ある、よく晴れた日のこと。
本多忠勝は屋敷の縁側に座り、暖かく降り注ぐ日差しを浴びていた。
隣には彼の主君も座っており、何を見るでもなくぼんやりと前を向いている。
家康はあいも変わらずぼんやりと前を向いたまま、ぽつりと呟いた。
「なあ、いい天気だなあ」
忠勝は家康に顔を向け、こくりとうなずいて返す。
それを気配で感じ取って、家康はさらに口を開く。
「わし、こんな日は大好きだ」
そしてやはり前を向いたまま、幸せそうに顔をほころばせた。
本当に、心底幸せそうに。
その様子を見て、忠勝の口元もほんのわずかに緩む。
――昔が嘘のようだ。
会った頃の家康――当時は松平元康という名だったが――はなかなかこんな風には笑わなかった。
昔のことは新しい出来事に塗り替えられてあまり思い出せないが、それでもひとつ、あのことだけは忠勝は一生忘れない。
わざわざ迎えに来てくれた酒井忠次に案内されてたどりついた屋敷の庭先にその人はいた。
忠勝がこれから仕えることになるその人は、小柄な身体に若緑の小袖をまとい、淡く色づいてきた紅葉の樹を見上げている。
酒井が声をかけると、彼はくるりと身体を反転させて忠勝の顔を見、にこりと笑って言った。
「お前が忠勝か」
声は明るく、笑った顔も自然――に見えるのだが、どこか翳りがある。
それは決して初めて会う者への警戒や緊張ではなく、忠勝の顔の右半分を覆う火傷への嫌悪でもない。
だが、その翳りを表現できる単語は浮かんでこなかった。
もっとも、思いついたところでどうにもならないが。
忠勝はその場にひざまずき、静かに頭を垂れた。
「元康様」
「うん、分かってる。・・・お前は喋れないんだったな」
「・・・」
「酒井から聞いている。いろいろあるだろうが、悪いようにはしないつもりだ」
そう言った元康の顔をわずかな間だけ見つめ、忠勝は再び頭を下げた。
貴方様にお仕え致します、と動作で表したつもりだったが通じているだろうか。
顔を伏せた忠勝の視界に入り込むように元康はしゃがみこんだ。
そしてもう一度、笑顔を浮かべて言った。
「それじゃ、これからよろしくな」
その表情からはやはりうっすらとした翳りがにじみ出ているように見えた。
次の日、忠勝は元康の屋敷を訪れた。
仕えることになったとはいっても身の周りの世話を任されたわけではない。
身の周りの世話など、すでに元康に仕えている酒井忠次や鳥居元忠だけで事足りる。
むしろあまり大所帯になってしまってはかえって不自由なことが起こりかねない。
なにせ元康の立場は一国一城の主ではなく、あくまで『人質』なのだから。
そのため、忠勝が元康に仕えるといっても実のところは名義だけの主従関係になってしまっている。
さらに忠勝の家から屋敷までの距離は決して近いとは言えず、そのあたりのことは酒井も元康も存じている。
言ってしまえばやるべき仕事のない忠勝はわざわざ屋敷を訪れなくともかまわない――実際に昨日、そう聞いた――のだが。
それでも、例の翳りがどうにも引っかかって、じっとしてはいられなかった。
忠勝の姿を認めて近づいてきた酒井に、挨拶代わりに一礼する。
酒井は少しばかり驚いてはいるが、元康様にお会いしてもかまわないか、と伺いをたてると快諾してくれた。
どうやら忠勝が訪れてきたこと自体は喜んでいるようだ。
今日も元康は庭にいるという。
再度酒井に礼をしてから庭に行ってみると、昨日と同じように紅葉を見上げている元康がいた。
昨日と違うのは着ている小袖の色くらいだ。
元康は忠勝に気づくと、わずかに驚いたような素振りを見せて近寄ってきた。
「どうしたんだ、お前。用があるわけでもなかろうに」
忠勝は矢立を取り出し、帳面にさらさらと書きつけて元康に差し出す。
『用がなくては来てはなりませぬか』
「・・・いや、そんなことはないが・・・」
『ご迷惑ならば帰ります』
書かれたその言葉にしばし見入った後、元康は忠勝の顔を見上げる。
困ったような表情だったが、存外さっぱりとした口調で答えが返ってきた。
「・・・帰らなくていい」
忠勝はこくりとひとつうなずいて、了解の意を示した。
それを見た元康はまだ少し困ったような顔をしながらも縁側に腰掛け、忠勝を呼ぶ。
言われるままに忠勝はその隣に腰を下ろした。
途端に場が静かになり、元康はわずかに身じろぎする。
「あー・・・その、調子はどうだ?」
「?」
「困ったこととかはないか?」
昨日の今日で困ったことなどそうそう起こりそうもないものだが。
というより、元康のほうが今現在困っているのではあるまいか。
『いえ、何も。お心遣い痛み入ります』
「そうか・・・酒井や元忠とはうまくやっていけそうか?」
『まだ分かりませぬが、お二人には良くして頂いております』
元康はもう一度そうか、と答える。
多少表情は和らいだようだ。
いくぶん穏やかなこころもちでそれを見つめ、忠勝はさらに文を書いて渡す。
『元康様にとってお二人は大事な人なのですね』
その途端、元康はぎくりと顔をこわばらせて忠勝を見た。
そしてすぐに目を伏せ、小さな声でああ、と答える。
弱々しく、震えているような声だった。
もしや自分は何かいけないことを聞いてしまったのかと思い、謝罪の言葉を書こうと筆をとると、元康がそれを押しとどめた。
「書くな。何でもないから・・・謝らなくていい」
そう元康は言うが、さっきの様子はとても何でもないとは思えなかった。
しかし、その手をむげに振り払うこともできなくて、心のうちを伝えられそうにはない。
元康はまだ忠勝の手を離そうとはせずにただ、いいんだ、と呟いた。
忠勝はあきらめて筆を置くことにした。
その気配を敏感に感じ取って元康は手を離す。
そして、沈黙の入る隙を与えないかのように話し始める。
「喉が渇いたな。茶でも飲まんか」
「・・・」
申し出には素直に頷いたものの、忠勝の心には割り切れない思いが残った。
元康はすでに部屋に入り、自ら茶を入れる準備をしている。
湯飲みが四つ出ているのはおそらく酒井と元忠のためだろう。
やはり、酒井も鳥居も元康にとって大切な人なのだ。
そうでなければ、わざわざそんなことはしない。
ならばあの反応は何だったのだろうか。
その疑問は解決せぬまま夕刻が訪れ、『明日も参ります』と約束を取り付けて忠勝は帰途についた。
次の日も約束通り忠勝は元康のもとへ赴いた。
特に用事があるわけでもないので、あいも変わらずぽつぽつと話すことしかしない。
そして夕方になれば明日も来ると言い置いて帰る。
思い返してみればずいぶん強引なことをしたものだと今では思う。
だが、最初のうちは少しばかり不審そうにしていた元康も、毎日通ううちに打ち解けてきた。
話す内容も忠勝の仕官に関することからだんだんとたわいのない話に変わっていった。
紅葉の、瞼の裏に染みこむような赤色が好きだ、とか黄色なら紅葉より銀杏だな、とか話したことを覚えている。
忠勝が自分は全くしゃべれないわけではなく、かすかな声ならば出せないこともないと教えたのもそのころだったか。
さらにその後には、沈黙を痛いと思うこともなくなり、ただ並んで静かに時を過ごすこともあった。
それに伴って、初めのうちは様子を見に来ることが多かった酒井や元忠は、たまにしか来ないようになった。
忠勝殿が来るようになってから元康様の心配をしなくて済む、と元忠はよく笑っていたものだ。
また、自分から明日の約束を取り付けることもなくなった。
忠勝が言い出すよりも先に元康が明日も来るか、と尋ねるようになったからだ。
仕官し始めてからひと月ほど経ったころ、いつものように忠勝は元康と約束をして屋敷を辞した。
そして次の日、酷い雨が降った。
その日、朝からすでに降り始めていた雨はあらゆる景色を覆い隠し、あらゆる音を飲み込んで降り続けた。
このあたりは後から酒井たちに聞いたことなのだが、そんな天気にも関わらず元康は障子を開け放して庭を眺めていたそうだ。
縁側ばかりでなく座敷の中まで濡れ始めるし、当然障子のそばにいる元康も濡れる。
だが、どんなに酒井や元忠がたしなめても元康はそのまま、まともに見えるはずもない庭を見ていた。
座敷の中のほうへ連れて行こうとしても動かない、障子を閉めてもいつのまにか開けてしまう。
仕方がないので、二人はせめて元康が少しでも濡れぬようにと幾枚かの小袖を羽織らせた。
だが、それもどれほど効き目があるものかは疑わしかった。
それでも、元康はただ庭を見ていた。
昼を過ぎても雨の勢いは衰えなかった。
むしろますます周り全てを飲み込むように降り続ける。
元康の羽織った小袖はすでに水びたしになって用をなさない。
新しい小袖を出し、濡れたものと取り替えはするものの、着せたそばから濡れていってしまう。
着替えの途中、元康は何度もくしゃみをした。着替え終わってからもそれは小刻みに続く。
よく見れば肩の辺りがわずかに震えていて、身体が冷え切っているのは明らかだった。
それでもまだ動かない元康に、二人は強硬手段に出た。
震える元康を抱え上げ、なかば押さえこむようにして寝室へと連れて行く。
身体を拭いて夜着を着せ、さらに綿入れを着せて布団をかぶせた。
元康は力なく暴れていたが、しばらくするとおとなしくなった。
それを見届けた酒井と元忠はとりあえず一息をつく。
お互いに仕事も残っているのだが、抜け出されてしまっては意味がない。
とりあえずは見張りもかねて、半刻ごとに交代で看病をすることにした。
氷水で冷やした手ぬぐいを額に乗せ、布団をしっかりと肩までかけてやる。
手ぬぐいがぬるくなってきたら冷えたものと取り替え、ぬるくなった方をまた水に漬ける。
そんなことを繰り返すうちに、床についてなお落ち着かなかった元康も、次第にうとうとし始めた。
雨はいまだに勢いを弱めることすらせず、今日のところは医者も来れそうにない。
せめて手ぬぐいは冷えたものを、と桶をかき回すが、氷はほとんど溶けてしまっている。
・・・元康も眠っているようだし短い間だから、とそこで席をはずしたのがいけなかった。
戻ってきたときには、元康はもうそこにはいなかった。
元康が先刻まで座って動こうとしなかった座敷には誰もいない。
ならばと屋敷の中を手当たり次第に探したが、それでもどこにもいない。
まさかと思って庭を見ると、降りしきる雨の合間にかすかに人影が見えた。
打ちつけるような雨の中、ぽつん、と。
水に濡れて重くなったのだろう、足元に綿入れ羽織を落として、静かに元康はたたずんでいた。
酒井と元忠は焦って駆けつける。
走りよってくる二人分の足音にも元康は反応を見せない。
元忠に肩をつかまれても、少しうつむいたままじっと立っていた。
それを見て酒井はわずかに辛そうに顔をゆがめ、しばらく逡巡した後、口を開いた。
「元康様、お戻り下さい。・・・忠勝殿は・・・」
「来んか?」
言いよどんだ酒井を斬って捨てるような調子で元康は答える。
こちらに背を向けた元康がどんな表情をしているかはうかがえない。
酒井はその小さな背を見つめ、おそらくは、と呟いた。
聞こえているのかいないのか、元康は微動だにしない。
再び酒井が口を開こうとしたそのとき、元康の声がした。
「・・・そうか・・・やっぱり、来んか」
ぞっとするほど静かな声だった。
酒井からは元康の顔は見えず、どんな顔をしているかは分からない。
かろうじて顔の見える位置にいた元忠は肩をつかんでいた手を離し、一歩後ずさった。
元康は立ちつくしたまま、雨に打たれている。
止めなければならないのに、酒井も元忠も動けなかった。
もし、ここで動いたら、取り返しのつかないことになってしまいそうで。
雨の叩きつける音がその場に響く。
元康も酒井も元忠も、身動きひとつしない。
全てが凍りついたような中、酒井の耳に突然不規則な音が届いた。
ばらばらと何かが雨露を弾く音と、水のはねる音。それはだんだんと大きくなる。
音の方向に顔を向けると、鮮やかな緋色が目に飛び込んできた。
その緋色は酒井と元忠の前まで来ると、元康の上に移動した。
雨の感触が消え、元康は顔を上げる。
見覚えのある長身が側にいた。
「・・・忠勝?」
緋色の傘を元康に差しかけたまま、忠勝はこくりとうなずく。
それをまじまじと見つめ、元康は傘を持つ手に自分の手を伸ばした。
指先だけでそれに触れた後、今度は両手で、感触を確かめるように手を握る。
「お前、来たのか。こんな雨の日に・・・」
手を離さずにぽつぽつと言葉をこぼす元康に、忠勝は空いた左手で触れた。
肌は冷たく、全身が冷えきっているのがはっきり分かる。
忠勝は右手を包んでいる元康の手を取り、それに唇を当てて言った。
『だいぶ冷えておられます。中に参りましょう』
ゆっくりと顔を上げ、うん、と一言答えて。
直後、糸が切れたように元康は倒れた。
熱で気を失った元康とともに、忠勝は屋敷に上がった。
傘を差し出していた間に雨に打たれたため着替えを出してもらったものの、長身の忠勝にはどうも合わない。
だが忠勝自身はそんなことは全く気にしていないようで、元忠とともに元康の寝室へと向かっていた。
元忠は廊下を歩きながら、忠勝のほうを向くことなくわずかに暗い声でつぶやく。
「あの時の元康様は・・・恐ろしかった」
「・・・」
答えはないが、忠勝からの返事が来ると思ってはいないので、元忠はそのまま続ける。
「とても・・・生きている人間を見ていると、思えなくて」
「・・・」
「忠勝殿には感謝してもし足りません」
元忠はやはり忠勝のほうを向かないでいる。
そうされてしまうと、忠勝には何も伝えることができない。
ただ、静かに元忠の言うことを聞きながら、足を進めるのみだ。
そして元忠もそれ以上話そうとはしなかった。
寝室のふすまを引くと、床についた元康のそばに控えていた酒井がこちらを向いた。
酒井は忠勝に一礼をして、元忠となにごとかを話し始める。
忠勝は横になった元康に近づき、そのそばに腰を下ろした。
「・・・」
頬に手を当てると元康の熱の高さがよく分かる。
朝から雨に打たれていたという話だから当然だろう。
酒井と元忠が寝室から出て行く気配を感じ取りつつも、忠勝は元康から目を離さなかった。
わずかに額からずれていた手ぬぐいを直してやると、元康はゆっくり目を開けた。
「・・・ただ、かつ」
元康の声は痛々しくかすれていた。
指を唇に当てて、忠勝はしゃべるな、という意を表した。
だが、元康は口を閉じようとはしなかった。
「来ない、と思っとった」
「・・・」
「こんな日に来るわけがないと・・・」
忠勝はそっと元康の手をとった。
唇を押し当てると熱と震えが一緒に伝わってくる。
『約束ですから』
「・・・だからって・・・」
『貴方に嘘はつきたくありません』
その言葉に元康は目を見開いた。
熱で潤んだ瞳がいっそう水気を増し、雫がこぼれ落ちる。
「そう、か」
元康はそれだけ答えて、もうしゃべろうとはしなかった。
ただ涙をぽろぽろとこぼしながら忠勝の顔をじっと見ている。
そんな状態でまともに物が見えるはずもないのだが、それでも――。
まるで目をそらすのが恐ろしいとでもいうように、濡れた瞳で見つめ続けていた。
それを見たとき、忠勝は決めたのだ。
何があろうと決して離れない。
命が尽きるその日まで、ずっとこの人のそばにいる、と。
そして今、家康と名を改めた彼のそばに忠勝はいる。
穏やかな顔で隣に座る家康はもう目を逸らすことを恐れなくなった。
聞いてみたことはないが、もし酒井と元忠を大事に思うかと聞けば迷うことなく大事だ、と答えるだろう。
「どうした忠勝?珍しいな、ぼうっとして」
忠勝の視線に気づいたのか、家康は忠勝の方を向いて言う。
それを見つめ返して忠勝は軽く首を振り、矢立を手に取った。
『少し、昔のことを思い出していただけです』
「ふうん?昔のことか・・・」
家康はそう呟くと、悪戯心とわずかの不満が混ざったような笑いを浮かべる。
「あまり思い出に浸ってもらいたくはないんだがな。今、わしが隣におるのだから」
忠勝はその口ぶりに表情を和らげ、手を伸ばして家康の頬を撫でた。
撫でられている家康は、忠勝の手に頬をすりよせるように首を傾げる。
そうやって甘えてきてくれることが何よりも嬉しく感じられて、忠勝は家康を抱きしめた。
おしまい