの元へ向かった。足取りはゆっくりと、軽やかである。 そこには、メンフィスの姿はなく、キャロル一人が横たわっていた。 「姫よ・・・」 暗雲立ち込める夜空から月がそっと顔を覗かせ、キャロルの顔をやさしく照らしていた。 固く閉じられた瞼は暫しの間、開かれなかったのであろう。顔は青白く、頬に色はない。 唇は微かに開いている。王子はその感触を確かめた。 (痩せている・・・息も荒い・・・!) 「姫・・・生きるのだ・・・姫!」 「将軍、ヒッタイトへ姫を連れて参るぞ!」 その6「目覚め」 「姫よ・・・わたしの腕の中で目覚めるのだ・・・」 王子は口移しで、例の秘薬を流し込んだ。キャロルの喉がゆっくりと動く。 「このままでは、姫は死んでしまう。姫よ・・・!」 「・・・・あ・・・ここは・・・・?」 「・・・おお!姫よ、目覚めたか!そなたはずっと眠ったままだったのだぞ!よ・・・よかった・・・」 「あなたはだれ?なにも思い出せないの」 (おお、アイシスの秘薬は姫の記憶をすべて流し去ったというのか・・・?それとも、かつて少しは私を愛していてくれたということなのか・・・?) 「わたし・・・名前も・・・住んでいたところも、みんな思い出せない。わからないの・・・みんな忘れてしまったの〜〜〜!思い出せないのよ」 「姫・・・忘れてしまったのか・・・」 (エジプトでのことを、今日までのことを、いままでのすべてを・・・!忘れてしまったのか・・・!) 「・・・わたしを愛していてくれた・・・というわけではないのだな。まあよい、そなたはわたしの妃にと誓った姫なのだよ・・・」 「ええっ!わたしがあなたの・・・?」 「そなたは・・・このわたしまで忘れてしまったのか・・・?そなたは、わたしとの婚儀を前に、眠りについてしまった。そなたが目覚めるのをどれほど待ったものか・・・」 その7「懐かしい声」 (わからない・・・わからないわ!何も思い出せない!ほ、ほんとにわたしは・・・) キャロルは、過去の一切の記憶を失った戸惑いからか、毎夜眠れぬ日々を過ごしていた。 (イズミル王子さまはとても良くしてくださるわ。でも、な・・なぜかしら、恐ろしいような・・気がする・・・) キャロルはふと、傍に眠る王子の横顔を見つめた。人形のように整った麗しい顔は、闇の中に美しく浮かび上がっていた。やさしく閉じた瞳の、その睫が濡れているように見えた。 (泣いているの・・・?王子さま、わたしはあなたを本当に愛していたのかしら・・・?) 東方の空が微かに薄明かりを帯びた頃、ようやくキャロルは眠りに誘われるのであった。 やがて陽は空高く上り、眩しい陽光がキャロルを照らしている。 「・・・んん、もう朝!イズミル王子さまは・・・?」 傍に寝ているはずの王子はいない。部屋の外は、人々の活気で騒がしい。 「いけない、また寝坊してしまったわ!」 「・・・姫よ、お目覚めか」 そこには、とうに起床して身支度を調えた王子と共に、まだ見知らぬ美しい少年が立っていた。 「イズミル王子さま、おはようございます。またわたしったら、寝坊してしまって・・・」 「そなたは病み上がりの身なのだから、ゆるりと休んでおるがよい。」 「キャロルさま。ご病気ご平癒、誠に喜ばしく申し上げます」 聞き覚えのある声だった。懐かしい声、いつもわたしを守ってくれていたような・・・でも、誰だろう?記憶の糸を手繰り寄せようとするが、どうしても思い出せない。 「あなたは・・・?」 「これはルカといって、そなたの忠実なる家来ぞ。そなたを片時も離れずに守護しておった者だ」 「・・・ああ、ごめんなさい!わたし、記憶をなくしてしまって全く憶えていないの。」 「どうかキャロルさま。お気になさらずに・・・」 この時が来るのを待っていた。王子の長年の恋が成就するのを。そして、ヒッタイトで姫にお仕えするこの時を・・・! ただキャロルと言葉を交わすだけで感極まって、ルカは大泣きしてしまった。 「本当にごめんなさい。・・・ルカ」 「いえいえ違うのです、キャロルさま!ただ、わたしは嬉しさの余り・・・王子!すみませぬ!」 「よしよし・・・ルカよ、これからも姫をお守りするのだぞ」 その50(仮) 悠久の歴史の中に漂ったキャロルの数奇な運命・・・そののち・・・ イズミルは若くしてヒッタイトの王となり、令名なる王として諸外国の人々に騒がれ・・・ キャロルはその英知と美貌で、ヒッタイトの民に慕われ・・・ メンフィスはただ一人の妃と誓ったキャロルを想い続け、年若くして戦禍に散り・・・ アイシスはライアンと共に現代へ旅立ち・・・ ラガシュはバビロニアの戦とともに滅び・・・ ミノスは、イズミルに追いつき追いこすべく、いま諸外国漫遊の旅に・・・ そしてヒッタイトは今・・・ おおそなたを・・・愛さずにはいられない 「姫よ、改めて申し込もう。わが妃に・・・!」 「ええ・・・イズミルさま!」 (完) |