きしきしと軽い音を立て、男は廊下を歩いていた。
右手に大きな包みを抱え、上機嫌に鼻歌など歌いながら進んでいく。
そしてちょうど一曲歌い終えたところで、彼はぴたりと足を止めた。
空いた左手でさっと着物を整え、主君の部屋に向かって声をかける。
「殿、入ってもよろしいですか」
返事はない。
人の気配もない。
うすうす結果を予想しながらも、彼は障子をそっと引く。
文机や本や薬研や細工道具は出迎えてくれたが、肝心の主君は不在らしい。
「・・・やれやれ、またか」
障子を元通りに閉め、男は再び歩き始めた。
少しも迷うことなく真っ直ぐに、この御殿の中で一番大きな部屋に向かって。
中庭を抜け、道を曲がると離れが見えてきた。
母屋に比べて規模の大きいこの場所は、もともとは鍛錬の場として使われていたそうだ。
もっとも、今ではそんな使い方はできそうもないが、と思った彼の耳に誰かの話し声が届いた。
やはり彼の主君は離れにいるようだ。
「殿、こちらにおいででしたか」
一応声はかけるが、今度は返事を待たずにさっさと戸を開けてしまう。
普通ならば無礼なその行為を咎めることもなく、探し人はその丸い瞳で彼を見返した。
「なんだ、珍しいな元忠。何かあったのか」
戦国最強と謳われる鋼鉄の武人に預けていた身体を起こして、鳥居元忠の主君――徳川家康は、その手の中にあった本を閉じた。
読書なら母屋の自室でもできるのだが、どうも家康は離れで武人――本多忠勝に寄りかかって読むほうが好みらしい。
「いえ、何かあったってほどでもないんですけどね。ちょっと甘いものでもどうかな、と」
「甘いもの?」
ええ、と答えて元忠は座敷へ上がり、右手の包みを畳の上に置いてからその包みを解き始めた。
外を覆う布を広げ、現れた紙包みをさらに開くと、中から艶やかな琥珀色が覗く。
「みたらしだな」
「そうです。美味いと評判の店のものだとか」
「お前が買ってきたんじゃないのか?」
「酒井さんですよ。あの人あれで甘いもの好きだから」
酒井の名を聞いて家康は納得したように笑った。
近しい者たちの間では酒井忠次の甘いもの好きは有名なのだ。
饅頭をつまみに酒を飲むことくらいは珍しくもないし、彼が菓子を持ってくるときは大抵甘いものを持ってくる。
以前、柏餅と一緒に冷やし飴を出されたときは流石に元忠も家康も閉口したものだった。
「酒井の買ってきたものなら美味いんだろうな」
家康は山と積まれたみたらしだんごの中から一串を手に取り、口に入れた。
「うん、美味い」
「茶でも入れましょうか?」
「茶って言っても」
そこで一旦言葉を切り、家康はだんごをもう一個串から引き抜いて咀嚼しながら続ける。
「ここにはないぞ。水はあるけどな」
「あ、それは大丈夫です、持って来ましたから」
そう言うと元忠は懐から小さな紙の包みを取り出した。
家康が自室にいようが離れにいようが必要だろうと、茶葉をくるんで持ってきたのだ。
それをだんごの隣に置くと、元忠は立ち上がって座敷の隅にある戸棚を開け、中を探る。
「前に確か、酒井さんがこのへんに・・・あった」
湯飲みと急須をいっぺんに片腕で抱えて、戸棚を閉めた。
よろめいて、少しばかり無理があったか、と思った元忠の目の前に鎧に覆われた手が現れる。
鋼鉄の武人は手を差し出したまま、早くそれを渡せというように駆動音を鳴らした。
「あー・・・じゃあ湯飲み持ってってもらえます?」
元忠が答えるとほぼ同時に、忠勝は大きな手で器用に湯飲みをつまみあげて家康のもとへ戻っていく。
それを追う形で元忠も戻り、もとの場所へ座って急須に茶葉を入れる。
家康は串をくわえたまま忠勝から湯飲みを受け取り、自身の前、忠勝の前、元忠の前に順々に置いた。
「湯は沸かさんでいいのか」
「やー、暑いから水出しにしましょう。ちょっと時間かかりますけど」
「そうか。まあ時間がかかるといっても、今から湯を沸かすのと大差ないだろ」
とりあえずお前も食っていけ、と家康は元忠にだんごを差し出す。
元忠が受け取ると家康は山からもう一串を抜き取り、お前もだ、と忠勝に渡す。
「串を噛み切らないようにな」
そう言うと家康はまた元忠の方に向き直った。
忠勝は家康の隣に座ったまま、幾分か慎重な感じでだんごを口に運ぶ。
その様子があまりにほのぼのしていて、元忠は思わず吹き出しそうになるのをこらえた。
笑ったところでこの主君と武人が腹を立てるようなことはないだろうが、口の中のものを撒き散らすのは避けたかった。
「何やってるんだ元忠。下向いて」
「い、いえ・・・何でも」
「そうか」
細かいところや答えにくいところを追求しないのがこの人の良いところだ。
そう思いつつ元忠は急須のふたを取って葉の開き具合を確認する。
こよりのようだった茶葉はだいぶほぐれている。そろそろ飲み頃だろう。
「・・・」
「忠勝、好きなだけ食べろよ。お前は身体が大きいんだからな」
「・・・」
「なんだ?・・・ぎゃっ!」
突然聞こえた妙な声に驚いて、元忠は顔を上げた。
そして、前を見たその姿勢のまま、固まってしまった。
なにせ、目の前で主君が口元を舐められているのだ。
誰に、というのは言わずもがなである。
元忠でなければこの場にはひとりしかいない。
武人はその鋼鉄の手で主君の頬を軽く押さえ、もう一度口元を舐めた。
いたたまれない気持ちやら何やらがないまぜになって、元忠は危うく急須をひっくり返しそうになる。
しばらくすると忠勝は家康から手を離し、何事もなかったかのように座り直した。
家康はといえば、額に手を当ててため息などついている。
「・・・あー、あのな、忠勝」
ちらりと元忠を見て困ったような顔をしてから、家康は忠勝に話しかけた。
「お前は、目的は分かるんだが・・・手段にちょっと問題があるな」
忠勝は真っ直ぐ家康の顔を見つめ、小さな機械音を漏らした。
なんとなく困惑しているような頼りない音だ。
元忠はようやく事態を把握できてきた。
・・・要するに、忠勝殿は殿の口元を綺麗にしてあげたかったわけだ。
おそらく、指で擦るのは危険かもしれないと判断したのだろう。
注意されなければだんごの串を噛み切ってしまいかねないくらいに、かの武人は力が強いのだから。
しかしそこで『舐め取る』という選択肢が出てくるあたりが普通ではない。
「・・・忠勝殿、せめて人前では控えた方がいいですね」
「というか、わしは口くらい自分で拭くぞ」
「・・・」
急須をそっと揺すって、元忠は湯飲みに茶を注ぐ。
順に注ぎ終えると、早速一口目を口に含んだ。
「ああ、なかなか良く入れられました。殿も忠勝殿もどうぞ」
「ん、そうか。悪いな元忠。ほら、忠勝も飲め」
こくりとうなずいて湯飲みに口をつける武人とその隣の主君はついさっきの事など忘れたように落ち着いている。
これからも呑気に茶と菓子を楽しむのだろうし、元忠が帰った後にはきっとまた主君は武人に寄りかかって本を読むことだろう。
まあ、これでいいんだろうが・・・やはり忠勝殿にはもっと常識というものを知ってもらわなければならないだろうな。
そっと苦笑を浮かべて、元忠はいまだ山盛りのだんごに手を伸ばした。
おしまい