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「……ふむ、少し早かったか」

 色鮮やかな桜の下、私は腕時計の時間を確認し、一人呟く。
 今日は桜が咲いている間の休日。朋也も仕事が休みの為、一緒に花見を行おうということになった。
 その約束の時間にはあと三十分ある。まぁ、早めの行動と考え、相手も早く来るのであれば少し早いくらいかもしれないが、時間にルーズなところのある朋也を待つことを考えれば結構早いかもしれない。
 とはいえ、朋也も仕事を始めたばかりで疲れているだろうし、少しくらいの寝坊は許容してやろう。
 朋也を迎えにいってもよかったんだが、今日は少し待ち合わせというものを味わいたい気分になったのでこのまま待つことにする。

 ザァァァァァ……

 風に吹かれ、桜の花びらが舞う。それは、春の象徴が見せる短い幻想のようで、私はその景色を脳裏に刻み込むように眺める。

 けれど、一瞬……ほんの一瞬だけ、私の脳裏によぎる影。
 それは私の中に燻る痛み。

 そして、その痛みを振り切るために、その桜吹雪の中を走りたくなった。それは、私には珍しい衝動だったけど、素直にその衝動に流されることにする。
 だって、そうしなければ……私は気付きたくないことに気付かなくてはいけないから。この不安の根源を知ることになるから。

 私は両手を広げ、子供のように身体を回しながら走る。休日の学校前、それもクラブ活動を行う人間はすでに校舎内にいるので誰に見られるわけもない。思いっきり走り回る。
 朋也が今の私を見つけたらどう思うだろう? 呆れるだろうか? それとも笑うだろうか?
 そんな想像をしても止まらない。むしろ、朋也が来たら一緒に走り回りたい気分だ。そうすれば、この胸の内に燻っている痛みが消えてくれるかもしれないから。
 それを願って、私は一気に走り出した。

 そして―――

 ガツンッ!

 ―――唐突にその衝撃は来たのだった。










ある春の日に、この桜の下で










「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」

 私は声にならない声を上げながら額に手を当ててうずくまる。
 凄い衝撃だった。ここまでの衝撃は初めてだ。
 涙目になりながら、その相手を慌てて確認する。私に恨みを持つ者であったならこのまま身動きが取れない状態は危ないからだ。
 しかし、

「うう〜、痛いよ〜……目がちかちかするよ〜〜」
 
 …………は?
 どこの男かと思ったのだが、意外や意外、そこに居たのは可憐とも言える美しい女性だった。
 私と同じく頭を抑えて痛がっているが……なんかあっちの方がダメージが少なくないか? 

「……はっ、ごめんなさい! 大丈夫でしたか!?」

 その相手は我に帰ったようで、すぐにそう言い出すが、私は唖然として答えを返せない。

「……あの、ひょっとして怒ってます?」

 見た目はお嬢様といった雰囲気なのだが……私よりも頑丈かもしれない。

「…………ひょっとして、浩平君?」

 そこでようやく私も我に帰った。

「いや、違う。私は坂上という。その人物ではない」
「え!? あ、ごめんなさい!」
「大丈夫だ。こう見えても頑丈さには自信がある、問題はない。それよりも、そちらこそ大丈夫だったか?」
「うん、ちょっとまだ痛いけど、それだけだよ」
「……貴女も見かけによらず頑丈みたいだな」

 私は結構やせ我慢をしている状態だと言うのに。

「しかし、すまなかった。こちらの前方不注意だった。年甲斐もなく走ってしまったのが間違いだったな」
「ううん、そんなことないよ。私もつい走っちゃったから……」

 クスクスと笑いながらその女性は言う。笑顔が優しい人だが……何故だろう、何か違和感がある。

「まぁ、このまま座っていてもしょうがないし、取りあえず立とう」

 私はそう言って先に立ち上がり、その女性に手を差し出す。
 しかし、

「うん、そうだね」

 その手を完全に無視して一人で立ち上がった。差し出した手が少し気まずい。
 ……いや、違う。無視をしたわりには笑顔はそのままだ。まるで気づかなかったような……!!

「貴女、ひょっとして……」

 違和感の正体に気付いた。それは、目に光が感じられない事からくる違和感。すなわち……

「あ、うん。私は目が見えないんだよ」

 全部言い終わる前に返された回答。それは、何度も聞かれた故の自然な返答だったのだろう。それは、悲しいことだと思う。可哀想そうなことだと思う。
 よく見れば、隣に白杖が落ちている。私はそれを拾うと、そっとその女性に握らせた。

「ありがとう」
「……あまり無茶は止めたほうがいいぞ」

 私はその女性が心配になり、ついそんな言葉を告げた。

「うん、あまり走っちゃいけなかったよね」

 曇りのない笑顔でそういう。しかし、私はさらに忠告をする。

「そうじゃなくて、盲目なのだろう。一人で出歩くのは危険だ。誰かと一緒でないなら止めた方がいい」

 それは私の善意からの忠告のつもりだった。
 けれど、その言葉の意味することに気づかなかった。その人の返事を聞くまでは。



「―――ね、確かに今のは私も悪かったと思うよ。危険なのも分かってる。でも……私は一人で出歩いちゃいけないのかな? 普通に歩いちゃいけないのかな?」



 その、困ったような笑顔で言われるまでは。
 ガツンと、殴られたような衝撃。
 すぐに理解する。自分の今の言葉の意味。出歩くなというのは……つまり家から出るなということ。誰かと一緒でなければ外に出ることを許容できないと言うこと。
 それは、この女性が人として生きることを否定したも同じだ。

「……すまない、軽率だった。今のは貴女への侮辱に等しかった」

 だから、私は頭を下げる。この人に見えているかいないかは関係ない。これは私のけじめだ。

「私は……貴方に同情してしまった。可哀想だと思ってしまった。それは失礼だということなのに」
「……優しいんだね。貴女は私の為を思って言ってくれたのは分かってる。だから、今のは私の八つ当たりみたいなものかもしれないんだよ?」
「悪意があろうとなかろうと、貴女を色眼鏡で見たのは変わりない。それが相手にとってどれだけ失礼かそれなりに知っているつもりだ。だから、私はそれについて謝罪をしなければならないと思っただけだ」
「そっか……貴女はいい人なんだね」
「そんなことは……」
「あるよ。だって、何も言わなければ私には分からなかったのに、ちゃんとそうやって考えて話してくれた。それは私の事を本当に考えてくれているということ。だから、貴女はとってもいい人だよ。私は、それが嬉しい」

 その言葉に顔を上げると、その女性はにっこりと笑った。

「私もごめんね。あまり、決め付けられたくなかったから……一人でも出歩けるように頑張って、それで浩平君とようやく来た旅行だったから、ついきつい事をいっちゃったよ」
「そうか」
「ね、両成敗って事でいいかな」
「そうだな」

 そう言ってもらえると気が楽になる。
 そして、改めてその女性を見る。

「その浩平とやらはいないのか?」
「ちょっとね。この街で欲しいものを見つけたから待っていてくれって言われて、今はここで待っているの」
「なんだ、私と同じか」
「あ、貴女も待ち合わせなの?」
「そうだ」

 風になびく髪を手で整えながら、時計を見るとまだ時間はある。

「なら、ちょっとお話しないかな。一人で待っているのはつまらなくって」

 ……どうやらかなり人懐っこい人らしい。妙な流れになってしまったが、こちらも時間が余っているのは同じだし、それもいいだろう。

「同感だ。私でよければな」
「うん、嬉しいよ。私は…………みさき、川名みさきだよ」

 ? なんか妙な間があったが……まぁいいか。

「私は坂上智代だ、よろしく、川名さん」
「よろしく、智代ちゃん」
「智代ちゃん!?」
「駄目かな?」
「い……いや、ちょっと呼ばれなれていないだけだが……」
「私のことはみさきちゃんって呼んでいいから」
「……せめて、みさきさんと呼ばせてくれ」

 ……駄目だ、この人はマイペース過ぎる。私では敵わんな。

「分かったよ。智代ちゃん」
「はぁ……しかし、ここに旅行に? 何もないとは言わないが、観光に向いている町とは思えないが……」
「そんなことないよ。この桜があるから」
「!」

 あっさりと言われた言葉に驚く。

「ん? 坂上智代? ん〜〜〜〜……あ! そうだ! ひょっとしてこの桜を守った生徒会長って智代ちゃんのことかな?」
「う、そ、そうだ。確かに私の事だ」
「わぁ、そうなんだ。凄いなぁ」
「そんな事はない」
「そう? だって、とっても大変だったんでしょう?」
「それは……」

 無邪気な笑みで問われて、私は言葉に詰まる。

「……智代ちゃん?」
「本当に……そんな事はない。大変だったけど……でも、そんなのはどうでもいい。これは、私の目標だったから……ただ、それだけだったから」

 そうだ。そんな凄いことじゃない。
 だって、朋也との時間を犠牲にしたんだ。それでこの桜も守れなかったら、私が惨め過ぎただけだ。
 それだけなんだから。

「……そっか。凄いって言われるのが嫌なんだね」

 その私の言葉に何かを感じたのか、みさきさんは先ほどまでの笑みを消して、私を気遣うように言った。

「え! いや、その……」
「いいよ、無理に否定しなくっても。私も、少し分かるから」



 ―――普通に生きるだけで凄いと言われるのが、嫌なときもあるから。



 聞こえるか聞こえないかの小さな呟き。けれど、そのみさきさんの言葉は重い。
 それはきっと、悩み苦しんで、それでも前を向いて生きてきた強さであると同時に、その根源の痛みなんだろう。
 それは、とても人間らしい感情で、とても共感できる感情で、親近感が沸く。

「でも、智代ちゃんはもっと悩んでいるように思えたんだけど、違う?」
「……ああ、そうだ」

 不思議な人だ。懐が深いとでも言うのか……どんな事でも打ち明けれるような、そんな雰囲気がある。

「私にとってこの桜を守れたことは嬉しい事ではある。けれど、その代償は決して小さくはなかった」

 大切な人と過ごせたかもしれない日々を……二度と戻らない、共に過ごせたはずの学園生活を捨ててしまったその事実は、私にはやっぱり重い。後悔してはいけないことかもしれない。それでも割り切ることはすぐにはできない。
 ううん、違う。
 何よりも私が恐れているのは……



 私は、自分の思いを優先するために朋也を切り捨てたのかもしれないというその客観的な事実だけ。



 ……ようやく気付いた。私の心の中で燻っていた影がなんなのか。
 だってそうだろう。あの時、朋也が私の背中を押してくれたとき、私には朋也の隣にいるという選択肢もあったんだ。
 他の人間が何を言っても、それを跳ね除ければよかったんだ。私がもっと自分を律していれば、どっちも守れたかもしれなかったんだ。それをしなかった私こそが……今の私を蝕む影。
 説明を終え、私は桜の木にもたれかかりながらため息を一つつく。言葉にして始めて分かった。私が直視しないようにしていた影が、こんなにも大きかったのだと。

「そうなんだ……辛かったんだね」
「そうだ。何をしても楽しいとは思えなかった。ただ使命感に突き動かされてただけだった。だから、結果を心から誇れないんだと思う。それだけあの八ヶ月は長かったから……うん、だから、私は今を大切にしたい。それだけに昔の私のあり方が好きになれない」

 そこまで言ったとき、みさきさんは私の手を手探りで探し当てた後、そっと握る。

「私もね、一年間大切な人を待ち続けたんだ。ずっとずっと、いなくなった大切な人が帰ってくるのを待ってた」
「!?」

 その告白に驚く。この人もそうだったのか?

「だから、貴方の気持ち、良く分かるよ。一緒にすごせなかった時間を、早く取り戻したいんだよね」
「……ああ、そうだ」

 認める、これは焦りだと。
 それでも、私は思い出が欲しかった。朋也と一緒に過ごした時間が欲しかった。

「私は、一刻も早くあいつと過ごせなかった時間を取り戻したいんだ」

 過去を取り戻せないのであればこれからの時間で埋め合わせをしたい。
 これこそが私の今の願い。
 けれど、

「でもね、そんな事を無理に考えてばかりだと、二人とも疲れるよ」
「……え?」

 予期せぬ言葉に私は止まる。
 この人も同じ思いをしたんじゃないのか? なのになんで否定する?
 すると、みさきさんは私の頬に手を合わせる。

「……やっぱり」
「何がやっぱりなんだ」

 みさきさんの手の暖かさが気恥ずかしくなるが、その真剣な表情に気圧される。

「智代ちゃん……顔が強張ってるよ」

 言われて、初めて気付く。確かに、今の私の表情は硬い。

「そんなに力を入れていたら、素直に笑えなくなっちゃうよ」

 みさきさんはそう言うと、私の頬をぐにゃっと引っ張った。

「ひゃひひゅひゅんは」

 その私の声が面白かったのか、みさきさんはクスリと笑うと、そっと言葉を紡ぐ。

「あのね、その人と一緒にいようと思うのは当然だよ。けれど、それを義務にしては駄目。それは、貴女にとってもその人にとってもいいことじゃない。そんな関係はいつか疲れるだけになる。忘れないで、貴女はどうしてその人と一緒にいたいと思った?」
「それは……朋也と一緒にいるのが嬉しいから……」
「そう。必要なのはその思いだけ。ただ、その人と一緒にいられる時間を大切に思えばいいんだよ」

 最後に私の頬を撫でると、みさきさんはそっと離れ、自分の胸で両手を重ねる。

「私はね、笑顔でいようと思ってるんだ。笑顔でいれば、あの人も笑顔でいてくれる」

 それは私と同じ思いを持つ人の決意。

「その笑顔を見ることは出来ないけど、感じる事は出来る。その笑顔を感じれたら、私も嬉しい。だから、私は笑顔でいる。でも、それは義務じゃなくって、笑いたいから笑うんだよ。一緒にいる時間が嬉しいから、一緒に笑顔でいるんだよ」

 一言一言が胸に突き刺さる。強いと思う。私もそうありたいと思った。
 けれど、

「けど……そう簡単にはいかない。私が自分の為だけに生きていたのは事実だから……時々思うんだ。こうやって休んでいてもいいのかって……私は、自分の為に生徒会長になった。なのに、自分の目的だけは果たして、それからはこうやって朋也と一緒にいたいと思っている。これは、私を支持してくれた人を裏切っているんじゃないかって」
「そっか……」

 不思議だ。朋也にも言わなかった……いや、言えなかった事が次々と口から漏れ出る。それはまるで懺悔の様に。
 自分でも驚いている。私の中にはこれだけの不安があったなんて思わなかった。いや、本当は分かっていたのかもしれない。けれど、それを理解すれば朋也と一緒にいられないような気がして……怖かった。

 その事を自覚してしまい、私は項垂れる。
 と、

「……ね、私の花見の仕方を教えてあげるね」

 みさきさんは突然そんなことを言った。

「え?」
「ここ、地面って綺麗だよね?」
「あ、ああそうだが……どうしたんだ突然」
「いいからいいから。ほら、ここに寝転がって」

 釈然としないまま、言われた通りに寝転がる。

「そして目を瞑って感じてみて」
「感じる?」
「うん、例えば、耳を澄ましてみて」
「……ああ」

 言われた通りにしてみる。
 すると、耳に届くのは木々のざわめき。そして木々の根に流れる水の音。

「桜の香りを感じてみて」

 言われて気付く。微かだけど……でも確かに感じる香り。優しい香り。

「肌で感じてみて」

 そして、身体を包むような柔らかな草の感触。

「……これが、私の感じる世界だよ」

 みさきさんの言葉で我に帰る。
 初めて知った。こんな世界があることを。
 
「……うん、凄かった。こんな感じかたもあるんだな」

 上半身を起き上がらせる。みさきさんも同じように私の隣で起き上がっていた。

「こうやってね、いろんな見方、いろんな考えがあるんだよ。智代ちゃんは自分のことしか考えてなかったって自分を責めているけど、そんな事はない。智代ちゃんが頑張ったから……私はこうやって桜を感じることが出来る」
「え……?」

 一瞬考え、そしてようやく気付く、みさきさんが言いたいことに。

「智代ちゃんは言ったよね、自分の為だけに頑張ったんだって。でも、それでもその頑張りは皆のためにもなっているんだよ。この桜を守った智代ちゃんの努力が、今を作っているんだよ」

 みさきさんは私に笑いかける。

「ねぇ、私は笑顔だよね」
「ああ」



「―――この笑顔は、その智代ちゃんが頑張った結果の一つなんだよ」



「あ……」

 そしてぐいっとみさきさんに抱き締められた。
 それはとても暖かい抱擁。

「大切な人との時間を失っても頑張ったんだね」
「うん」

 母を思わせるような、とても暖かい抱擁。

「貴女のした事はきっと沢山の人が喜んでいるよ。失った時間も……けっして無駄じゃなかったんだよ」
「うん」

 自分の心の影に気付いて強張っていた私の身体全てを包み込んでくれるよな抱擁。

「貴女の努力で今私は桜を感じることが出来るんだよ。ありがとう……よく頑張ったね」
「……うん」

 朋也とはまた違う、心から安心できる温もり。

「だから、貴女は休んでもいいんだよ。私が言ってあげる。貴女はもっと自分のことを考えてもいいって……誰かを裏切っているわけじゃないんだって」
「…………うん」

 ああ……そうか、私は、それを望んでいたんだ。

「自分を許せないのなら、私が許してあげる。何度でも言ってあげる。貴方は、一生懸命頑張ったんだって。それは、胸を張っていいことなんだよって。だから、大切な人との時間を過ごしてもいいんだよって……私が言ってあげるよ」
「……あ…………ありが……とう……」



 認めて欲しかったんだ。私の道が間違っていなかったんだと。そして今、朋也と一緒にいてもいいんだと。
 私は、そう誰かに言って欲しかったんだ。



 嬉しかった。家族や朋也以外にもこうやって分かってくれる人がいることが。なにより、会ったばかりの私の事をこれだけ強く思ってくれる人がいることが。
 嬉しくて、胸が一杯になって、ただただ涙が溢れて来る。

 そんな私の髪を撫でてくれるみさきさんを、私はまるで聖母のようだと思った。


 







「……すまない。泣いたりして」
「ううん、泣きたいときには思いっきり泣いたほうがいいからね」

 ゴシゴシと頬を流れる涙を袖で拭い、改めてみさきさんに向き直る。

「貴女は強いな。そして暖かい」
「……そう、かな?」
「ああ、そうだ。だって、私がこうやって泣いたのは二人目だ。それも初めて会った人の前で泣くなんて思いもしなかった」
「あ、そういえばそうだね」

 そして、私達は笑いあう。なんか、とても心が晴れ晴れとした気分だ。
 そんな時、



 …………「おーい、先輩ー!」



 坂の下から、男性がこっちに手を振りながら私たちの元に向かってきた。

「もう、浩平君ようやく来たよ」
「あれがみさきさんの待ち合わせの相手か?」
「そうだよ」

 二人で待っていると、その人は私たちの前まで来てから少し呼吸を整える。

「はぁ……ごめん、遅れたよ先輩」
「…………」
「先輩?」
「…………もう、また呼び方が戻ってるよ」
「あ、ごめんごめん、みさき」
「もう、気をつけてね、浩平君」

 最初はしかめっ面で彼を迎えたみさきさんも、すぐにこらえきれないように笑顔で応える。たったそれだけのやり取りなのに、この二人の間にある雰囲気の暖かさがすぐに分かった。

「それで、君は?」
「ああ、私は坂上智代という」
「ほら、浩平君が言っていた、この桜を守った人だよ」
「ああ、あの」

 みさきさんの説明に、納得したように頷くと、私に笑いかけた。

「始めまして、俺は折原浩平だ。この桜を見に来たんだから会えて嬉しいよ」

 そう言われて不思議に思う。

「なぜこの桜を見ようと思ったのだ?」
「ん? いや、君のあの弁論を発表したときの話を見ててさ……見てみたいと思ったんだ。君のような人が守った桜はどんななんだろうってね」
「それだけでこんなところまで?」
「他にも目的地はあるんだけどな。ここが通り道だったから、寄り道ついでって感じだけど」
「なるほど、それなら納得がいく」

 そして、私は折原さんをじっと見つめ、

「しかし、あの弁論がよく分かったな。英語での弁論だったから、朋也は全然分からなかったというのに」
「ふっ、俺にかかればな」

 自慢げに応える折原さん。
 けれど、みさきさんが横から首を突っ込んでくる。

「それ、訳したの長森さんでしょ」
「……う、分かったか」
「分かるよ。浩平君だし」
「……クスッ」
「うう、笑われた……」

 思わず笑ってしまう。それを聞いた折原さんがすねる。
 ああ、なんかこの人は朋也に雰囲気が似ているような気がするな。

「それで、花見はできたか?」
「もちろん。とっても気持ちよかったよ」
「そうか……何点だ?」

 折原さんの問いに、みさきさんは微笑み、そっと答える。

「そうだね……百点満点だよ」
「珍しいな、それは」
「だって」

 後ろ手に手を組んで、くるりとこちらに振り返る。
 ふわりと浮く髪とスカート。そして彼女を包み込むような花弁。その光景が目に焼きつく。



「智代ちゃんとお友達になれたからね」



 そして、何よりもその言葉が心に刻み込まれた。

「そっか。ありがとうな、みさきの相手をしてくれて」
「いや……私の方こそ、みさきさんと出会えて本当によかった」

 それは本心からの言葉。私はみさきさんに出会えた事で、大切なことを思い出すことができたのだから。

「そうだ、ちゃんと自己紹介をしないとね」

 突然みさきさんはそんな事を言い出す。けれど、脈略がなくて意味がよく分からない。

「自己紹介はすんでいるだろう?」
「そうだけど……けど足りないこともあったんだよ」

 そう言うと、みさきさんは改めて私に笑いかけて言った。



「私はみさき、川名みさき。けど……もうすぐ折原みさきになるんだよ」



 それは幸せに満ちた笑み。そして理解する。その笑みの訳を。

「そうか……おめでとう」

 二人に告げる祝辞。その二人は恥ずかしそうに……けれど幸せそうに“ありがとう”と答えてくれた。










 そうして私たちが話していると、

 キュルルルル……

 といった可愛らしい音が聞こえた。

「……みさき」
「え……えへへ、お腹すいちゃった」

 見ると、みさきさんが恥ずかしそうにお腹を押さえている。

「クスッ……そろそろお昼の時間だしな。二人は昼ごはんまだのようだな」
「そうなんだよ〜」
「やれやれ、そんじゃま、お昼を食べに行きますか」
「うん、そうだね。あ、これだけ待ったんだから、今日はお腹一杯になるまで奢ってね」
「うっ……しょうがない。頑張ろう」
「ふふ……智代ちゃん、それじゃ……さようならだね」
「ああ。二人も元気で」
「またいつか会えるといいね」
「そうだな。いつかまた、な」

 みさきさんと折原さんは寄り添うように歩いていく。
 その時、私は思わずみさきさんを呼び止める。それは、衝動的ではあるけど確かな願い。

「みさきさん!」
「え? 何?」
「一つ、願いたいことがある!」
「ん?」



「私は、貴女のようになりたいと思う。貴女を目標にしたいと思う。そう思うことを許して欲しい!」
「……うん! 智代ちゃんも頑張ってね!」



 これは誓い。いつか、貴女のように大切な人を包み込めるようになるための大切な誓い。
 そして私は最後にその二人の姿をしっかりと脳裏に刻み付ける。いつか、あんな二人のようになれるようにと願いを込めて。



 出会いは唐突。けれどその出会いは私にとって大切な出会いとなり、そして私の心を救ってくれた。
 この思いはずっと忘れないだろう。あの笑顔の優しさを、あの温もりをずっと忘れないだろう。
 それは支えであり、指針でもある。私の目指すべき、こうありたいと思う姿だ。

 そして、いつか……みさきさんと再び出会った時に、少しでも近づけていたらと、そう願う。

「……ああ、そうか。これが、私への褒美だったんだな」

 この出会いをくれた桜に、私は精一杯の感謝を込めて言う。



“あの人と出会わせてくれてありがとう”



 ……今の私は自然に笑っていられると、自信を持って言えた春の日の出来事だった。

















 おまけ


「すまん、遅れた」
「全くだ。遅いぞ」

 なんと朋也は約束の時間から二十分も遅れてきたのだ。ちょっと遅すぎるだろうこれは。
 少し睨み付ける……が、朋也の顔が青いことに気付く。

「どうした朋也。顔が青いぞ」
「あ……ああ、さっき信じられないものを見たからな」

 いいながら、朋也はそれを忘れようとするかのように頭を振る。

「どうしたんだ、一体」
「いや、くる途中であの古河パンの前を通ったんだがな」
「ふむ」
「そこに盲目の女性がいて」

 すぐに誰か分かった。けれど、そんな言い方はして欲しくない。

「朋也、そういう言い方は良くないと思うぞ」
「確かにそうだな。けど、それに気付いたのは後だけど……まぁ、とっても綺麗な人がいて」
「……それはそれで嫌なんだが」
「……どうせいっつーんだ」

 ううむ、とうなった後、とにかくと朋也は私に向き直る。

「それでな……あそこのあのパンは知っているだろう?」
「う」

 あのパンか……あの古河パンを経営している夫婦はとても暖かい感じがして、特に奥さんはとても素晴らしい女性だと思うんだが……何故かパン作りに限って言えば……その、すごく独創的になる。

「なるほど……あれを食べれる人だったのか……」

 それは驚愕に値するな。
 しかし、朋也は首を横に振る。

「それだけじゃない」

 それから、信じられないという感情を隠さないまま私に告げる。



「それを全部食ったんだ、その人が」



「………………」

 確か、いつも売れ残るのにあのパンはかなりの量があったはずなんだが。

「…………人は見かけによらないんだなぁってつくづく思ったよ」
 
 ……ああ、私もそう思う。

“今日はお腹一杯になるまで奢ってね”

 その言葉を思い出した。



 ……折原氏。ご冥福を祈る。














「クシュン!」
「浩平君、風邪?」
「いや……違うと思うんだが……それよりもオッサン、本当に代金はいいのか?」
「おう! 早苗のパンを全部食べれる猛者がいるなんて思いもしなかったからな。今日のはとりわけ危険そうだったし、残さないでくれた事への感謝の印だ」
「なるほど……ところで、後ろでその奥さんが涙ぐんでいるが?」
「へ?」
「私の……私のパンは危険物だったんですねーーー!」
「俺は大好きだぁぁぁぁぁ!」

「……えっと、どうしたのかな?」
「……うーむ、この街って一体」
 


 ―――これもまた、この街の春の一幕だった。














あとがき

長い間朋也を待っていた智代と、長い間浩平を待っていたみさき先輩が自分の中で組み合わさって何故かこんな作品が出来上がってしまいました。
いや、年下と思えない年下と、年上と思えない年上という組み合わせは書いてて面白かったです。
やっぱり智代の中にはまだ不安があるんじゃないかとか、責任感からくる罪悪感とかもあるんじゃないかという考えが浮かび、それを優しく包み込んでくれるみさき先輩の姿が浮かんでこんな形になりました。
智代の弱さとみさき先輩の強さ。そして、そのみさき先輩の強さを目標にする智代はどうだったでしょうか?
自分的にみさき先輩は優しく包み込むイメージがあるもので、それを感じて貰えたら嬉しいです。

では、楽しんでいただけることを祈って。

PS・これでみさき先輩の票が少しでも増えてくれればいいなぁと思うのは自惚れでしょうか(汗