『 甘い悪夢 』



    ------あ…、いや!王子、はなして!------


              ------やめて…苦しい。息ができない------


「キャロル!キャロル!起きよ!目を覚ますのだ!」
 ようやく声は夢うつつの中に届いた。
(あ……)
 キャロルはたくましい胸のなかに飛びこみ、もがくようにその声にすがりつく。
「やっと目覚めたか」
 恐ろしい出来事はすべて夢なのだという確かな実感が欲しくて、何度も愛しい男の名前を噛みしめるように繰りかえす。
「メンフィス。メンフィス…」
「キャロル、そのように怯えて泣くとは」
「メンフィス、お願い…、もっと強く抱きしめて…」
 そんなことは言われるまでもない。メンフィスはその小さな体を包む腕に力をこめる。
「安堵いたせ、私がここにいる」
 キャロルはその言葉に頷きながら、心のなかで自分に言い聞かせる。
(そう、大丈夫よ。メンフィスがここにいる。ここにメンフィスがいてくれる……
いま私に温もりを与えてくれるのはメンフィスの腕だわ……王子じゃない…)
 この腕に守られながら眠っているというのに、それでも幾度もこんな夢を見てしまう。
彼女にはそのことが自分でも解せなかった。
「キャロル、そなたはこの頃よく夢の中でうなされている」
「……」
「一体どのような夢を見ておるのだ。なぜに夢の中で泣き、そのように怯え震えておるのだ」
 本気で心配しているメンフィスの気持ちが、自分をのぞき込んでくる瞳からひしひしと伝わってくる。だからこそなおさら…
(言えない。なんの夢を見ているかなんて言えるはずが無いわ…)


「あ…、あの…、私も覚えていないの」
「そんなはずはあるまい。申せ」
「ほ、本当に思い出せないのよ」
「この私にそのような言い訳が通用すると思っておるのか!なぜに私に偽りを申す!」
(どっ、どうしよう。メンフィスは今夜こそ何としても夢の話を聞き出す気だわ)
 夫の表情を見て、下手な作り話では納得しそうもないことを彼女は感じとっていた。
「よいな、今宵は正直に話をするまで眠らせぬ」
 キャロルはとうとう観念したように静かにため息をついた。
それと同時に彼女自身も、このところ幾度となく苦しめられている夢の話をメンフィスに聞いてもらうことで、心の重荷を降ろせるような気がしはじめていた。
「メンフィス、怒らないで聞いて欲しいの。
この頃…、わたし…、あのう…イ…、イズミル王子の夢をよく見るの……」
「なにっ!」
 メンフィスの瞳が一瞬にして熱さを持った。
「メ、メンフィス、そんな怖い顔をしないで」
「うるさい!よりにもよってイズミルの夢を見ているだと!キャロル!一体どのような夢なのだ!」
 その剣幕に押されてキャロルは話を続ける。
「夢のなかで私は、いつもひとりで立っているの。場所はね、それはもう色々なの。
朝露に輝く草原のときもある。木漏れ日の森のなかにいるときも。星夜の海は波の音まで美しかったわ」
 キャロルは自分でも気がつかないうちに、愛らしくうっとりとした顔になってしまっていた。
メンフィスは口元を険しく結んだ。イズミルの夢と聞かされたうえでキャロルにこのような表情をされては、男としてどうにも面白くない気持ちになる。
思わず怒りの言葉が出そうになるが、むりやりそれを飲み込む。
とにかく今はキャロルに話をさせなければならない。
「……そう、夢はいつも美しい景色に包まれてはじまるわ。そこで私はいつも一人きりで見とれているの。
今夜の夢は満月の光のもと、それはそれは美しい夜の雪景色が広がっていたわ。
その白い世界にすっかり心魅せられているときに、突然…、あのう…」
 にわかにキャロルの口が重くなる。


「突然どうしたというのだ。早く申せ」
「だから…、あのう…イ…、イズミル王子が現れて…、私の体を強い腕でからめとって…。
あのう…と、とにかくそんなふうに…、いつも夢のなかでは、…王子が私を連れ去ろうとするの…」
 キャロルにはその続きを声にする勇気などなかった。
(そしていつも王子に狂おしく抱きしめられて、息もできないほどの激しいキスをうけている……)



  ------愛しき姫よ、我が腕のなかで生きよ。決して後悔はさせぬ。

     生涯かけて、そなたを幸せにしようぞ------


 熱っぽくささやかれた言葉、自分の頬に触れていたあの銀褐色の髪の感触、それがキャロルの耳に、頬に、生々しくよみがえる。
 

「イズミルめ」
 憎々しげに唸るメンフィスの声に、キャロルはハッと我にかえった。
「そなたは、あやつに幾度となくさらわれ、恐ろしい目に遭わせられている。
そのときの恐ろしさが心癒えずに、いまだ夢となって現れるのであろう」
 キャロルは、「そうなのかしら…」と小さな声を出した。
「我が妃をこれほどまでに苦しめおって!おのれ、イズミルめ!」
 彼は、しかし…、と一度言葉を切ると、いらだちを持て余したようにキャロルを叱った。
「ええい、キャロル!そなたもそなたぞ!この私の腕に抱かれて眠っておるに、なぜにあの男の夢など見るのだ!」
 夫の迫力ある声に萎縮して、キャロルは言葉もすぐには出てこない。
(ああ、まずいわ。夢の話なのに、こんなに怒りだすなんて)


「ねえ、メンフィス、落ち着いて。これは夢の話なのよ。ねえ、だから……」
 キャロルの弱々しい言い訳は、激しきっているメンフィスの耳に届くはずもない。
「おのれー、この胸のいらだち、どうしてくれよう!」
「メンフィス!なっ、なにを…!」
 メンフィスは寝台脇に置いてある護身用の長剣を荒々しくつかみ取ると、まるでそこに不敵な笑みで挑発しているイズミルの幻が見えるかのごとく、それを投げつけた。
「そなただけは許せぬ!!」
 刃が壁に突き刺さる激しい音が若きエジプト王の雄々しい気性を雄弁に物語っていた。
「きゃあーっ、メンフィス、やめて!」
 イズミルの夢の話などするべきではなかったと、キャロルは後悔しきりである。
 メンフィスは熱い目で睨みつけるかのように見つめながら、うむを言わさぬ力強さでこう言った。
「よいかキャロル、もう二度と私以外の男の夢など見てはならぬ!決してだ!」
 とにかくメンフィスの心を落ちつかせることが先決とばかり、キャロルは彼の無茶な要求にも抵抗はしない。
「ええ、見ないわ。約束するわ、メンフィス」
 そして半ば懇願するような声で夫に言い聞かせる。
「ねえ、メンフィス、明日も忙しいんだもの。もう眠って体を休めておかなくっちゃ…」
「このようにイライラしては眠れぬわっ」
「…ごめんなさい」
 しょげたように謝ってくるキャロルの姿が、メンフィスの胸にはますます愛しく映る。
彼は幼い妻をぐいっと引き寄せて寝台に身を横たえた。
そして、その白く細い体を折れんばかりに抱きしめながら、腕のなかの愛しいぬくもりに言い聞かせる。
「つまらぬ夢など見ぬように、もっと私に絡みついておれ。そなたは私だけのもの。
夢のなかだとて、ほかの男に一指たりとも触れさせはせぬ」


「痛(つっ)!」
 それはただの偶然だったのであろうか……
時を同じくして、エジプトから遥か遠くの地を旅する男が、その胸に鋭い痛みを感じて目を覚ました。
彼は美しい横顔に苦痛を残したまま、つぶやく。
「なんと…怒気さえも感じる生々しき痛みぞ…」
 すっかり眠気に去られてしまい、男は天幕のなかで横たわっている気もしなくなり、ゆっくりと外へ歩み出た。白く曇る息のむこうには、眠る前に見つめていた世界が一面、いまだ静かに彼を待ち続けていた。
「まこと美しきことよ…」
 しかし男の瞳は美しい景色を楽しむそれではなかった。
目の前の光景が美しければ美しいほど、彼は己の孤独を思い知らされるだけなのである。


   姫よ…
   …恋しくてたまらぬ……
   その柔らかき温もりを我が腕に抱きしめながら、この美しき世界を見つめてみたいものだな……


 それは美しい景色に出会うたびに繰り返してしまう胸の中のささやき。遥かな想い。
しかし今宵、無情にも彼に与えられるのは冷たい風だけであった。
彼の想い人さえもが、その美しさに人知れぬ感嘆のため息を漏らしたという、長い銀褐色の髪。
それを揺らしながら凍った風が頬をかすめて去っていく。満月の光が降りそそぐ、遥かに広い白い世界に。

おわり

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