未整理事項
犠牲的な死について
- わたしは本文で、まるで犠牲的な死のシーンを全否定するようになっていたかもしれない。それはちょっとおかしかった。「アンダーソン君の犠牲的な死に関するシーン」と、挑発ポーズやスーパーパンチにみられる「強さを語るシーン」。サイトをつくった初期の頃は、ふたつが両立しないように錯覚していたかもしれない。
- それは多分、「犠牲的な死」に至る途中にある映像が変で、「単に弱くて負けた」様に見えさせるものだったから。
- 譲歩して、「システムクラッシュを防ぐためのソース帰りは必然」と考えても、まだ納得しきれないわたしだ。こう思うわたしは欲張りか。象徴的なスミスを倒すことと、その後あらためてソース帰りを選択し、体は死ぬ代わりにコンピュータに同化して「従来の機械とは違う心」というデータとなり機械を変容させるてなことは、両立可能だと思う。
- 百歩譲って、スミスに同化することは始めから有ったプロットとしよう。しかし、本文でも言ったように一度力で上回っていた筈のアンダーソン君、もっと積極的に同化することを選択した跡を見せてほしかった。ボサ〜〜〜ッと突っ立っており、諦めきって自殺したように見えかねない当該シーンは…悪を内部から変革するために中に入ったというより、悪徳のがわにおもねったようにさえ見えた。
- サティに暗示された平和の祈り。しかし出来あがった映画、冷戦にしか持ちこめなかったばかりか、人・マシン・プログラムの三者に「平和の祈り」という言葉の上っ面すら伝わったのか怪しい。
- 映画の本意は、「革命とは片方が片方を奴隷にしようという考えがなくなっていくこと」か。出来あがった映画では、とてもとてもそうは見えない。セカンドルネッサンス以後確立された型のマシン世界はまだまだ磐石。
- この映画、聖書知識のある人にはわけがわかったのかもしれない。但し、そうでない人を完全に無視している。わたしから見ると、レボはどうとでもとれる。その1、平和の祈り。その2、映像をバーッと見ると感じ取れる虚無感、今までの闘いはバカな事で当たり前の日常に戻っちゃった感。
- その1とその2、どちらが監督の本意かわからない。本作の問題は、EVA以上にどーとでも取れてしまうこと。
- 要するに映像その他の説得力があのザマじゃ、「イヌのウンコをエアガンで撃ってストレスを発散しつつ、公衆衛生を説く」ようなものなんだよ。説得力が無い。
- レボ最後、アンダーソン君の死体から蓮の花のような光が発し、じわーっとマシン世界に広がるシーン。彼はあのシーンひとつで既にマシン世界を変革し、救ったようにも取れるだろう。
しかし、じつのところは…なんだか、彼はマシン世界の肝心の部分をまだ変革できておらず、オンラインゲームに問題が持ち越されているようにもみえる。マシンシティにあるというアンダーソン君の死体が交渉カード、いわゆるネオジチに見えなくも無い。■
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