『 808さん其の2 』 (注意!やおい的描写があります)⇒やおいって何? 王子が客人として招かれた異国の宮殿で王子のために用意された部屋の窓の外を護ることはルカには慣れた務めだった。 ただ、それぞれの国を訪れて一日目の夜はいつも、流石にルカでも気が張った。 不案内な邸内で、自分とは異なる目的で窓から漏れる音に聞き耳を立てている輩の気配を嗅ぎ取らねばならないのだ。 そして、自分の気配を嗅ぎ取られてはならない。 今日もルカは、冴えた五感で、邸内を熟知する者の油断がにおう間者の存在とそれが殺気を放っていないことを、確信を持って感じ取っていた。 ふと、間者の気配が消え、ルカは神経を集中させた。 が、しばらく経っても間者の気配は戻って来ない。 どうやら窓から漏れる女の嬌声に満足し、主に報せに走ったものと思われた。 尾けるべきだろうか、という疑問が浮かぶのとほぼ同時にあれは小者、という判断が働き、ルカはその間者を忘れて再び窓に神経を向けた。 いつもより気が張りつめていたせいだろうか。それが一瞬弛んだせいだろうか。 いつもなら記号として聞き流せる女の声に自分の鼓動が早まるのをルカは感じた。 声を上げる女に欲情したわけではない。その声の上がる間隔が、ルカにルカの身体が覚えている王子の指、王子の唇の感触を生々しく思い出させたからだ。 王子に抱かれる女達に嫉妬したことは一度も無かった。 ただ王子の存在が、王子がルカに加えた愛撫の記憶が、ルカを悩ませた。 ひときわ高い嬌声が何度か響いた後、窓から一切の物音がしなくなって数刻が過ぎた。夜半、王子は女を起こしたようだった。 女が静かに王子の部屋を出ていく。ルカはその後を追った。 再び王子の部屋の窓のそばへ戻ったルカは、壁を覆う蔦が僅かに風に揺れたかに見えるほどの動きで部屋の中へ滑り込んだ。 「………どうであった?」 「はっ。女は王弟の宮に戻りました」 「やはり、な……実のところ、この国を動かしているのはあの王弟と見える」 「女は将軍が西の間道に待機させている兵達のことを告げていました」 「ふ…やはり将軍からの手紙を読んだか……しかし、ただ者ではないぞ。 この手紙にはいくつか罠を仕掛けておいたが、全く手をつけた跡を残しておらぬ」 「無論いずれもありきたりの罠だが…急に間者の真似を命じられた ただの踊り子であれば、容易くかかるはずの罠だ」 「…何と仰ってあの女を下がらせたのですか?」 「一人でなければよく眠れぬ、と言った。 …このわたしがあまり無警戒なのも、却って怪しまれるであろうしな」 「あの王弟、なかなか面白い人物のようだ。……小さな餌を与えておいて いずれ大きな罠で捕らえるか…あるいは、有用な同盟者にできるかもしれぬ」 「あの女も王弟自身が仕込んだようだな…たいしたものだ。間者としても、」 クッ、と王子は喉を鳴らし、肩を揺らした。 「大概の男なら驚くようなまねをしてみせたぞ…わたしも驚いてやったが」 「……………」 ルカは、女が喘いでいた間、王子の声は話し声と喉の奥でくぐもるような笑い声しか聞こえてこなかったことを思っていた。 ルカ自身は、王子が達する瞬間に漏らす低く掠れた声を幾度となく耳のそばで聞いたことがあった……。 「では、わたくしは、戻ります」 裸の上半身を起こして報告を聞いていた王子が眠そうに身体を横たえるのを見てルカは小声で挨拶し、窓の方へ後ずさった。 「……行くな…」 半ば俯せに横たわったまま、ルカの方を見もせずに王子は言った。 「はっ…しかし……」 「………眠りたいのだ」 王子の言う意味をルカは理解した。 王子はいつも、眠っているときも警戒を解かない。どこか神経を澄ませている。 だが、ルカが、ルカだけがそばに居るときは、王子も "本当に眠る" ことができるのだ。 王子は家臣達の前では決して疲れを見せることは無い。 が、自分は王子の疲労を察することを許されている。 そのことは、不思議なほどルカの心を暖めた。 ルカは剣を外して手に携え、寝台の足下近くに腰を下ろそうとした。 「…ここへ来い」 「………」 胸が、つ、と痛んだ。王子が自分を抱くつもりが無いのはわかっていた。 ルカは黙って剣を寝台の脇に置き、自分を寝台の中の王子の傍らに滑り込ませた。 「ふ……そなたの匂いだ…」 「!…申し訳ございません!」 ルカは慌てて自分の身体を王子から遠ざけ、寝台の端に寄ろうとした。 だが、王子は、有無を言わせずルカを引き寄せ、細かく波打つ枯れ草色の髪に顔を埋めるようにして、その細身の体を抱え込んだ。 「…よい………そなたの匂いはいつも変わらぬ…だからわたしは……」 言い終えぬうちに、ルカの身体に巻きつけられた王子の腕には意識の無いものの重みが加わった。 ルカは苦しかった。 王子の眠りを妨げぬよう、静かにゆっくりと呼吸するのが難しかった。 背中を向けていても、腕の良い職人が心血を注いで細工したような王子の端正な美貌が鮮明に脳裏に浮かんだ。 伸びやかな四肢と、無駄なく鍛えられた引き締まった体を正確に思い描くことができた。 だがルカは、それらを思い浮かべる度に自分を襲う切ない渇望を王子に知られたくなかった。 他の家臣達には一兵士にまでも細やかな心遣いを見せる王子がルカにだけは別人のように厳しいのを同情する者達もいる。 だがルカは、王子が自分に飾りつけた労いの言葉をかけないのは、王子が二人の間に、別々の人間の間には当然あるはずの感情の隔てを感じていないからだということを知っていた。 事実ルカは、王子がそれを表に出さなくても、王子の感情の変化を読み取ることができた。 王子の考えることはルカにさえ推察できないほど深く鋭いことが多かったが、それでも王子の心の色合いは、自分の心のように感じ取ることができた。 ルカの報告を受けるときの素っ気ない態度が余人には困難な任務をルカが成したことを当然としか受け止めない絶大な信頼に根ざすものであることも知っていた。 それは、王子が自らへの自信から王子の成したことを賛美する者達の言葉を無関心に受け流す態度と 同じものだった。 王子は自分の感情を慰撫する必要が無いのと同じようにルカの感情を慰撫する必要を感じていないのだろう。 だが、王子は、ルカの思いを全て読み取れているわけではなかった。 ルカを抱くとき王子は、ルカが敬愛と忠誠の気持ちから王子の為すがままに身を任せているものと思っているのだろう、とルカは思った。 王子の瑞々しい弾力のある肌に唇を押しつけ、美しい額と聡明そうな眉に自らの指がもたらす変化を認めたいと願っているのはルカの方だとは、王子は夢にも思わないのだろう、とルカは思った。 無論実際には、王子が命じない限り、ルカの方から王子の体に触れることは無かった。 家臣たる自分が主君である王子の肉体に欲望を覚えるなど許されることではないのだから。 窓の隙間から滲む微かな明るさが、ルカにとって苦悶の一夜がもうすぐ終わることを告げ始めた。 常人には全くの暗闇と変わらない部屋の中で、ルカの闇に慣れた目は何の憂いも無いかのような王子の寝顔を見つめていた。 もし刺客の気配にでも神経を緊張させたルカが身体を動かせば、王子も瞬時に目を覚ましただろう。 しかし今は、ルカが身体を起こして王子を見つめても、王子の静かな寝顔には何の変化も表れなかった。 ルカはふと、王子の閉じられた瞳を守る長い睫毛に触れんばかりに指を近づけてみたが、やはり何の反応も無かった。 どうしてそんなことをしたのかわからない。 王子の残酷なまでの信頼にもはや耐えられなくなりそうだったのかもしれない。 ルカは、かつて王子が手ずからルカに与えた短剣を静かに鞘から抜き取った。 そして貴重な鉄で作られたその剣を、王子の喉元に突きつけた。 ………どれくらいそうしていたろうか。 ルカは腕の痺れを感じ−−あるいは痺れていたのは心かもしれない−−誰にも聞こえぬ溜め息をつくと、短剣を再び鞘に収めた。 王子の喉仏は相変わらず規則正しく上下していた。 「王子…お目覚め下さい」 ルカは既に身仕舞いし、寝台の脇に跪いて、小さく声をかけた。 「……う…………ん…?」 さっきまでルカが居たその場所に長い腕を投げ出したまま、王子は身じろぎした。 「表が明るくならぬうちにわたくしは戻ります」 「うむ……」 長い髪は寝乱れたままだったが、寝台に身を起こし、膝に腕をかけた王子はもう覚醒していた。 幾分薄くなった闇の中に浮かぶ王子の傲然とした輪郭を、やはり美しいとルカは思った。 ルカが窓に手をかけた瞬間、背後から王子の声がルカの耳に届いた。 「…よく眠れたぞ」 感謝の飾りを持たないその心からの労いの言葉を、痛みとともに胸にしまいながら ルカは窓を後にした。 |