「これから、わしはどこへ行くんだ?」
夕暮れ時を過ぎて、薄闇が辺りを覆い尽くしたころ。
小さな提灯を揺らしながら進む人影があった。
人影は五つか、六つか――今は月が雲に隠れているので、はっきりしない。
その中でひとつだけ、とびぬけて小さな影が言う。
答えたのは小さな影の隣にいた影だ。こちらは平均的な大人なみの大きさだった。
「駿河の、今川殿のところですよ。お父上に聞いてはいませんか?」
それに対して小さな影は、うん、とどちらにも取れるような曖昧な返事をする。
そしてしばらく黙ったまま進み、また思いついたように同じ問いをよこす。
田原を発ってから何度も繰り返したやりとりに、隣を歩く影は少しばかり苛立っていた。
そもそも隣の影――戸田家に仕える家臣たる彼は、この任に対し乗り気ではなかった。
すなわち、自分の主君の孫に当たる松平氏の嫡男を、駿河の今川氏に人質として届けること。
そしてその実、今川に敵対する尾張の織田にこっそりと売り渡してしまうこと、である。
とは言ってもそれは彼の独断ではなく、れっきとした主からの命令であった。
つまり彼の主君は、自分の娘婿を裏切り、孫を売るように指示したわけである。
身内をどこへ引き渡すだの売りとばすだの、動乱の時代に生きる者にとっては珍しいことではない。
そうやって策を巡らせ、家を守るのも当たり前のことではあったのだが、
その命を聞いた家臣が一瞬呆けてしまうほどあっさりと、一分のためらいも悔恨もなく、
ただただ忌々しいとか面倒くさいとかいった顔をして、主は己の孫を織田へ売ると言ってのけたのだった。
もっとも主にとっては孫とはいえども血が繋がっているわけでもなし、さほど愛情も沸かぬのかもしれない。
松平に嫁いだ主君の娘は、正室ではなく側室であった。
当の正室――隣の子供の母親は、松平を庇護下に置く今川とそれに敵対する織田との争いが原因で離縁されたと聞いている。
母と別れ、父には人質として差し出され、義理の祖父には金で売りとばされる。
その境遇を考えればたいそう不憫であったので、彼はその子供とのやり取りを根気よく繰り返してやった。
だが、そのような事情があれど、いい加減彼は疲れてきていた。
なにしろこの子供ときたら、あまりにも同じことを繰り返すのだ。
口にすることと言ったらただひとつ、自分はどこへ行くのか、ということだけである。
そのたびにいろいろと答えたところで、帰ってくる反応も全く同じ、気の抜けた返事をするだけときている。
初めこそ駿河とはどういうところか、今川氏とはどういう人物か、などと教えてやろうかと思ったがそんな気も殺がれてしまった。
今は冒頭のように紋切り型の答えを返すのみだ。
また子供が口を開く。
全く同じ問いに、彼も全く同じ答えを返した。
あと四半刻もすれば、この子供を送り届ける船のもとにたどりつく。
心中で自分にそう言い聞かせ、彼はちくちくと疼く苛立ちを抑え込んだ。
船の停まった浜についたころには、雲に隠れた月が顔を出していた。
月光に照らされて白く光る砂浜はとても美しかったが、隣の子供は何の反応も見せない。
だがもはや、それに対してなにかしら心が動くほど、彼はかの子供に関心を持たなくなっていた。
船頭と短いやり取りを終え、さっさと引き渡しを終えた。
あとは船方たちが尾張の織田へと連れていく手はずになっている。
面倒な子供のお守りから解放された彼が、ひそかにため息をついた、そのとき。
「なあ」
彼のもとを離れたその子供が、船べりから彼を見下ろし、言った。
「これからわしは、どこへ、行くんだ?」
『どこへ』の部分をはっきりと強調したそれは、言葉は同じでもさきほどとは全く違うものだった。
子供は無表情のまま、濁りのない鳶色の瞳で彼を見ている。
その目が、表情が、暗がりに潜む獣を思わせた。
「・・・す、駿河の・・・今川殿のところで・・・ございます」
思わず下を向いた。
背筋を冷たい汗が伝う。
つい先程までは、人形のようだとしか思っていなかった子供の瞳を見た瞬間、
彼は自分の喉元に当てられる刃を、心臓を射貫く矢尻を、確かに感じたのだ。
返答する声も、体も震えて、言葉すらかしこまったものへと変わっているのに今の彼は気づかない。
ただ、叫び出したくてたまらない。
――いいえ。
――いいえ。
――今川殿のところへ渡したがっていたのは松平。
――我が主は今川を欺き、金と引き替えに御身を織田へ引き渡すつもりなのです。
喉を逆流しそうなその言葉を押さえ込むので精一杯な彼が、先のような返答をできたのは奇跡に近い。
この道すがら、繰り返してきた問答が舌に馴染んでいたから――そう考えて、彼はさらに震えた。
ただの偶然だ、と考えることもできるだろう。
彼を見下ろす子供は、実は何も気づいていないのかもしれない。
『たまたま』繰り返していた言葉が、後ろめたさから違った意味に聞こえただけだ、と。
しかし彼は、見透かされていると感じてしまった。
「そうか」
短く、ただ一言だけ船の上の子供は答えた。
彼の言葉の真偽こそ問わなかったものの、船に乗る前の曖昧さなどすでに消し飛んでいた。
いまだ全身を這うような怖気を抑えこみ、ゆっくりと視線を上へ向ける。
未だ彼を見下ろしていたその瞳が、月明かりを反射して金茶に光った。
子供が彼に背を向け、船が浜から離れた後も、彼の身体には瘧のような震えがまとわりついて止まらなかった。
たかだか五、六歳の子供だというのに、あの金茶の瞳が恐ろしくてたまらない。
全てわかっている、知られている――その直感が、『あれ』に抗う力をごっそり刈り取ってしまった。
――もしや、私は・・・いや、わが主君も、他の家臣もみな、選んではならない道を選んだのではないだろうか?
月光は足元を明るく照らしている。
だというのに、彼の脳裏にはいまだ金茶の光がちらついている。
あの瞳が、まだ、こちらを見ている。
再度身震いした彼の鼻先から、ぼたりと冷たい汗が滴り落ちた。