『 源氏物語@王家の紋章 』 遠くから暖かい規則正しい音がする。懐かしい音。 何かしら・・・? 身を起こして音を探ろうとしたキャロルは強い力で押さえ込まれた。 キャロルは王子の胸に頭をのせて眠っていたのだ。聞こえていた音の正体は王子の鼓動! きゃあっ! 姫よ,姫よ。何故,逃げる。そなたはあのまま眠り込んでしまったのだ。私も睡魔には勝てず,つい寝過ごしたらしい。 何という顔をしている?そなたが恐れるようなことはしておらぬわ!誰がそのような卑怯なことをするものか。 ・・・姫よ。エジプトの庭で初めて出会ったその日から,そなたが愛しい。そなたがまるで妹のように思えることもある。 妹?私が? ふふ,初めて会った時,そなたは私を兄と呼んだ。そなたは意地っ張りで,不器用な妹だ。目が離せぬわ。やれやれ,この年で子守をする羽目になろうとはな! 冗談めかして顔をのぞき込む王子に,初めてキャロルは笑いかけた。 姫・・・。初めて笑ったな。良かった。そなたが一生,私や自分の運命を呪いながら過ごすことになったなら・・・どうしようかと思っていたのだ。 あの庭で見つけた少女が頑なな殻の中に一生閉じこもってしまったら・・・と。 そなたが今の境遇を嫌っているのは知っている。家族を忘れがたく思っていることも。だが,姫。これだけは言っておく。不幸な生き方をしてはならぬ。よいな。 王子の真摯な言葉にキャロルは深く心を打たれた。 王子・・・。あなたは何故,私にそんなに優しいの?私は人質でしょう?私はあなたにひどいことを言ったわ。それなのに・・・。 姫,同じことはもう言わぬぞ。そなたは人質ではないし,私の弄び者でもない。私はそなたを大切に思っている。それだけだ。 そなたが望むなら,私はそなたの兄ともなってやろう。欲しいものは全て与えてやる。だから・・・生きよ。運命を切り開く生気に満ちたそなたの姿が忘れられぬのだ。私は・・・そなたを愛している。 さぁ,私は部屋に戻ろう。夜明け前だ,私がここで夜明かししたと噂する者も出まい。 寝台を降り,出ていこうとする王子に思わずキャロルは言った。 待って,王子。あの・・・あの・・・一方的に話して行ってしまうの?私はどうすればいいの?私の話も聞いて。 王子は立ち止まって驚いてキャロルを見つめる。 愛する・・・なんて言われてもどうしていいのか分からない。どういうことなのか分からないんですもの。でも,でも,あの,私はあなたを信頼してもいいの?私はこの世界でひとりぼっち。でも誰か信頼できる人が・・・相談したり,話をしたり,色々なことを教わったりできる人が欲しいの。私,あなたを信頼して良いの? おお・・・!姫,姫!そう言ってくれるのか?私を信頼してくれるのか?おお,私はそなたが信頼するに足る者となろう。そなたを守ってやる。おお,姫! 王子はキャロルを思わず抱きしめた。キャロルは唐突な王子の行動に驚いて固まってしまった。だがその暖かさが懐かしく,嬉しくて王子の胸に体を預けたのだった。 王子とキャロルの間に新しい時間が流れ始めた。 王子はキャロルに様々なことを教え,徐々に他の人々にも会わせるようにした。潔癖なキャロルを刺激しないよう,細心の注意を払いながら彼女をヒッタイトの王子妃として遇する王子。人々の尊敬を勝ち得られるように。誰もがヒッタイトの王子妃にふさわしいと認めるように。 だが,二人きりの時はキャロルを妹として扱い,心解すようにつとめた。 他愛ない会話を楽しみ,ゲームで勝ち負けを競ったり,まじめな話をしたり。楽器の合奏をすることもあったし,お互いに相手の知らない新しい知識を伝えあったりもした。 何気ない言葉や仕草の端々から窺われるキャロルの深い知識,思慮深さ,優しい気だてが王子の恋情を深くする。 夜遅くまで話し込むことが多くなると王子とキャロルは同じ部屋で眠り込んでしまうことも多くなった。それはただの添い寝なのだけれど周囲の人々は恋人同士が婚儀に先立って結ばれたのだと解釈した。 キャロルはそれを聞いて怒り狂ったが,この誤解に嬉しさを感じているイズミル王子は優しさと威厳をもってキャロルに言い聞かせた。 皆がそなたを尊敬している。誰もそなたを淫らな娘とは思っていまい。私がそなたを守ると言ったのだ。悪質な噂など流れぬ。よいか,今,そなたが騒げば人々はもっと無責任に騒ぎ立てよう。全て私に任せ,そなたは知らぬ顔をしておれ。よいな。さぁ,この話は終わりだ。 いつもの添い寝の夜。 王子とキャロルは今日あったことなど,とりとめもない会話を交わしていつしか眠りに落ちる。 王子に対する警戒心がほとんどなくなったかのように無邪気に喋るキャロル。 それは本心からなのか。それとも何かの折りに覗く王子の男の心に対する無意識の防御なのか。 王子には分からない。キャロルも敢えて自分の心を見つめない。 兄さんのような人。私を大事に守ってくれる人。怖いこともあるけれど,大好き。 安心できるわ。エジプトのことも何もかも忘れて子供の頃に戻ったようなこの安らかな時の中にずっといられたらいいのに・・・。 キャロルの身勝手な想い。手枕に添い臥しながらキャロルの口は徐々に重くなり,その小さな体の重みと暖かさが王子を苦しめる。 姫・・・。愛しい私の姫。こんなに誰かを大切に思えることがあるとは知らなかった。こんなに誰かを愛せるとは我ながら信じられぬ。 ずっとずっと大切に見守ってきた。 まだほんの子供。幼い私の姫。もっと時間を与えて自ずと咲き綻ぶその時を待つべきなのだろうな。私の腕の中で見守って傅いて、教え導き・・・。 だが、だが・・・待てぬ。もう。手枕が重すぎて・・・! 姫・・・?起きているか? ええ・・・?なあに? 私を愛しているか?私を好きか・・・? ええ・・・大好きだわ。怖いと思ったこともあったけれど・・・優しい。とても。 本当に?私を愛してくれるか?私はそなたの言葉を信じて良いか? 変なことを聞くのね・・・。大好きよ・・・。 夢心地の優しい声音。そのまま寝入ってしまうキャロルに王子は囁きかける。 私はそなたをこの上もなく愛している。だから・・・何をしても許して欲しい。 許す・・・と言ってくれ。全てはそなたを愛しく思うが故なのだ・・・。 ?・・・ええ、いいわ。でも許すって・・・何を?・・・!! 王子はキャロルの夜衣をくつろげ、驚くキャロルの悲鳴を接吻で塞いでしまう。 王子の荒々しい手で暴かれる白い肌、白い体。 あまりのことに茫然自失、身動きもかなわぬキャロルにうわごとのように愛の言葉を浴びせながら王子はキャロルに触れた。 小さな胸の双丘を弄び、薄桃色のサクランボウを啄む。 白い肌を接吻で覆い、キャロルでさえ知らぬ秘密の場所を探る。そこは夜目にも鮮やかな白い肌とは対照的に濃い薔薇色の花が隠れていて、王子の心を狂わせる。 王子は優しく接吻し、しなやかな指でくつろげ、自分を受け入れてくれるよう嘆願の仕草を繰り返す。キャロルの幼い体は王子の技巧の前に心とはうらはらに急速に開花してゆくのだった。 姫、姫。愛しい姫。どうか私を受け入れてくれ。力を抜いて・・・。 ああ・・・ああ・・・。怖い。怖い。こんな・・・!ああ・・・。 姫・・・。ああ、そなたは私のものだ。生涯かけて幸せにいたそうぞ・・・。 長い長い時が過ぎ,ようやく王子はキャロルを許した。王子の好き心は熱く燃え立ち,愛しい少女を思うがままに翻弄した。キャロルを愛しく思いながらも,同時に嗜虐的な獣にもなれる男の心の不思議。 次の日の朝。 王子が寝所から出てきたのにキャロルは起きあがってこない。 側仕えの人々はいつしかそれと悟って気遣わしげにキャロルのいる寝所を見つめる。 まぁ・・・驚きましたわ。王子がお持ちになった小布に・・・。ずっと王子と姫君は添い伏しておられたから・・・もうすっかりご夫婦の間柄だとばかり。姫君は昨夜,初めて・・・でしたのね。 王子は昼頃、キャロルの許を訪れた。キャロルは頭から掛布を引きかぶり、王子の手を邪険に払った。 どうしたのだ?気分が悪いのか?皆が・・・心配しているぞ。さぁ、強情を張るな。顔を見せてくれ。 沈黙。漏れ聞こえるすすり泣き。嫌い,嫌い,大嫌い。汚らわしい,恥知らず・・・!いっそ私を殺して・・・!死んでしまいたい! そなたは私を許し難き汚らわしい男と思っているのであろうな。そうだ、私は自らに科した禁を破り、そなたを抱いたから。・・・可哀想なことをしたと思っている。 だが、謝りはせぬ。そなたを愛しいと思うからこそ妻にしたのだ。私はそなたが望むような兄のような男には・・・そなたにとって都合の良い男にはなれぬ。 さぁ・・・姫。 王子はやがて諦めて出ていってしまった。 頭をもたげたキャロルの枕元に、既婚女性が着ける飾り帯が置かれていた。正妻に贈られる美しい品。だがキャロルはそれに触れようともしない。 ひどいわ。王子。信じていたのに。嫌って言ったのに。あんな人を兄さんのように思っていたなんて・・・。好きだと思っていたなんて。 キャロルは王子が好きだった。そして彼女とて女。いつかは王子と結ばれるのだ・・・と無意識のうちに漠然と感じてはいただろう。しかし王子は性急で・・・あまりに性急で・・・年よりも幼いところのある少女はただ混乱している。 王子は妃としたキャロルを今まで以上に愛しく思い、大切に大切にした。婚儀の準備を進め、ヒッタイトで何の財産的な後ろ盾もない彼女のために、自分の領地の一部をキャロル名義のそれに変えたりした。キャロル個人の倉庫が決められ、様々なものが潤沢に蓄えられた。 全ては王子の心遣いである。 だがキャロルは王子に心閉ざしたままで、同席すらも避けようとする。お付きの人々は、はらはらした。 姫君。いい加減になさいませ。王子に対してご無礼ではありませぬか?王子はこの上もなく姫君を大切になさっておいでですよ。これほどのお扱い、そうはございません。姫君、どうか王子のお腕の中で幸せになってくださいませ。 あの夜以来、王子はキャロルを抱かなかった。相変わらず同じ部屋で眠りはしたものの。王子はキャロルに言った。何もせぬ。そなたが私を受け入れるまで待とう、と。 半月が過ぎ、一ヶ月が過ぎた。キャロルは人々の祝福の呼びかけを知り、王子の優しい心遣いを知るようになってきていた。分かっていたのだ。王子の心は。許せないと思いながらも、王子に惹かれる自分が理解できなかった。 王子はそんなキャロルをただ見守った。 執務に疲れて自分の部屋の露台に座り、ぼんやりとしていた王子の目が優しく塞がれた。いい香りのする暖かな白い手。懐かしい手。王子はおののきながら呟く。 姫・・・? 王子・・・。私・・・お礼を言おうと・・・。いえ、その前にひどいことを言ったお詫びを・・・。 あなたが私に色々と気遣ってくれたことを知ったの。わ、私が弄び者と思われないようにって。私がここに馴染めるようにって。その他いろいろと。 あの・・・ありがとう。本当にありがとう。 姫・・・。 だから・・・私、ここにいるの。ずっといるの。でも・・・私以外の人に私にしてくれたみたいなこと・・・しないで。したら・・・許さないから・・・。 姫・・・。ああ,そなたは私の所に来てくれたのだな・・・。 王子は優しくキャロルを抱きしめた。王子にそっと接吻するキャロル。長い長いひとりぼっちの日々がやっと終わった二人・・・。 キャロルは真剣な顔で机に向かっていた。 王子がにわかに教師となってキャロルにヒッタイトの文字を教えたのだが、考古学好きのキャロルは砂地が水を吸い込むように急速に新しい知識を自分の物にしていった。 書物の内容はヒッタイトの歴史や地理産業に関するものや、算術教本、簡単な法律集などなど。女性好みであろう、と王子が気を回して新しく買い求めた音楽の書物や伝説を集めた書物などもある。 傍らには蝋板。文字は読めるだけでは意味がない。書けるようにもならなくてはいけないのだ。キャロルは王子の文字をお手本にして練習に励む。文字、文字を組み合わせた文章。 王子がキャロルに学問を教えるのは執務の合間。いつも見ていてやるわけにはいかないこの生徒に王子は宿題を出す。書き取り、算術・・・。 女性の読み書きなどあまり重視されなかったこの時代だが王子はキャロルにしっかりとした教養も求めた。お付きの人々はこの睦まじい教師と生徒のやりとりを微笑ましく思っていた。 (これでいいかしら?) キャロルは仕上げた宿題を見直した。書き取りに計算問題。書き取りは自作の定型詩。キャロルにはまだ押韻が難しい。 計算問題はキャロルにしてみれば簡単なものだったが、王子に教えられたヒッタイトの数字を使わずに、慣れたアラビア数字を使って20世紀のやり方で解いたものだ。 さらさらとこぼれ落ちてくる金色の髪を掻き上げながら鉄筆を手に蝋板を見つめているキャロル。部屋の入り口で王子はまぶしく見つめていた。 「姫・・・熱心だな。」 「きゃあっ、王子・・・。驚いたわ。いつの間に?・・・見て、宿題はできたわ!」 自慢そうに蝋板を差し出すキャロル。王子としてはもっと恋人らしいやりとりを期待していたのだが、この優秀な生徒は目の前の眉目秀麗な男性を教師としか見ていない。 「ふん・・・どれどれ。」 王子は差し出された蝋板を見た。几帳面に書かれた小さな文字。王子と同じに少し右上がりなのは王子の手跡を手本にしているからか。 定型詩は浅い春の美しさを描いたもの。遠くに消え残る雪。暖かな日差し。 まだ冬の名残をとどめる風に混じる花の香り・・・。 「ふむ・・・よく書けている。まぁまぁの出来だ。それに計算・・・。これは? 答えは合っているがこの記号は?」 キャロルは少しはにかみながら王子にアラビア数字と、それを使った筆算の説明をする。 「ほう・・・。こういうやり方もあるのか。なるほど。分かりやすいな。桁数が増えても簡単だ。そなたはこういうことも知っているのだな!」 王子はすっかり感心して言った。素直な生徒は褒められたのが嬉しくて頬を染めている。 その日、王子はキャロルに竪琴を教えた。キャロルは飲み込みが早いので王子が横笛を吹くと何とか合わせることが出来るようになっていた。 薄紅色の指先が銀色の弦を弾くのに思わず見とれる王子。笛の調子が乱れてしまう。 「王子?どうしたの?珍しいのね。何か心配事でも?」 「いや・・・何でもない。」 王子は髪を掻き上げるキャロルを見つめていたが不意に膝に抱え上げた。戸惑い暴れるキャロルに言い聞かせる王子。 「おとなしくいたせ。髪が・・・。私が邪魔にならぬよう編んでやろう・・・。 櫛はどこだ?」 王子はそっとキャロルの髪を梳り、一本のお下げに編んでやる。 「これはまた・・・うっとおしいほど豊かな髪だな。しなやかで・・・。ふふ、編もうとしても指の間からこぼれてしまう・・・。」 王子は長い時間をかけて愛しい少女の髪の毛を編んでやった。キャロルは恥じらい 体を強ばらせている。 「できた。これでよい。あとでもっと良い髪の飾り紐をやろう。」 王子は自分の髪の毛をまとめていた革紐でキャロルの髪をまとめてやりながら言った。 「あ、ありがとう。」 キャロルはそれだけ言うのがやっとだ。王子の手が、王子の吐息が、王子の笑みがキャロルを恥じらわせる。王子の優しい視線がキャロルを戦かせる。 「よく似合う。」 王子は照れ隠しのように素っ気なく言った。王子はキャロルに告げていない。 ただ梳き流しただけの髪は夫を持たぬ少女の印。鏝で縮らせたり、編んで垂らしたり・・・手を加えてまとめた髪は夫を持つ女性の印。 (そなたは私の妃だ。まだ幼いそなたが不憫で抱かずにいるが・・・だが、そなたが本当に私の妃となる日は近いのだぞ?) 王子の心はもはや妹を守る兄のそれではない。キャロルはそれを知らぬげに優しく無邪気に王子に微笑みかけるのだった。 |