『それ』はほこりにまみれた薄汚れた姿でそこにあった。
見上げる男たち――今川方の小役人だと聞いている――がうめき声を漏らす。
だが彼らは次の瞬間には淡々とした顔つきに戻り、帳面に筆を走らせた。

「・・・ここにあるのはこれだけのようだな」
「そのようでございますな」

小役人の呟きに答えたのは酒井忠次である。
もともと蔵の検分をしたい、と言ったのは彼だった。

昔は織田の、今は今川の人質として日々を送っている松平元康の屋敷の裏手にはいくつか蔵がある。
蔵の入り口には酷く錆びた錠がかかっており、相当の年月放置されていたのだろうと思われた。
そんな状態だから中のものに期待はできないが、物をしまうには蔵は役に立つ。
季節も秋の終わりごろ、いい時期だからこの機会に蔵を開けてしまおう――そう酒井は言い、元康もそれに賛成した。

とはいえ元康の屋敷は今川からあてがわれたものであるため、一応とはいえど伺いをたてる必要があった。
その結果、検分のために今川方から何人かがやってきた、というわけだ。

帳面に記入をし終えた役人たちは蔵を出る。
検分に同席していた酒井と元康もその後に続いた。

「これで全部か」
「ええ」

返答を聞いた役人たちは向かいあって何ごとか話している。
元康はその様子を面白くもなさそうに眺める。
丁寧に答える酒井に対して、いかにも偉そうにふるまうこの役人を元康は好きになれなかった。

「・・・では検分は終わりだ。蔵の中身は自由に処分するがいい」
「わざわざのお運び、感謝申し上げる」

それだけ言って元康は酒井とともに一礼する。
そして役人が引き上げるのを見るか見ないかのうちにさっさと屋敷へ入ってしまった。
どうせ彼らがこちらを振り返るはずもないのだし、かまうことはない。
どこからか小さくカラスの鳴く声が聞こえた。

「日暮れだな・・・続きは明日か」
「思いのほか時間がかかりましたからな。ですが明日中には片付くでしょう」

元康はうん、と気のない返事をしたきり、それ以上は何も言わなかった。
酒井は妙におとなしい元康に首を傾げたが、疲れもあって特にそれを追求しようとはしなかった。


その日の夜半。
小さな明かりを手に、元康は寝静まった屋敷から抜け出した。






ずしりと重い錠を外し、音を立てないように気をつけながら元康は蔵へ入った。
目の前に鎮座している『それ』にそっと明かりを向けるが、やはり全体を照らし出すことはできそうにない。
元康が人より小柄なのを差し引いても『それ』――鋼鉄の全身鎧――はあまりにも大きすぎたから、当たり前ではあるのだが。

見かけたときからずっと気になっていた。

これだけ大きな、それも全身を覆う鎧。
当然ながら相当の重さがあるはずだ。
果たしてこんなものを身につける人物が過去にいたのだろうか?
しかし、これだけのものを作るなど伊達や酔狂で済まされることではないだろう。

いったん気になりだすと考えは止まらない。
調べてみれば何か分かることもあるかもしれない、いや、何か知るためには調べるしかない。
そう思った元康は夜のうち、酒井忠次や鳥居元忠が床についたのを見計らって蔵に行くことにした。
明日には蔵を片付けるとなれば、じっくり見られる機会は夜しかなかったから。

元康は慎重に鎧に近づき、鎧の脚のあたりに積もっていたほこりをそっと落とした。
ぱっと見た感じは普通の鎧と特に違うところもなさそうだ、と一瞬思ったが、ひざに変わった飾りがついている。
袖の端を指に絡ませて飾りを拭いてみたところ、はめ込まれているそれは玻璃かなにかであるらしい。
もっとも手元の明かりを反射する様子を見てそう思っただけで、実際は違うのかもしれなかったが。
飾りはだらりと下がった両腕のひじの部分や腹部にもいくつかついている。

「うーん・・・わからんなあ」

玻璃であれば相当貴重なはずだ。
そんなものを鎧につけるなど考えられないのだが・・・。

少し考えて、元康は蔵の上部の窓をちらりとうかがう。月は傾いてきているようだ。
夏のころに比べ夜は長くなったものの、あまりのんびりしてもいられない。
元康は上半身のほうも見るために、そろそろと鎧のひざの上に登った。
胸のあたりには大きな数珠が巻かれているようで、鈍く光をはねかえす。
これもまたなかなかに変わった装飾だった。

「ますますわからん」

見れば見るほど妙な鎧だ。
考えてみても納得できることがひとつもない、と元康はひとり口を尖らせる。
ふっと息を吐いて明かりをさらに上のほうに向ける――と、また奇妙なものが見えた。
鎧の顔の部分には面頬があつらえてあるらしいのだが、鉄に覆われていない目や口の部分にもほこりが積もっている。
中が空洞ならほこりは鎧の中に落ちる。面頬のふちだけならともかく、こんな風になるはずはない。

元康は背筋にうすら寒いものを感じたが、それでも好奇心が勝ったようでおずおずとそこに触れた。
ほこりが固まって床に落ちる。

「・・・っ!」

下から人の唇らしきものが現れたのに驚き、元康は慌てて手を引く。
指先に残るほこりのざらつきがやけに気持ち悪く感じて、思わず指を袖に擦りつけた。
瞬間、もう帰ってしまおうか、という考えが頭をよぎる。

だが結局元康はそのまま、鎧から下りることすらしなかった。

しばらくそれを見つめ、ものを噛みしめるようにぐっと唇を引き締める。
そして両手足の飾りのときのように袖を使って、唇らしきそれにへばりついたほこりを拭き取った。
次に右目、左目と拭っていく。
右目は黒曜石のような硬質のなにかで隠れているが、左目はやはり人のそれと同じように見えた。
閉じた左目の表情が思ったよりも穏やかで、元康はなんとなくほっとする。

思い切って頬のあたりに手を伸ばし、撫でてみる。
感触はそれなりに滑らかで、ひやりと冷たいようにもじわりと温かいようにも感じた。
人形だと言われればそうかもしれないと思うだろうし、人間の身体だと言われてもそう思うだろう。
生きているとも死んでいるとも、人とも物とも決めかねる、ひたすら不思議な触感だった。

両手で触れてみたい、と元康は思ったが、左手は明かりでふさがっている。
周りを見回しても明かりを置けるようなところはなかった。
仕方なく元康は視線をもとに戻した。


そして、陸にあげられた魚のように、びくりと跳ねた。


実際、水を離れた魚と同じく、元康は呼吸することができずにいた。
だがそれ以上に、頭が――息が止まっていることになかなか気づけないほどに――真っ白になってしまっていた。



目の前の鎧。
それが、元康を見つめ返している。
右目を赤く光らせ、閉じていた左目を開けて。
微動だにせず、視線でもって元康を縫いとめるように、じっと。



見つめられた元康は、しばらく凍りついたままだった。
が、息苦しさに耐えられなくなり、思い出したように浅い呼吸をし始める。
その元康の動きに反応して、鎧の視線が移動した。
それにもう一度びくりとした瞬間、明かりが手から落ちる。

「あ・・・!」

反射的に明かりを追った元康の身体が傾ぐ。
ぐるり、と上下が反転し、思わず元康は両腕で頭をかばった。
腕の間から明かりが落ちるのが見えるとほぼ同時に、ふっと周りが暗くなる。

だが、闇が深くなったのはほんの一瞬のことで、すぐにうすぼんやりとした光が戻ってきた。
どうやら明かりは落としたものの、中の火は揺らいだだけで消えてはいなかったらしい。

元康は、その様子を床よりもずっと上から見ていた。
おそるおそる両腕を下ろし、背中に目をやると、鋼に覆われた手が支えてくれていた。
その手は言うまでもなく元康の正面に座した鎧に繋がっている。
鎧はあいも変わらず、夜半の湖を思わせるような静かな目で元康を見ていた。

「助けて、くれた・・・のか」

わずかな震えを含んだ元康の言葉に鎧の視線がまた動く。
唇を見つめているのはしゃべるということが不思議なのか、それとも次の言葉に集中しているのか。
理由はわからぬものの、そんな視線を浴びせられて元康はなにやらいたたまれない気分になる。
落ち着かずにもごもごと口を動かすと、ますます視線は強くなるようだった。

「うーん・・・まあ、とにかく助かった。悪いな」

いつまでも見つめられるのに耐えきれなくなって、早口に礼をいう。
もっとも、それにどれほど意味があるのかはわからなかったが。
鎧の視線はいまだに別のところへ向かってくれなくて、困った元康は顔を背ける。
床でじわじわと燃えあがりつつある火が目に入った。

「うわあっ!」

鎧から飛び降りた元康の叫び声に呼応するように火が、ぱち、とかすかな音を立てて爆ぜる。
それを必死に踏み消しながら元康はさっき床に落とした明かりのことをようやく思い出した。
幸いなことに火の入っていた提灯のほかに燃えやすいものはなかったため、わりとあっさり火は消えた。
そのかわり、上に小さな明かりとりがあるだけの蔵の中はほとんど真っ暗といっていいほど暗くなってしまったが。

「・・・まいったな」

元康には、明かりとりからうっすらと漏れる月の光と、鎧の右目の赤い光くらいしか頼りにできるものはない。
そして当然のことながら、月に手が届くはずもない。

さほど大きな光ではないものの、すぐ隣で強く光る赤色の目の持ち主に向かって元康は手を伸ばす。
ぺたり、と触れたのはどこの部分だろうか、さっきほこりを落としていたときよりもずっと温かく感じた。
鎧が温かいというのも妙な気分だったが、動いているのだから温かくなるのは当たり前なのかもしれない。

そう考えて元康は、この特殊な状況下でのんびりそんなことを考えている自分がおかしくなった。
ふふ、と漏れた笑いに、どうしたのかと問うように鎧は機械音を鳴らす。

「今の、お前か?」

元康がそういうと、今度は短くはっきりした機械音が返ってきた。

「そうか、わかるんだな」

人でないのは明白なはずのこの鎧が、その鋼鉄の身体のどこかで言葉を理解している。
いったいどこで言葉を解するのだろう、と思いながらそっと鎧をひとなでした。
それになにか意味を感じとったのか鎧も同じように元康の背中をなでた。
微妙にぎこちなく動く手がくすぐったくて思わず身をすくめる。

「はは、くすぐったいぞ」

そう言った途端に背中の手がぴたりと止まった。
手はそのまま引かれるでもなく、そこにあてがわれたまま動かない。
きっとどうしていいのかわからないのだろう、と思って元康はもう一度口を開いた。

「ひざに乗せてくれるか」

だいぶ暗闇に慣れた目をまっすぐ鎧に向けて、にこりと笑う。
ついさっきは心臓が止まるくらい驚かされたが、今ではちっとも怖いと思わなかった。
両脇に鉄の感触を感じた直後に身体が浮き、押しつけられるようにして座らされる。
いて、と声を漏らすと、それに慌てたように鎧は手を離した。
突然のことにまた落下しそうになるのをしがみついてどうにかやりすごす。

「・・・やれやれ」

鎧がかすかな音を鳴らして元康を見た。
なぜしがみつかれたのかがわからないらしい。
急に手を離されたから体勢を崩しただけだ、と答えておいたが、どうも反応が良くない。
少し考えて、落ちないようにつかまったんだ、と言い直すとやっと納得したようだった。
どうもこの鎧は言葉を解するものの、説明しないとわからないことがたくさんあるようだ。

「お前、これからどうする?」

なにかしなきゃいけないことはあるのか、と聞いてみたが反応はなかった。
それならなにかしたいことはあるのか、と改めて尋ねてみたがやはり反応はない。
少々質問が難しかったのか、鈍い感じの駆動音をしきりに響かせ、首まで傾げている。
巨体に似合わぬその様子がどこか幼い子供を思い起こさせて、元康はつい吹き出してしまった。
その笑い声を聞いた鎧はますます困惑を深めたように複雑な機械音を鳴らす。
それもまたおかしかったが、さすがにこのままだと耳に悪そうなので笑いを抑えた。

「気にするな。それよりもお前、わしのために働いてみる気はないか?」

途端にぴたりと音が止む。
もしかすると働くということがわからないかもしれないと思った元康はさらにつけ加えた。

「えーと・・・そうだな、わしの役に立つことをしてくれないかってことなんだが」

鎧はきゅるる、と不鮮明な音を漏らす。
まだよくわからなかったかと思い、どうにか言い直そうとすると、赤色の視線と目が合った。
なにか思うところがあるらしいと感じた元康は言葉を飲み込んでその赤色を見つめ返す。
しばらくすると、鎧は短くはっきりとした機械音を鳴らした。
音だけでなく首肯もしてみせたらしく、赤い光が一瞬下へ移動する。
元康の顔に心底嬉しそうな笑みが浮かんだ。

「そうか、よろしくな!」

鎧は再びうなずいてみせた。
元康はそれをしばし見つめたあと、鎧の胸のあたりをぽんぽんと叩く。
なにごとか考えているらしく、不思議そうな視線にも答える様子がない。
だが、少しすると顔を上げて再び鎧を見た。

「お前、名前はあるのか?」

首が横に振られる。
赤色の光が二、三度ゆらゆらと尾を引いて揺れた。

「じゃあ名前がいるなあ・・・」

元康は下を向いて二言三言呟いたのち、こくりと一度うなずいて言った。

「うん、忠勝だ。忠勝がいいな・・・どうだ?」

鎧は動きを止めて元康の言葉を噛みしめるようにきゅるきゅると音を鳴らした。
ためしに忠勝、と呼んでみると鮮明な音がひとつ返ってきた。気に入ったらしい。
元康は嬉しくなってもう一度忠勝、と呼んでみる。
今度は音に加え、一礼まで返ってきた。

「よし、あとは姓だが・・・本多だな。正信は立ち回りが上手いから、どうにかなるだろ」

忠勝は新しく出てきた名前が気になったようだったが、明日か明後日にでも会わせてやる、と返すと満足したようだった。
それをぼんやりと眺めながら元康はひとつ息をついて頭を忠勝の胸にもたせかけた。
あまり意識はしていなかったものの疲れていたらしく、伝わる温かみに眠気を誘われる。

心配そうに響く機械音を遠くに聞き、かろうじて、すまん寝かせてくれ、と言うとそのまま元康は眠りにおちた。



これから起こることになる大騒ぎとは縁遠い、穏やかな寝顔だった。










おしまい

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