『 ある夜 』

―放って置いて、もう。私に構わないで。疲れてしまったの。何もかも嫌。
どうして私を一人にしてくれないの。どうして誰も私を迎えに来てくれないの?どうして・・・?

慣れぬ旅路。疲労と緊張はとうに臨界を越えていて、猛烈な怒りと無気力な絶望が重く痛む頭の中を駆けめぐる。
キャロルはいつものようにイズミル王子を避けるように天幕の隅に寄ったが、いつの間にか眠りと覚醒の狭間を漂いだしたらしい。

―ああ・・・疲れてしまったの。いつもいつも張りつめていることに。
侮られないように、つけ込まれないように、騙されたり傷つけられたりしないように、上手く逃げ出せるように・・・。
あらゆることを観察して、考えて、自分で決めて、動いて、失敗して、また最初から考え直す。でもその先に何があるの?ちゃんと20世紀へ帰れるの?
全ては徒労ではないの・・・?

苦しげに身を丸めて泣きむせぶ少女の汗に濡れた額髪を王子は気遣わしげに掻き上げた。
(そのように眠りながら泣くのか、そなたは。何も言わず、ただ怒ったように全てを胸に納めて、張りつめて我慢して、そして泣くのか)
故郷に連れ帰ってやるから・・と見え透いた甘言でエジプトからさらってきた神の娘に本気で恋をしてしまったのは王子の方だった。
初めて愛しいと思った相手を喜ばせるためには何でもしてやりたいと思っていたが、自分の手許から離すことだけは絶対にできない。
(私がそなたを愛することは、そなたには苦しみにしかならぬか)


「しっかりいたせ・・・。悪い夢を見ているのだ・・・」
王子はしばらく迷った後、うなされる少女に口移しで水を飲ませた。
細い眉根が苦しげに寄せられ、青い瞳が濃い睫の下から覗き、自分を見つめる。王子は心が妖しく騒ぐのを感じた。
自分を嫌い、いつも身を固くして逃げ出そうとする相手なのに、決して報われぬ自分の想いなのに、それでも心は喜びに震える。
「あ・・・」
冷や汗に肌を湿らせ、まだ完全には覚めきっていないキャロルの背中を王子は優しく撫でた。
「大丈夫だ。もう大丈夫だ。そなたは疲れているのだ・・・」
キャロルが連日、眠らずにいて食事も殆ど摂らないのは自分のせいだ、と王子は初めて心から済まないと思った。
キャロルを苦しめるのは本意ではないのに・・・。
食べないせいか窶れて一回り小さくなったようにも思える華奢な身体を王子はそっと抱きしめた。
「大丈夫だ。そなたが嫌なことは何もせぬ。だから今夜だけは普通に眠ってくれ。そなたは私を恨んでいるのだろうが、私はそなたを苦しめたいと思ったことは一度もないのだ」
王子の抱擁は暖かで穏やかで、疲れ切ったキャロルはその安らぎを拒否することはできなかった。
王子は自分の胸に顔を埋め、無言のキャロルを気遣うように問うた。
「・・・・怖い夢を見たのか・・・?」
その夢を見させたのは自分の身勝手な、しかし決して譲れぬ望みゆえではないのかという恐れが彼を戦かせる。


キャロルはしばらく無言であった。王子は祈るような気持ちで返事を待った。
やがて。
「夢・・・。いいえ、ただ疲れて無性に悲しくて。夢とは違うわ。ひとりぼっちなんだって思ったら居たたまれなくて・・・」
「そうか・・・」
王子は叫びたかった。そなたは一人ではない、私がいるではないかと。だがそうすればきっと自制心は吹き飛び、胸の中でおとなしくしていてくれる相手を恐れさせるだけだろう。
「・・・・姫、せめて今宵だけはゆっくりと眠り身体を休ませよ。私がそなたが怖い夢など見ぬように守ってやるから。
そなたは疲れているのだ。せめて今宵だけは頑健な鎧を脱ぎ、休息を・・・」
王子の声は優しかった。キャロルは初めてその声の中の誠実さ、優しさに気付いた。
キャロルはすくい上げるように王子を見上げた。茶色の瞳が慈しみ包み込むように自分を見つめている。
そこにはキャロルがいつの間にか自分の中で育て上げた想像の怪物―冷酷で計算高い恐ろしい男、自分を滅茶苦茶に辱めるであろう男―のような王子はいなかった。
(・・・これも夢かしら?ライアン兄さんが私を抱いていてくれているみたい・・・。暖かくて安心できる。
そうね・・夢でも何でもいい。今はここが心地よい)

キャロルはじきに深い安らかな眠りの中に引き込まれていった。イズミル王子は聖なる物をみるような一種敬虔な気持ちで愛しい者の寝顔をいつまでも飽かず見つめていた・・・。

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